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後編 さよならのために


 私の人生の転機は、間違いなく十五の夏だろう。

 それ以前は、普通の高校二年生として青春を謳歌していた。それが狂ったのは、Cubeの粗悪品が流通し出したことがきっかけだ。

 人々がCubeの可能性に熱狂していたあの頃(新しいものが実態よりも注目されることはよくあることだ)、私の両親も例に漏れずCubeに夢を託した。そうしてCubeに熱狂的に取り憑かれた彼らは、子供の将来も日々の生活も完全に度外視になってしまったのだ。Cubeを利用した事業で一獲千金をすれば、何もかもが上手くいくと思っていたんだろう。

 その結果、待っていたのは破滅だった。両親の失踪し、私は仕方なく学校を退学した。Cubeの夢は呆気なく敗れ、手元にあったのは今持っている<Cubeーー引力>のみだった。そんな「ありふれた」悲劇の中で、私は生きていた。今までの敷かれたレールとは全く違ったけれど、Cubeを使って生きていくことはできていた。


 李芳リー・ファンに出会ったのはいつだっただろう。確かお金になるからという理由で、Cubeを使用して小遣い稼ぎをしていた帰りだったと思う。あんまり覚えていないけど、あまり褒められた依頼ではなかったはず。

 それなりに品のいい服を着ている、浮浪者が徘徊するこの場所には相応しくない青年が道路の隅っこで倒れていた。遠くから眺めていたから分かりにくかったけれど、おそらく泥酔しきっているようだった。そんな状態の青年ーー李芳リー・ファンに対して浮浪者の一人が喚き散らしていた。確か殴られてもいたと思う。そんな状況下で、李芳リー・ファンは一切抵抗することなく佇んでいた。

 李芳リー・ファンは質のいい上品なスーツに身を包み、その立ち振る舞いには余裕があった。李芳リー・ファン自身から受ける印象と彼が今置かれている状況はあまりにもちぐはぐで、真面目な学生がちょっと冒険して煙草を吸っているような滑稽さを覚えていたと思う。その場違いなあり方は、もう生きることに希望を持てない人間の神経を逆撫でする振る舞いだった。

 そんな様子がちょっと気になって、目が離せないでいた。助けることもせずに遠くから眺めているだけなんて不道徳だと理性が訴えていたけれど、それを無視してただ見ていた。

 ひとしきり怒鳴り散らしたあと、浮浪者は飽きたようにあっさりその場を去った。なんの反応も示さない李芳リー・ファンに対して怒鳴ることに虚しさを感じたのかもしれない。対して、李芳リー・ファンはというと、その場所から離れることもせずに壁にもたれかかって寝ていた。

 そのとき、魔が刺したのだ。どんな顔してここにいるのか気になった。あの浮浪者は、なぜあそこまで怒っていたのか確認せずにいられなかった。

 なるべく気配を消して、李芳リー・ファンに近づいていき顔を覗き込む。整えられていない長い髪に、疲れを伺わせる目の下の隈。だけど、男性とは思えないほどきめ細かい肌と切長の瞳がこの場所に馴染むことを拒んでいた。そのアンバランスさは、近くで見るとなおのこと滑稽だった。


「気付いているんですよね? こんなところで寝ていたら身包み剥がされちゃいますよ」

「なんでも持っていけばいいさ。とにかく、話しかけないでくれ」

 李芳リー・ファンはそうやって私を遠ざけようとしていた。そうやって、人を寄せつけないようにしているその態度は、やはりどこかボタンを掛け違ったような違和感を持っていた。多分この人はこんな風に無愛想に話せる人じゃないんだろうな、と思ったものだ。


「あははっ」


 意識しないうちに口角が上がってしまっていた。李芳リー・ファンの表情がさらに険しいものに変わる。不服そうに口を開いた。

「何が可笑しいっていうんだい」

「ごめんなさい。ただ、アウトローになろうとしているけどなりきれていないところが面白くって」そう言って、諭すように口調を変えた。「何があったのか全く知らないですけど、帰りましょうよ。ここは貴方がいる場所じゃないんです」

「別にここだけじゃない、僕はどこも馴染めないんだ」

 そう言うと、自嘲気味に笑った。

「そんなことないですよ。ほら、立って」

 強引に李芳リー・ファンの腕を引っ張った。

「いやだね」

「駄目です、立ってください」

 Cubeの力を使って、強引に立たせた。李芳リー・ファンの目は本当に勘弁してほしいと訴えかけていたけれど、私はそれを無視した。今思うと誰かを助けることで、今自分が仕事に対して持っている罪悪感をチャラにしたかったんだと思う。

