第73話:陽の沈む海で
僕と未来ちゃんは、昼をだいぶ過ぎて夕方となった海へと来ていた。この時間ともなれば、遙かなる水平線に真っ赤な太陽が沈んでいく景色が広がっている。
未来ちゃんは僕の手を引いてこの場所に来たと思ったら、その手を離さないまま波打ち際を歩き始めた。当然僕も手を引かれながら歩いているわけで……。彼女の隣で歩調を合わせていた。
「あはは。えいッ」
ぱしゃぱしゃと僕に水を蹴ってくる未来ちゃんは、なんだか楽しそうな笑顔を抱いていた。そんな笑顔に、僕はなんだか“かわいいな”と思ってしまう。
しかし、水をかけられていることも事実。僕の制服のスラックスにかかる水は冷たくて気持ちがいいものの、濡れてしまうとなると明日も着られなくなってしまう。折角波の押し寄せない方を歩いていたのに、これじゃあ甲斐がない。
でも、彼女の笑顔の方に惹かれてしまい、僕もついつい未来ちゃんのノリに乗っかっていってしまう。
「やったなッ。えいッ」
「あぁ、ダメだよ月夜くん。制服が濡れちゃうじゃない」
「え……?」
どういう事ですか? 僕はこのまま、されるがままに濡れていろと?
実際にそういう意味なのか、彼女はなおも容赦ない水飛沫を僕に浴びせてくる。未来ちゃんに嫌がられては、なんだか僕も逆らえなくなってしまい、結局、濡れる一方の状態をキープさせられてしまっていた。
「うふっ。あはは……」
それでも、こんなふうに無邪気な笑顔をしていられる彼女はなんなのだろう。いつも笑顔を絶やさなくて、周りの空気さえも軽いものにしてしまう。そんな彼女の力に、僕も魅了されているのかも知れない……。
しばらく海岸沿いを歩いた後、僕らはその砂浜に座って夕陽を眺めた。日没は終わりを迎え始め、次第に夜の色を帯びていく。そんな景色に、僕も未来ちゃんも酔いしれていた。
「“マジックアワー”……」
「え……?」
ふと僕が呟いた言葉に、彼女が尋ねてきた。僕は色素の薄まってきた空を見上げながら、未来ちゃんに答えてあげた。
「日の入りが済んだ後に起こる、辺りが薄明るい時間帯のことだよ」
「へー……」
未来ちゃんは興味を示してくれたようで、僕は更に続けた。
「光源が沈んでしまっているから、ほんの数十分の間、この世界には影が存在しない風景ができあがるんだ。写真家や映画関係者の間では業界用語として使われている。太陽光の差さない世界の色味はやわらかくて、目に映るもの全てが金色を含んだように見えるから“ゴールデンアワー”とも呼ばれるんだ」
「凄いねぇ……」
「うん。世界が、一番綺麗になれる時間なんだ」
「じゃあ、“大事なこと”をするときに夕方が多いのって、そういうのが関係してるのかも知れないね」
「“大事なこと”って……例えば?」
「例えば……。……告白……とか」
――え?
目を見開いた、どきっとした、それは事実だ。別に今から告白するとも、そもそも未来ちゃんが告白するとも言っていないのに、なんだか意識してしまっている自分がいた。自意識過剰もほどほどにしないといけないな……。
「私……なんだかおかしいみたい」
「え? あッ、ちょっ……未来ちゃん!?」
未来ちゃんは横に座り込む僕の肩に頭を乗せ、そのまま僕に体重を預けてきた。
――軽い。
なんて感想をいってる余裕なんて無いはずなのに、情けなく慌てふためいてしまって逆に冷静になってる(?)のか、僕は何をしていいのか考えてみた。結局、なんにも浮かばないまま体育座りを続けている。心臓はバクバクだ。
今思ってみれば、なんだか今日の未来ちゃんの行動は変だ。カフェで会っていきなり海に誘ってきて、そうかと思えば無邪気に遊び始める。挙げ句の果てにこの体勢だ。
僕は初め、「熱でもあるのかな?」と考えてはみたものの、頬の赤みは熱からくるものではなさそうだ。しかしだからといって何がおかしいかといえば、具体的にどこかおかしいと指摘できる点もない。結局、なんにもできないまま体育座りの状態をキープしていた。
「月夜くん……」
「何?」
「人を好きになるって……どんな感じなの?」
――え!?
「私ね……わからないの。今までに、人を好きになったなんて実感したことがなかったから。過去にそういうのがわかっていれば、今、恋しているとしてもそれが恋心なんだってわかるけど……。過去にそういう経験がなければ、人を好きになっていたとしてもそれには気付けないじゃない?」
「それは……確かに」
「じゃあ、どういう気持ちになったら……私は人を好きになっているんだってわかるのかな?」
未来ちゃん……どうしたんだろう? こんな疑問を真剣にぶつけてくる子じゃなかったけど、何か心境の変化でもあったんだろうか……。
心配の気持ちが勝っていた。未来ちゃんに何かあったのか……と。でも、こんな疑問を持つことは、別におかしいことでも不思議なことでもない。純粋な彼女だからこそ、そういう感情を大切にしたいって思っているのだろうと思った。
それじゃあ、僕はそんな純粋な彼女に応えてあげなくちゃいけない……んだけど。正直、僕もそんな感情をはっきりと抱いたという記憶がない。仲間ならいつもそばにいたけど、恋人と呼べる人が僕と寄りそっていたかといえば、そんなことは今までになかった。
しかしこのまま押し黙っているのもいけないと思い、脳内のデータベースに検索をかけてみたところ、やっとの思いで自分なりの答えがヒットした。
「たぶん……“ずっとその人といたい”って、思った時じゃないかな」
「ずっと……?」
「そう、ずっと……」
未来ちゃんは少し考えるような表情をした後、いきなり僕の正面まで四つん這いで移動してきた。顔を近づけてくる未来ちゃんに、鼓動が早鐘のように打ち鳴らされている僕。吐息が触れ合うような距離になってしまったとき、彼女が口を開いた。
「私は、月夜くんとずっと一緒にいたい……」
「えっ、えぇ!?」
あれだけ早く鳴り続けていた鼓動が、一瞬のうちに止まりそうな勢いだった。少なくとも、僕の中での時間は止まった気がした。慌てるなんて時間もない。彼女の気持ちに応えるなんて時間もない。軽快なジョークでその場を和ませる時間もない。
僕には、全ての思考がストップした瞬間だった。今自分がいわれた言葉を咀嚼して考える。でも、僕には合致するワードが一つしか出て来ない。
――あなたが好きです――
そういう意味なのか!? そう思ったまさにその瞬間、彼女の口は再び開かれた。
「でも、李凛ちゃんともずっと一緒にいたい」
「え……?」
「それに、永遠ちゃんとも、陽泉くんとも一緒にいたい……。それはダメなの? 恋とは違う感情じゃないの? 私は……やっぱりわからないよ……」
僕と同じだ……。
仲間意識……それならいくらでもできる。李凛が好きで、未来ちