猫のおきて
そろそろ、この家からおさらばしようと思っていた朝の事だった。
ママが倒れちまった。パパが救急車を呼んで、ママは運ばれちまった。
「やだやだ、ママ死んじゃうのお。ミカもつれてってよお。」
ママの娘のミカが大泣きで、大変なさわぎだ。
「大丈夫よ、ミカ。ママはすぐ帰って来るからね。」
ばあちゃんがなだめて、やっと泣き止んだ。
この家は、ばあちゃんとママとパパとミカとおいらが暮らしている。
おいらは猫のクロ。真っ黒だからクロだとさ。まったく安易な名前をつけたもんだ。
ほんでもって、ママはしばらく入院しちまうらしい。これでおいらの計算も狂っちまった。
猫の世界には、おきてがある。おきては必ず守らなければいけない約束事だ。身体がくたばっちまう前に、住んでる家を出て姿を消す事になってるのさ。おいらはママが子供の頃からこの家にいるから、もうずいぶんと年を食っちまった。だけどママの入院で家を出そびれちまった。
泣き虫のミカは少々うっとうしいが、おいらから見れば娘みたいなもんだ。ミカの泣きべそを見たら、出て行けそうもねえや。ママの事も心配だしな。しばらく家を出るのを延ばすしかねえようだ。ちょっと、しんどいがね。
その日からなるべくミカのそばにいるようにしたさ。ミカはもう五才だが、一人で着替えも出来ねえ。まあ、ばあちゃんがいるから身の回りの事は心配いらねえがね。
おいらの飯もばあちゃんが用意してくれる。ばあちゃんがママと呼ばれてた時からそうなってる。ばあちゃんは家の用事もしなきゃいけないから、おいらがミカのお守り役さ。だけど、なるべく早くママに帰って来てもらわねえと、おいらの身体がもたねえや。
「クロも元気ないね。クロもママがいなくてさみしいのね。大丈夫、ミカがついてるからね。」
はん、いつもこの調子だ。おいらの方がこの世界じゃあ全然年上だってえの。なのにいつも子供あつかいしやがる。そのくせ、寝る時はおいらにべったりだ。ミカの涙と鼻水で、おいらの毛並みがぐちゃぐちゃだ。
「パパ、ママはいつ帰って来るの?」
「大丈夫だよ。ママは頑張り屋さんだから、ちょっと疲れただけだからね。」
猫のおきては、もう一つある。
飯をもらって住まわせてもらったお返しに、その家の不幸を一つ持って出て行く事になってる。だから、おいらがママの病気を持って出て行くって手もある。しかし、話はそう簡単にはいかねえ。おいらももうちっとは、辛抱できそうだ。本当にもうちっとだぜ。
でも、おいらもやっと勘弁してもらえる時が来たらしい。
病院からの電話に出たのはばあちゃんだ。
「ミカ、ママが明日退院できるって。パパに迎えに行ってもらおうね。」
「本当、やったあ!」
二人のおいらにも聞こえたさ。今、この部屋には誰もいない。よっこらしょっと立ち上がったさ。
ママとは長い付き合いだった。出来りゃあママの顔を見てから出て行きたかったが、おいらにゃそんな余裕もねえようだ。
おいらは窓に飛び乗ったさ。まだ、力は残ってる。
「クロ!どこにいるの?ママが明日帰って来るって。」
そう言ってミカが部屋に入ってきた。おいらはミカと目があって固まったさ。出て行くところを見られてはならねえ。
「クロ、どこ、寝てるの?」
大丈夫だ。ミカは生まれてから、おいらを見た事がねえんだからな。
あばよ、ミカ。おめえの事がけっこう好きだったぜ。おいらはミカを残し、この家の不幸を一つ持って窓から塀へと飛び乗ったさ。
塀から道へと飛び降りた時に、家の中からミカの声が聞こえたさ。
「おばあちゃん!おばあちゃん!ミカ、目がみえるよ!」
おいらはその声を聞いてホッとしたね。
「まあ、何て事でしょ!」
ばあちゃんの泣く声もきこえたさ。
最後のねぐらを求めて遠ざかるおいらの耳に、ミカの最後の声が聞こえたさ。
「クロ―!どこおー?」
フン、やれやれだぜ。
(了)