「君は、信じられないぐらい強引だな……」李芳リー・ファンは諦めたようにそう呟いた。「分かった。今日のところは家に帰るよ。酒で足元がふらついているから、支えだけ頼めるかい?」

「ええ!」

 私はキラキラした目でそう答えていたと思う。


 道中、私たちは様々なことを話した。私がなぜここで住んでいるのかや、今家族がどうしているのか。そうやって、話すたびに李芳リー・ファンの顔が暗くなっていった。それを見て、多分Cubeに関連する大きな後悔があるんだろうなと感じたのだった。


「でも、なんとか生きていけてますから。家族が失踪して、もっと絶望するのかと思っていたんですけど案外大丈夫みたいです」

 私は随分と薄情な人間だ。だから、目の前のこの人みたいにいちいち落ち込んだりできない。今も昔もそれは変わらないと思う。

「そうか」

 彼は淡白にそう返事をした。

「貴方はどうして道端で寝転がる羽目になったんです。 恋人が自分のせいで死んじゃったとか?」

「そんなロマンチックなことなら良かったんだけどね……詳しくは言えないけれども、自分の技術で大勢が不幸になったから自暴自棄になってたのさ」

 言語化すると本当に滑稽だな、と彼は笑った。自嘲気味ではあったけれども、まとう雰囲気は落ち着いたものだった。そのとき、こちらが素に近いんだろうなと思ったものだ。

「漫画に出てくる科学者みたい」

「確かに近いものがあるな。ただ、僕はその後なんとかするために活躍する気力なんてなかった訳だけど」

「別にいいじゃないですか。物語の主人公じゃあるまいし」

「そういうものかい?」

「人間一人に「たくさんの人を救う」なんて大それたこと、考えること自体できませんよ」

 自分自身でさえも救うことができずに、薄汚れた街に染まって生きている私にはそうやって答えることしかできなかったーーでも、今言ったことは間違ってはいないと思う。「たくさんの人の運命」なんてものが一人の肩に乗るわけがない。

 

「蘭々じゃないか!」

 そうやって和やかな雰囲気になったとき、前方から知人に声をかけられた。その後ろには体格のいい男性が控えている。彼はあの頃の私の人間関係としては比較的「悪い人」ではなかったけれど、そのとき会いたい人ではなかった。だって、口外するのは憚れるような仕事を紹介されていたのだから。

「お、お久しぶりです」

「誰だい? その人」

「通りすがりの人で、困っていたみたいで……」

「へえ。やっぱり蘭々はいい高校行ってただけあって優しいね。ただ、今お願いしたい仕事があってさ。彼は俺がなんとかしてあげるから、そっちに行ってくれない?」

「えっとーー」

 彼から請け負う仕事は、よく言えばCubeを悪用しようとする連中を懲らしめるというものだった。悪くいうと、借金で首が回らなくなった人達がやけを起こすときに、それをなんとか対処する仕事だ。その方法は当然優しいものであるはずもなく、私は失踪した両親と同じような立場の人間を日々痛めつけていた。

「先約があるので、ちょっと厳しいかな……」

「あのね、蘭々のことを悪くいうつもりはないんだけどさ。僕らがいるから君は生活できている訳でしょ。多少は融通を効かせないといけないんじゃないかな」

「……でも」

 会話をしながら、やっぱり道端で寝ている人なんかに声をかけるんじゃなかったと思った。李芳リー・ファンのヒロイズム的な考え方に少し影響されてしまっていることを後悔していた。今までなんとも思わないようにしてやってきた仕事に対して、やりたくないなんて思ってしまったのだから。

「私、辞めようって思ってますから。この仕事」

「はあ?」彼は呆れたように言った。

「だから、辞めるんです。もうこれっきりにします。今決めました」

「蘭々、それじゃ生活できないだろう。まあ、ちょっと危ない仕事だけどさ。頑張ろうよ」幼子を嗜めるように言われた。それがどうしてもーー


「貴方とは縁を切るって言ってるんです! 何回言ったら分かるんですか?」

 許せなかった。だから、そうやって啖呵を切ってしまったのだ。もちろん、他に稼ぐ当てなんてないのに。

「お前、今までの恩を忘れたのか? 許す訳ないだろう」

「貴方と何か契約を結んだ覚えなんてありません。縁を切ろうが私の自由です」

 大声を張り上げて高らかに宣言してみせた。

「ガキが生意気言いやがって……」

 そうやって、片足を揺すりながら小声で口汚く罵ったのちに、男は後ろを向いて歩き出した。短絡的なその頃の私は諦めてくれたのだと思った。でも、そんなはずはない。敵対するかもしれないCube保持者がそのまま放置される訳ないのに。

