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アポトーシス  作者: 楢原夕
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壊れた細胞を紡ぐ

 午前五時、寒さで目を覚ました。丘の上に立つこのマンションは風通しが良くて、窓を開けて寝ると寒い。もう六月も下旬で、初夏と言うには少し暑い季節のはずなのだが。

 しかし、そよそよと入ってくる風と薄暗い雰囲気が気持ちよくて、しばらくベッドの上でボーっと過ごした。どこか違う国の知らない場所なのに、懐かしい気持ちになる不思議な朝だ。このまま、この知らない国に居れたらいいのだけど。

「おはよう」

 朝日が完全に昇りきった午前七時。ベランダに植えている大量のハーブに水をあげながら朝の挨拶をした。幼い頃から植物に囲まれて育った私は、大人になって一人暮らしをするようになってからも植物に囲まれていないと落ち着かず、ベランダにはハーブ、部屋の中にも花や観葉植物を沢山置いている。

 育てているハーブとフルーツの入ったデトックスウォーターを飲みながら、NHKのおはよう日本を見る。数年前の流行り病により、リモートワークが普及し、その流れでここ数年間はオフィスには週二~三回程度出社をしてるが、それ以外は自宅で仕事をしている。

 仕事は製薬会社でのマーケティングアシスタントだ。かれこれ五年程働いている。大学の専攻は国際社会学部で、大学卒業後は商社に勤めていたが、自分の体の不調をきっかけに生物学にのめり込み独学で勉強をして生物学に関する民間資格を取り、医薬系の会社へ転職をした。 私はマーケティング部にて医療機関や薬局、学会で使用をするパンフレットや販促物を作成する部門でのアシスタントをしている。学んだ事が活かせる上に、体の隅々まで知る事が出来るので、とても楽しい。

 今日は、午後から出社をした。

「iPS細胞で脊髄損傷の治療をしている方の症例を入れておきたいんだけど、お願い出来るかな?」

「分かりました。先日頂いたデータと画像を使用して大丈夫ですか?」

「大丈夫。大学病院と研究所から画像の使用許可は貰っている」

 医学部を出て、国立感染症研究所に研究者として勤めていた澤田さんは私と同じ頃にこの会社に入ってきて、一ヵ月程前に私の居る部署に異動をしてきた。きっと頭が良いに違いないし、とてもやりがいのありそうな仕事なのに、どうしてサラリーマン勤めをする事を選んだのだろうか。五十歳手前だと先日自分で言っていた。奥様と娘さんの三人暮らしという事も言っていた。

「iPS細胞はどこまで使えるようになるんでしょうね。アルツハイマーにも使える日が来ると思いますか?」

「もう治験は始まっている。時機に使える日がくるんじゃないか。私も専門ではないから分からないが」

 私の神のみぞ知る質問に澤田さんは笑顔で答えてくれた。いつか、ではなくて時機にと言ってくれた。

 一つ大きな病が流行ると、そこから数年間は既存の新薬開発に加えて、新たな新薬研究が始まる。病の流行により、利益を上げるとは何とも皮肉なものだ。

 私は今も家で一人机に向かって、受験生のように毎日生物学に関する事を勉強している。日々新たな論文が湧いて出てくるが、気になるものは全て目を通している。家と会社の往復だけの日々で、他人から見れば何が楽しくて生きているか分からないような生活だが、生きる目的や生きるという事を誰よりも考え勉強しているのだ。誰よりも私は生きている。

 週末、特急かいじに乗って実家のある山梨に帰る。ここ一年間はほぼ毎月週末は実家に帰っている。山梨の北部にある実家は自然豊かで私の住むマンションよりも涼しく、静寂である。

「お母さん、ただいま」

「花恵、おかえり。毎週ありがとうね。お父さん、お庭にいるよ」

「分かった」

 リビングからも庭が良く見えるが、リビングの脇にある廊下を抜けるとテラスがあり、父はそこのテラスにある椅子に座っている。

「お父さん、ただいま」

「花恵、おかえり。久しぶりだね。よく帰ってきたね」

 父は一年前にアルツハイマー型認知症と診断された。私や家族の事は認識出来ているが、短期的な記憶が失われるため毎週帰ってきても、その記憶はすぐに消えてしまうようだ。

「お父さん、東京に戻る時にそこにあるドウダンツツジを切って持っていってもいいかな」「あぁ、もちろんだよ。あとで切ってあげるからね」

「ありがとう」

 きっと父がドウダンツツジを切ってくれることはないだろう。

「お父さん、花恵、お昼ご飯出来たから食べましょう」

「そうだね、今日のお昼は何だい?昨日は焼きそばだったかな?」

「あら、お父さん、昨日は炒飯でしたけど今日は焼きそばです」

 母が嬉しそうに笑っている。

 父がアルツハイマー型認知症であると分かった時、母はとても落ち込み、父の介護を出来る状態になかった。それでも病気になった父への愛がまったく変わらずにあったため、父が死ぬまで自分が介護をすると決意したらしい。最近では、少しすっとぼけた父が可愛く見えるらしい。夫婦ってすごい。

「花恵、いつまで山梨にいるんだ?」

「今回は有休を取ったから火曜日までいるよ」

「そうか。仕事はどうだ?」

「うん、すごく楽しいし順調だよ。アルツハイマーが治る薬が発見されないかな~って毎日新薬の情報を見たり、論文も読んでるよ」

「あはは、そんな薬はまだないだろ?お母さんと花恵と美鈴の事をしっかりと覚えていられているだけでいいんだよ」

 美鈴は三つ下の妹で、既に結婚をしている。山梨県内に住んでいるので、実家にもよく帰ってくるらしい。私もたまにメッセージにやり取りをするが、ここ最近は会っていない。

 お昼ご飯を食べ終わると父はまたテラスに向かった。

「お母さん、お父さんの症状はどう?重くなったりしてる?」

「ううん、毎日一緒に居るから気づけてないだけなのかもしれないけど、重くなっているようには感じないの。アルツハイマーって分かった時に、主治医の山田先生からも進行していくものだからこれから介護が大変になるって聞いたじゃない。この前も先生のところに行ったら、一年間診察してて、少しずつ進行してるように思うっていうんだけど。花恵はどう思う?帰ってくる度にお父さんの症状変わってきてるって思う?」

「う~ん、たしかにね。私もあまり進行してないように感じるんだよね。研修だったり、薬の治験だったりの見学で色んな病院でアルツハイマーの方々を見るんだけど、進行のスピードが違うんだよね。病院での診察の時って、家に居る時とあんまり変わらない様子?」

「そうね~、あまり変わらないように見えるわね。そうそう、MRIの画像を見るとね、たしかに少し進んでいるような気もするんだけど。レントゲンみたいな画像って素人のお母さん達には分からないじゃない?だからいつも結局良くなってるのか、悪くなってるのか分からないの」

「まぁ、進行してない分にはいいんだけどね。不思議だよね」

 父がアルツハイマーだと分かった時、私もそこそこにショックで実家に帰って介護をしなければいけないと思っていたのだが、思った以上に父のアルツハイマー型認知症によって失われた記憶は少なく、危機感が薄れ今まで通りの生活をしてしまっている。

 翌朝六時前に目が覚めた。この前と同じ感覚だ。薄暗い部屋が、どこか他の国に感じる。起きてリビングに行くと、既に起きて庭の手入れをしている父の姿が見えた。二百平米程もある大きな庭は一年中綺麗に手入れがされている。朝五時に起きて毎日手入れをしていると母から聞いた。

「お父さん、おはよう。今日もお庭綺麗だね」

「花恵!こんな朝早くにどうしたんだ!」

「あ、ごめんごめん。お父さん、私は昨日帰ってきたんだよ。昨日から実家に泊まってるから」

「あぁ、そうだったね。大きな声を出してしまってすまない。花恵も剪定を手伝ってくれないか?」

「うん、もちろんだよ」

 やはり父の昨日の記憶はなく、朝一で驚かれてしまった。本当に短期的な記憶だけは消えてしまうんだな。昨日の事を忘れてしまい続けて一年という事は、父はずっと一年前に生き続けていて、一年後にはずっと二年前に生き続けているということになるのか。何だか私達ばかり歳を取っていってしまうようで少しさびしいな。

「あら、花恵も起きていたのね!早いわね」

 六時半になると母も起きてきた。私も一緒に起きているのは予想外だったようだ。

「うん、なんかね最近五時頃に目が覚めちゃうんだよね。起きたらお父さんも起きてたから、一緒に剪定をしていたの」

「そうなのね。アナベルが見頃になってるわね。少し切ってもらって家の中に飾ろうかしら」

「分かった。後で持っていくね」

 アナベルを切り取る前に少しテラスで父と休憩をした。

「花恵、ずっと東京に居るつもりなのか?」

「う~ん、どうだろうね。お父さんはどう思う?帰ってきてほしい?」

「あぁ、それはもちろん帰ってきてくれたら嬉しいよ。でも、もしかしたら花恵が私の病気を治してくれる薬を見つけてくれるかもしれないからな」

「そうだね。もう少し私に出来る事がないか東京で考えてみるよ」

 実家でのんびりしてる時間はあっという間で、東京に戻る日の朝を迎えた。この日も起きたら父は庭で花や木々の剪定をしていた。父は増えすぎたドウダンツツジの枝を切っていた。初日にドウダンツツジを持ち帰りたいという話しをしたが、それはもう父の記憶にはないだろう。父の手からドウダンツツジが無造作に投げ捨てられた。

「花恵、今日は天気も良くないし甲府駅まで送っていこうか?」

「ううん、大丈夫。小淵沢から乗るよ。お母さんもお父さんの面倒で疲れてるでしょ」

 母が甲府まで送ってくれると言ったが、何だか一人になりたい気持ちもあったのと先週発表された論文できになるものがあったから電車の中で読んでおきたい。

「花恵、気を付けて帰れよ。疲れたら山梨にいつでも帰ってきなさい」

 父も最寄り駅の小淵沢駅まで見送りにきてくれた。毎週帰ってきてるのだが、父の記憶は一年前のまま。仕方がない。

「うん、お父さん。また帰ってくるからね。あ、そう言えばお父さんにメモを残しておいたの。冷蔵庫にマグネットで留めてあるから、あとで見てね」

「メモ?手紙か?あとで読んでおくよ。母さん、私が読むのを忘れていたら教えてくれ」

「分かりました。きっと忘れているでしょうから、帰ったら伝えますね」

 二人が笑顔で話している姿を見てほっとする。また今週も東京で安心して働けそうだ。

 朝起きてテレビをつけると台風が発生したというニュースが流れていた。そうか、もうそんな季節なのか。ただでさえ梅雨の最中で雨の日が多いというのに、しばらく太陽が見えないのか。明日の午後から風が強まるようなので、今のうちにベランダにある鉢植えを部屋の中にいれた。1LDKで四十五平米の部屋は一人暮らしには十分過ぎるほど広い。植物達を部屋の中に入れても問題はない。


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