閑話休題47『ヨルムンガンドと淡水人魚』
その日のヨルムンガンドは珍しく、蛇魔人であるヴュッカの屋敷に外泊していた。それはとある一族に興味があり、その本人達に聞く前の事前調査としてヴュッカに詳しく聞いたのである。ヴュッカにはクロの屋敷とは別に『水源の迷宮』がある虹色湖畔の湖面に球形をした独特な建築様式の屋敷がある。スルトが作る前衛的建築物の代表作である。ヴュッカも気に入っているのでその辺りは問題ない。ヴュッカにお礼をいい。お土産の美容液と顔パックを置いてヨルムンガンドはアポを取っておいたイレーヌの所へと泳いでいった。
ヨルムンガンドには興味があった。人魚族と言うと大概は海洋の生き物と思われるが、イレーヌの一族や複数の家系はこの虹色湖畔に古くから住んでいる。伝承によると『厄災』以前から住んでいると言うので、その歴史も鑑みてヨルムンガンドは調査をすることを決めたのだ。
そこでヨルムンガンドが理解したのは、彼女らの生態からちゃんと名づけるならば『淡水人魚族』である。そもそも人魚族の生まれはこの世界の大部分の人口を占める『人間種』とは生まれ方が全く違う。人魚族は人が類人猿からの派生であるのとは違い、魚類が水域に適応するために進化した形態である。その派生で既に滅んでいるが『魚人族』と括れるサハギンやマーフォークに知性があるような種族も古くは存在した。彼らは『厄災』以降に存在が消えている。
「ふむ、そう考えるとイレーヌ達は口吻や臓器も人間種と違うのか?」
「そうですね。生理学的な見識からするならば魚類に近いです。私達は雑食なのでコイ科魚類に近いところがあります。歯に関しても私達には口歯と咽頭歯があり、貝類も丸呑みで食べられるんです」
「へ~。凄い違い。完全にルーツが違うとここまで違うのか」
ヨルムンガンドとイレーヌはそのまま生理学や生態についても深く見識を重ね合わせる。
色恋狂いと有名なイレーヌであるが、実は淡水人魚族ではきっての薬術医師なのだ。確かにイレーヌは他の淡水人魚と比べても、恋愛に関しての食いつきとこだわりが激しいことはまごう事なき事実である。だが、それ以前に虹色湖畔に長く住まう淡水人魚族が受け継ぐ、『水中薬学』のエキスパートであり才媛なのだ。それを肯定するように普通の学者でもヨルムンガンドと会話をする時は、知識量の差から淀みが出てしまう程なのだが……。イレーヌはそれすらない。人魚という自分のフィールドであることも関係しているとは言え、ヨルムンガンドと淀みない学術的な論議を続けられる学者は少ない。
医者と医学者でも大きく異なるとは思われるが、イレーヌの場合はある程度の生理学、解剖学なども修めている。淡水人魚族限定とは言え、ここまで造詣深い人物は珍しい。ヨルムンガンドは楽しくなっていた。これまでは自分が問う事はあれど、双方向で意見を交わし、問い合う事はなかったからだ。研究心も強いヨルムンガンド。そのヨルムンガンドとて、まだ精神的には幼い。楽しい方向に傾いてしまうのは当然だ。
そのヨルムンガンドの意識の流れをイレーヌは読んでいる。
イレーヌは医者として長らく過ごしていた。淡水人魚族の寿命はモデルにもよるところがあるが、短くても100年は生きる。錦鯉の淡水人魚であるイレーヌはその最長寿命を誇る種族で1000年生きた例もあるという。年齢の幅のある種族を幅広く見てきているイレーヌは、それだけ幅広い会話の流れを体験していた。初めて会話においてヨルムンガンドが手玉に取られた?と言える展開である。
「ふむ。楽しかった。でも、なんでイレーヌは色狂いなんて言われてまで恋愛に燃えるの?」
「……そうですね~。話すと長いのですけど。ヨルちゃんはここに居る人魚族の男女比を見ておかしいとは感じないかしら?」