「Cubeーー増幅」

 両隣にいる男がそう言うのを他人事のように私は見ていた。屈強な男がこちらに拳を向けているのが見えて、ああ殺されるんだなと脳が理解した。頭が真っ白になって、抵抗するという選択肢が見えなくなった。かつての私は用心棒的なことをしていたこともあったけれども、本職に勝てるとは到底思えない。だから、抵抗しようとは思わなかった。

「Cubeーー重力」

 そこに、これまで会話に参加してこなかった李芳リー・ファンが割って入った。そのコマンドに合わせて、男が潰れたカエルみたいに地面に伏せる。それを呆気にとられて見ていた。お金はあるようだったからCubeを持っていてもおかしくなかったけど、こんな威力のものを持っているなんて想像していなかった。


「何ボーっとしてるんだ! 走るよ」

 李芳リー・ファンはそう言って私の手を握って走った。それを見て泥酔しているのに走れるのか、とどこか冷静に思っていた。何だか夢のようで、きっと惚けていたのだと思う。

 李芳リー・ファンは、振り切ったと思われるタイミングでやっと歩みを止めた。お酒が入っているのに全力疾走するのはやっぱり良くなかったらしい、額には汗が浮かんでいた。

「久しぶりにこんなに走ったーー本当ならそのまま気絶させてしまっても良かったのだけど、騒ぎになったら面倒だったからね」

「……もう十分、騒ぎになってますよ」

 李芳リー・ファンのこの一言で私はやっと気づいた、とんでもないことをしてしまったことを。さっきの行為は、この辺りを取り仕切る連中に泥を塗ったに等しい行為だ。到底許されるものではないし、これから私がどうなるかなんて考えるまでもない。

「滅茶苦茶、じゃないですか。どうやったって取り返しなんてつきませんよ」

「そんなことないよ。君の力を必要としている人は他にもいるだろうし……」

 そんなものが存在するとは思えなかった。万が一にそんな人がいたとしても、ここの連中を怒らせたことに変わりはない。奴らが私を許すとは思えなかった。

「いませんよ! そんな人いない……貴方のせいです。貴方が中途半端に綺麗だから、私もそんな風にもう一回なれないかな、なんて思っちゃった!」

 あのとき声をかけたのは私だし、しつこく絡んだのも私だったのに、それを忘れたように糾弾した。八つ当たりにも程があった。

「……僕は別に綺麗じゃないよ」そう言って李芳リー・ファンは苦笑した。

「世界のことなんかで悩んでいる人なんて、綺麗に決まってるじゃないですか。ホント、美しい悩み事で笑っちゃいました」

「僕は、結構真剣に悩んでたんだぜ?」

 この一言は、流石に勘に障ったらしい。

「……それは、分かってます。でも、世界だとか大きいものについて悩める人は凄いんですよ。普通の人はそんな風には悩めない。ましてや、家族を探すことすら諦めた私にとっては眩しいんです」

 李芳リー・ファンのようにまでとはいかなくてもまともな感性を持っていたら、家族を探し出してまた一緒に暮らそうとするのかもしれない。でも、私は日々の生活に必死でそんなことはどうだってよかった。

「私には生きるため、それだけしかなかったのに」

 それすらも無くなってしまった。

「さっきまで世界について悩まなくていいって僕に断言してたのに、随分弱気じゃないか」

 李芳リー・ファンは宥めるようにそう言った。瞳の奥には落胆したような色が浮かんでいた。

 確かにそんな助言はした。けれどもそれは、能天気に自分のことは棚に上げて話していたからそんなことが言えたのだ。

「状況が全然違うじゃないですか……今、本当にピンチなんですから」

 そうやって意気消沈している私を見て、李芳リー・ファンは眉尻を下げた。

「確かに今の君の状況を見る限り、僕の方がまだマシかもしれないね」

 李芳リー・ファンはそう言った。確かにそのとおりーーではなかった。


「っ、そんな訳ないじゃないですか!」

 確かにそのとき人生詰んだと思っていたけれど、それとこれとはまた話が別だ。

「世間が自分のせいでおかしくなったなんて思ってる人だって私とそう変わりませんよ。貴方は自分の考え方のせいでそうなってるんですから、そう考えたらもっと悲惨です。自分の根本を変えることはとっても難しいんですから」

「え、っと……てっきり、僕はそのとおりって同意されると思ってたんだけど」

「そんな訳ないじゃないですか。世界の皆への罪悪感で押し潰されるなんて、私は絶対にごめんです」

 確かに彼の考え方は綺麗ではあったけど、別に自分がそうなりたい訳じゃなかった。

「君はしおらしくなったり、かと思えば啖呵を切ってみせたり良くわからないね」

 そう言って面白そうに李芳リー・ファンはクスリと笑った。なんとなくデジャヴ。

「それは、貴方があまりにも見てられないからです。生き方が不器用すぎて、自分で自分の首を絞めてるみたいじゃないですか」

「君みたいな若い子に言われたくないな」

 李芳リー・ファンはそうやって自分のことを総括されるのは、気に食わないらしかった。

「私みたいな子供でも分かることってことです……はあ、貴方身なりは悪くないんですから、そういうの正してくれる人を作った方がいいですよ。自責の念に苛まれている人が友情とか恋愛とかそういうものに出会って救われる、って物語でも良くあるじゃないですか」

 自分自身が言われたら憤慨するような台詞を吐いた。でも、この人はなんとなくそういう人に出会えそうな気がしたのだ。ちょっと変わってるけど久々に見た「いい人」だったから、そういう人は幸せになるって信じたかったのかもしれない。

 李芳リー・ファンは怒ることもなくじっと考え込んだ。その間は、およそ三十秒ぐらいだったと思う。そうしてやっと、重い口を開いた。


「僕は、もしかしたらとてもいい案を思いついたのかもしれないのだけど」

「いい案って何です?」

「つまり、君は衣食住と安全を確保したくて、俺は一人だとおかしな方向へいってしまうことが問題な訳だ。なら君が住み込みで僕の手伝いをしたら、あいつらが狙うこともないだろうし、僕も自堕落な生活からはおさらばできると思わないかい?」

 確かに、それなら私の問題は解消できる。でも、その条件はあまりにもーー

「私に有利すぎませんか?」

「そんなことないさ。僕の駄目人間っぷりを見れば分かるはずだよ」

 そう言って、李芳リー・ファンはどこか誇らしげに胸を張った(情けない大人だ)、提示された条件はどう考えても、私が有利なものだった。けれども、衣食住と安全の保証というニンジンに負けてしまったのだ。私に人を救うなんて感動的な役割が果たせるとは思えないけど、そういった人に出会うきっかけぐらいにならなれるかもしれない。

「……まあ、いいですよ」

 

 そうして、奇妙な師弟関係が誕生したのだった。私はこのあと李芳リー・ファンの生活のだらしなさに驚愕することになる。朝から晩まで飲み歩いて、どこで潰れているのかわからない。やっと依頼を受けて仕事を始めたかと思えば、三日三晩ぶっ続けでやっていたりする。そんな不安定さに対して、いちいち小言をいう必要があった。それに加えてまともな生活能力がないので、家事全般やらなきゃいけない。当初想像していた以上の仕事量に、安請け合いしたことを後悔したぐらいだ。おまけに突拍子もないことをなんの前触れもなく言うのだ。山奥に引っ越すこともその前日に言い出したことだったりする。

(そんな風に、面倒を見る必要がなくなったのはいつだっけ……?)

 李芳リー・ファンは以前と比べると、本当に健全な生活を心がけるようになった。それに従って、私も昔のように小言をいうこともなくなった。私を置いて、李芳リー・ファンだけが普通に生きることができるようになっていく。違う、そうじゃない。李芳リー・ファンは今も罪悪感に苛まれているけれども、隠すのが上手くなっただけだ。そして、隠す必要があるのはーー

「私が子供だから、か」

 精神的に余裕が出てきてから、李芳リー・ファンは露骨に子供扱いするようになった。そんな李芳リー・ファンを見ていると、自分が未熟であることを痛感して李芳リー・ファンに何か言うことができなくなっていった。私はそれがとても嫌だった。これまで通り、隣を歩きたかった。置いていかれるのは御免だった。そう思っていたのに、どうして諦めようとなんてしているのか。