それはヨルムンガンドも誰かから又聞きで聞いたことがあった。淡水人魚族の繁殖期の水温では、女性しか生まれない。淡水人魚族は卵生ではなく卵胎生だ。これも狭い湖畔で長命種が生き残る生存戦略である。ここで困ったことになるらしい。最近、湖畔の水温は気温の上昇に合わせて高くなってきている。温度が高いと女性しか生まれなくなり、いずれ男性が居なくなる。一応、妊娠確率は低いが人間種とも交配は可能なので、そういう方向にシフトして存続はしているがそれも完全ではない。種を存続させるにはこうやって無理にでも繁殖の頻度を上げ、売れ残り続ける淡水人魚の女性を無理やりにでもカップリングすることが必須なのだ。
ヨルムンガンドはそれを余さずメモする。その時のイレーヌの表情は憂いを帯びていた。
しかし、イレーヌはクロという存在に光明を見たとも言う。クロと番う事自体ではない。『水源の迷宮』という自分達にとっては最良の住処を提供してくれた。その強大な力を持つ魔人との繋がりについてである。もちろん、イレーヌはクロをとても気に入っているし、夫として慕っている。それ以上に種族全体の恩人としての側面が非常に大きいのだとイレーヌは微笑んだ。
実際に『水源の迷宮』は上層と深層で水温がまったく違い、水温により胎児の性別が決まる淡水人魚族にとっては救いとなる場所である。イレーヌはこの期に合わせてパートナーの居ない淡水人魚の娘の多くを陸上の男性とカップリングしている。仲には例のない組み合わせもあるので、どうなるかは未知数ではあるが、当人同士は上手く行っているので問題も今のところはない。
「ごめんなさいね。政治的な趣の話を混ぜてしまって」
「いい。イレーヌがお父さんの事を好きじゃないなら問題だけど、イレーヌがお父さんのことが好きならなんら問題ない」
「うふふ。ありがとう」
「もう一つ疑問がある。淡水人魚族は海の人魚族と交流は無いの?」
そこはイレーヌの表情が曇る。実は大きな軋轢があるらしいのだ。
もとより虹色湖畔に住んでいる淡水人魚族は海中に住んでいる人魚族とは交流は一切ない。薬剤を使って浸透圧の調整さえすれば彼女らも楽々海水への適応は可能だが、虹色湖畔は内陸のど真ん中にある。これまでは交流する理由も一切なかった。しかし、時は数か月前に遡るのだが、ヴュッカとイレーヌ含む10数名の人魚はとある海中の種族を救出していた。
その種族とは今では『水源の迷宮』の一員として欠かせない『スキュラ族』である。タコ足の人魚という風貌で、力と魔法の両立ができている武を重んじる種族だ。その種族は古くから海水人魚族と不仲だった。今ではここに順応しているスキュラ族であるが、未だに海水人魚族への恨みを拭いきれていない。多くの同胞を失い。故郷を追われ、何とか逃げ延びた一団と後日に捜索隊が連れ帰った生き残りが現在ここに居るスキュラ族である。
なので交流がどういう影響を出すか解らないので、イレーヌなどの中枢に触れる淡水人魚もその辺りには触れかねているのだと重々しくこぼす。
その面倒さはヨルムンガンドもよく理解していた。種族の軋轢というのは本当にめんどうな物で、最初は大したことない理由でも、継代的に積み重なった怨嗟は簡単には拭えないのだ。姉のスルトが管理する『豊穣の迷宮』を治める上で、『喧嘩したらばダチぜよ』という暴論を振りかざすが……。全てがそのように解決するならば、この世界の争いは簡単に解決している。ヨルムンガンドはイレーヌが告げた生態のデータを収集したノートの最後に、その懸案事項をメモしてクロの執務室の机の上に置いておく。ヨルムンガンドは学術屋としての友人リストにイレーヌをピックアップした。その友人のために、ヨルムンガンドも一肌脱ごうという、彼女なりの意思表示である。
後に海中でヨルムンガンドが大暴れすることになるのだが、それはまだまだ先のお話。