(ダメだな、私)

 李芳リー・ファンやその周りの人と一緒にいるうちに、それを失うことに臆病になってしまっていた。大切なことが増えるうちに大胆に動くことができなくなっている。普通に生きていくなら良いかもしれない。でも、李芳リー・ファンと一緒にいたいならそれじゃダメなのだ。今の自分を構成している李芳リー・ファンに出会ってからの月日を守りたいなら、殻を破って出ていかなくちゃいけない。

 魔羅マラからの攻撃に耐える方法を考えるしか使ってこなかった脳細胞を、この空間の破壊のためにフル稼働させる。自分の持ちうる全ての知識を使って、空間の破壊を誘発させる狭間を探す。そのためにはまずやるべきことは、この空間の異常な点をはっきりさせることだ。狭間は現実空間と虚構空間の隙間を指すのだからおかしなところを探した方が早い。

 一見、空間自体が遊園地に変化してしまったことに注目するべきのように思える。でも、遊園地という場所自体は固定されていて「揺らぐ」ことはないのだ。そう考えると狭間であるとは考えられない。他に気になる点といえば、エネルギー体を放つ杖と侵食を促すというこの空間の性質だ。この空間の切り札である後者の方があやふやな部分を内包していそうな気がする。

 この空間にかかる侵食の効果は、魔羅マラの切り札であると同時に急所を晒している場所である。これが私の立てた仮説だ。立証するためにはそれなりのリスクを伴う。もし、外れていれば傷を増やすだけだろう。でも、試してみなくては何もわからない。

「はぁ……っ」

 攻撃を避けるスピードを落として体力が尽きたように演出する。実際、体力は限界に近いのでとても演技とは思えないような迫真さを演出できているはずだ。静止をしている期間を合間に挿入して、魔羅マラの反応を見る。この方法は沈んでいく身体を引っこ抜くためにCubeの力を利用するため、身体に痛みを蓄積することになるが仕方ない。

「そろそろ疲れちゃった?」

 そうやって、ニヤついた笑みでこちらを見つめていた。その瞳は一遍たりとも自分の勝利を疑っていない。格下の相手をいたぶるのが楽しくて仕方ない、といった様子でこちらに向けて杖を向けるーーこちらに、向かって?

 そうだ、魔羅マラは最初の攻撃を除いて一度たりとも他の場所に転移してしまった私の身体を狙っていない。左足を負傷したあの瞬間だって、本当は転移してしまった左足首を頭への攻撃が失敗した時点で狙えば良かったのだ。それをしなかったのは何故だろう。 

 そう思い、左足の裂傷部分に目をやった。そのとき、発見したのは転移してしまっており、あのとき攻撃することは不可能であるはずの左下腿部分にまで裂傷が広がっている事実だった。

「っぐ、Cubeーー引力!」

 Cubeの力を利用して、沈んでしまった部分を無理やり抜く。激痛に顔が歪んだがここで立ち止まるわけにはいかない。やっと、一つ一つの点が繋がってきたのだ。現実空間と虚構空間との狭間には空間同士を接続したことによる歪みが存在すること。侵食を受けどこかに転送されていたはずの左下腿にまで裂傷が広がっていたこと。魔羅マラは何故か転移させた部分には攻撃しないことーーだったら、やることは一つだろう。


 こちらに向けて魔羅マラは執拗に攻撃を加えてくる。私の状態は満身創痍に近いものであるし、おそらく畳み掛けようとしているのだろう。攻撃の軌道を予測しながら、時にCubeの力も利用して身体にかかる負担を最小限(できていると信じたい)にする。

 不意に左足に激痛が走った。戦闘前に服用した麻酔薬はそんなに強いものじゃないから、効かなくなってきているのかもしれない。もう一度、静止状態を作り出すのは怪しまれるんじゃないかと思っていたが問題なさそうだ。だって、本当に今動くのは難しいのだから。迫真の演技に騙されてくれるに違いない。

 右手が蜃気楼に飲まれるように消えていく。魔羅マラがこちらに向けて攻撃を加えようとしているのが見えるが、そんなことは問題じゃなかった。ここからは自分の度胸が試されるのだ。

 今まさに消えつつある右手は空中に姿を現しつつあった。右手に目を離さないようにしながら、可能な限り後ろに下がる。二歩助走をつけてナイフを持つ左手を大きく振り上げた。その勢いを利用して、空中に浮かぶ右手へ思いっきり左手を近づける。


「Cubeーー引力!」


 Cubeの力も推進力に利用する。ナイフを投擲に利用するなんてしたことがなかった。だけど、これなら右手まで届くだろうーーいや、届かせる!


(自分の身体に向かってナイフを投げるなんて、二度とない経験だろうな)

 魔羅マラがこちらに向かって何かを叫んでいるのが聞こえるが、そちらには目も向けない。勢いが最大限になったところでナイフを投げつける。後のことは李芳リー・ファンに任せると決めたーー無論、空中に浮かんでいる右手は実は幻なんじゃないか、なんていう憶測が当たっていればの話だけど。


 ナイフが自分の右手に向かって吸い込まれるように向かっていく。ただの幻であって当たっても何も起こらないと信じていても、激痛のために準備してしまう。ほとんど本能みたいなものだろう。

 とうとう右手にナイフがたどり着いたそのとき、全身がビリビリと震えた。空は右手があった場所を中心に、まるでノイズが入ったかのように姿を変えており地面は湾曲していく。空間自体に何かを起こすことには成功したのだ。やっぱり右手は幻でもあり、この空間の揺らぎでもあった。魔羅マラが私に向かって放っていたらしい攻撃も無事に逸れてくれていたらしい。今日は運が良い。

「蘭々、耳と目を閉じろ!」

 李芳リー・ファンから通信が入る。中低音の心地いい声を久しぶりに聞いたような気がしながら、私は素直に従った。

 一呼吸置いた後、今までとは比較にならないほどの轟音があたりを占めていた。暴風と地震に私はまるで洗濯機の中にいるような気分だ。ゴロゴロ転がっている自分は側から見るとかなり不恰好だろう。

 空間の異常気象が一通り止んだ後、魔羅マラが私に向かって攻撃を加えようとしているのが見えた。向こうもこの異常気象で立派な燕尾服がボロボロだったが、満身創痍な私よりは元気そうだったーーつまり絶体絶命のピンチってやつだ。

 魔羅マラがこちらに向かって攻撃を放つ。私もCubeを利用して軌道を避けようと構えた、そのときーー空に広がるノイズの中心部分から何かが落ちていくのが見えた。私がはっきり視認するよりも前にそれは魔羅マラの前に向かって飛びかかっていく。

 魔羅マラが繰り出した攻撃をその影ーー李芳リー・ファンは呆気なく避けた後、左足を振り上げて脇腹へ向かって蹴り上げた。その動作一つ一つに無駄はなく洗練されている。魔羅マラは存外脆かったらしく、足蹴りを受けたあとに蹲って動かなくなった。優れたCubeの使い手には学者崩れが多いらしく、あまり身体は強くない場合もあると聞いたことがあるが魔羅マラはそのタイプだったらしい。

 空間自体も狭間が受けたダメージに耐えられなかったようだ。目の前の空間には玩具の城は消え去っていて、代わりに薄汚れた廃墟ビルの一角へと変化していた。私と魔羅マラの攻防の跡は見られるものの、玩具の城の残滓はどこにもない。魔羅マラ自身は意識を失っているようで、大人しく李芳リー・ファンに縛られていた。

 Cubeの効果も消え去り本人も意識不明。つまり、一件落着ってことだ。安心すると急激に眠気が襲ってくる。任務が完了したんだからこの眠気に逆らわなくても良いんじゃないんだろうか。そんなことを思っているとだんだんまぶたが重くなる。重力に従うように私のまぶたは閉じつつあった。李芳リー・ファンが近づいてきて傷んでいた左足の手当をしてくれているし、もう心配ないだろう。私は微睡まどろみに身を任せることに決めた。


「イタイ!」

 沈んでいた意識が一気に浮上する。両頬に痛みを感じて私は眼を開けざるおえなかった。痛覚を抑えてくれる錠剤の効果なんてすっかり切れてしまっていたから、両頬を掴まれたら普通に痛いのだ。恨めしそうに、頬を掴む目の前の人物を見る。

「両頬が赤くなっちゃたらどうするんですか」

 この一言を聞いても離してくれようとはしない。頬を掴んだまま李芳リー・ファンは口を開いた。

「……あんまり、無茶をされると心臓に悪い。君は出会ったときから突拍子もないことはする子だったけど、危険を冒してまで何かを得ようとすることなんてなかっただろうーー僕の知ってる蘭々は決断には臆病だった気がしたんだけど」

 そう言って不可解だとでも言うようにこちらを見ている。心配しているというよりも、どうしてこんな無茶をしたのか驚いているという感じだ。

「びっくりしました?」そう話した後に「でも、自分の命を守る算段はつけてましたよ」と付け加えた。流石に成長するために命を賭けるほどヒロイックな考え方はしてない。

 李芳リー・ファンはどう思っているんだろうと、返事を待ったけれどもあんまり意味のある返事は返ってこなかった。「ああ」とか「そうだよね」とかそういうことを小声で呟いている。いつの間にか頬の手は離されていた。

李芳リー・ファン……?」

「やっぱり、君はよく分からないよ」

「それ、って?」

 もしかしなくても失望されてしまったのだろうか。李芳リー・ファンが自分に従順で優しい蘭々を求めていたなら、その可能性も十分ある。

「出会ったときはね、得体の知れないこの子なら何か変えてくれるんじゃないかって思って拾ったんだ。いつの間にか健やかに大人になって欲しいなんて親心も芽生えていたけど、今日で再確認したよーー君はやっぱり他人で、僕が予想だにしていないことをする」

「え、えっと……?」

「僕が蘭々のことを「子供」っていう枠で見ていた間に、蘭々はちゃんと大人に向かって成長してたってことだよ」

 李芳リー・ファンは自分の思っていることがはっきりしたのか、こちらの眼をしっかり見てそう言った。でも、言いたいことはあんまりよく分からない。

「褒められてます?」

「もちろん。言うことは面白いけど自分では行動を起こせなかった子が、自分で前に進もうとしたんだから」そこまで大層な成長のように思えなくて首を捻っていると李芳リー・ファンはこう続けた。「自分を変えることはすごく難しい……だったっけ。自己変革は僕の目標だったのに、蘭々に先を越されちゃったな」

 親が蒸発しても、弱い人を取り立てるような仕事をしていても、自分が窮地に陥ったとしても、自分から動くことができなかった過去の私。李芳リー・ファンの言葉を聞いて、私は過去の私とさよならしたかったのかもしれないと思った。ちょっと込み上げるものがあるけど、それを振り切るように私はこう返す。

「そうですよ。このままだと振り切ってどんどん突き放しちゃいます」

「言うじゃないか。僕も負けないようにしなきゃな」

「ふふふ、そうです」

 私たちはなんだかとっても楽しい気分になって、お互いにくすくす笑った。一緒になって笑うのはなんだか初めてのような気がした(そんなわけないのだけれど)。そんな幸せな空間を完膚なきまでに破壊したのは、一本のスマホだった。教えている人が少ないので滅多に活躍することがない私のスマホがけたたましく鳴る。相手は、楊炎ヨウエンだった。要件は考えるまでもない。

「……楊炎ヨウエンからです」

 李芳リー・ファンは「代わってくれ」と一言告げた。その表情はまるで母親に怒られる前の子供のようだった。


李芳リー・ファン!」

 スマホに搭載されているスピーカーが音割れしそうなほど大きい楊炎ヨウエンの声が聞こえる。苛立ちを含んだその声のわけは考えるまでもない。作戦終了後、すぐに連絡すると言っておいて呑気に談笑してたからだろう。

「どうなった! 例のCubeはあったのか?」

「例のCube? ああ、忘れてた」

 李芳リー・ファンはとぼけた声でそう言う。火に油を注ぐ、誰が聞いても分かるようなまずい返事だ。

「お前に頼んでいたのは、魔羅マラの確保じゃなくてCube<喪失>の回収だろう! さっさと確認しろ、今すぐにだ!」

 楊炎ヨウエンがどんな顔をしているのか、電話では分からないけど眉がつり上がっている様子が容易に想像できる。楊炎ヨウエン李芳リー・ファンによく怒っているけれど、今まで見てきた中で最も憤慨していた。

 李芳リー・ファンは「わかったわかった」と楊炎ヨウエンを宥めながら(そういう態度が日に油を注いでいるのが分かっていないのだろうか)、気を失っている魔羅マラが持っていた鞄の口を開けて開閉部分を下に向けて中のものを取り出した。無造作に床に散らばる魔羅マラの持ち物を見て、この現場を楊炎ヨウエンが見ていなくてよかった心底思った。乱雑な扱いを楊炎ヨウエンがみたら失神するかもしれない。

 李芳リー・ファンはその中に混じっていたCubeだけを取り出した。

「持ってたCubeは三つだね。識別番号を言うから、確認してくれ」

「分かった」

「93802-34」

「違う、次」

「93782-21」

「それは魔羅マラのメインCubeだな。回収対象ではないがこちらに送ってくれ。追加の報酬は支払う」

「OK。次は、93801-65」

 この識別番号の確認だけやけに長く感じられた。くじの当選を確認するような気分で楊炎ヨウエンの返信を待つ。

「ハイフンの後は、65で間違いないか?」

 楊炎ヨウエンの声は李芳リー・ファンよりも低いけれども、その声は更に低く感じられた。

「ああ」

「93801-65で間違いないな?」

「いい加減しつこい……間違いないよ」

 楊炎ヨウエンが深呼吸するのが聞こえた。これだけ何回も確認するってことは、まさか。

「ーーそれが、回収目標のCube<喪失>だ! 今すぐそちらに確認に行く。その場所から動かずに待機していてくれ。俺以外の誰が回収に来ようとも絶対に渡したりするんじゃないぞ」

 嬉々とした声色で楊炎ヨウエンはそう言った。マイクのノイズキャンセラーでも除去しきれない慌ただしい物音も一緒に聞こえてきた。

「……了解。救護班の要請も頼むよ。今回、蘭々に無理をさせたからね。こちらでできる手当はしたけれど、治療も受けさせたい」

「蘭々も参加してたのかい?」

「ああ、Cubeの空間を破ったのは蘭々だからね」

「へえ、やるじゃないか。今回のMVPは蘭々ってことかな。落ち着いた頃に積もる話もしたいけれど、まずはCubeの回収だ。古来より獲物っていうのは追い詰めたときにこそ慎重になれっていうだろ」

 意気揚々と楊炎ヨウエンはそう言った。平常時は澄ましているけれど名前の通り熱い人だ。

「……今の君は、慎重とはかけ離れているように見えるな。昔から詰めが甘いから、今回はポカをやらかさないように気をつけて、ね」

 皮肉たっぷりに李芳リー・ファンはそう言った。くすくす笑っているところを見るに李芳リー・ファンも楽しそうだ。

「また、そういうことをーーまあいいさ。今の俺は気分がいいから見逃すよ。お前の方こそ誰かに騙されて、せっかくのCubeを他のヤツに渡したりするなよ」

「分かってるよ。着いたらまた連絡して」

「もちろん。じゃあな」

 電話はその一言で終了した。李芳リー・ファン楊炎ヨウエンはいつもの通り皮肉の応酬を繰り広げていたけれど、二人とも声色が明るかった。

「良かったですね」

「ああ、楊炎ヨウエンにとっては大きな一歩だ。だからってはしゃぎすぎていたような気がするけれどね」

 李芳リー・ファンも嬉しそうだった、と言おうかと思ったけど辞めておいた。素直じゃないから絶対に認めないだろうし。

楊炎ヨウエンとまた会ったとき、話すことが楽しみですね」

 私も嬉しくなって思わず笑みが溢れた。いつか楊炎ヨウエンがウチに遊びに来たときは豪勢に祝杯をあげよう。何を作ろうかな、小籠包と炒飯とよだれどりと……。

「蘭々は、その前に怪我を治さなきゃならないと。それまでは無理禁止だよ」

 左足を見て諭すようにそう言った。子供扱いされていると以前なら怒っていただろうけど、今はあまり気にならない。

「はーい。分かってます」

「なら、よろしい」

 李芳リー・ファンが口角を上げて笑っていた。皮肉めいた笑みでもなく、こちらを安心させるための笑みでもなく、純粋に楽しそうだった。今まで李芳リー・ファンを包んでいた壁はそこにはなかった。

(そんな顔、できたんだ……)

「回収班に目標のCubeを預けたら、今日は僕が料理を作ろうかな」

 そう言って意気揚々と手を掲げてみせた。

「えっと、それは……結構です」

「遠慮しなくてもいいんだよ。僕に任せてくれ」

 口説き文句のような台詞に騙されそうになるけど、李芳リー・ファンにだけは任せられない。だってーー


「絶対イヤです! 殺人兵器は食べたくないですーー!!!」

 伽藍がらんとした郊外に情けない声が響く。締まらない会話は実に私達らしい。

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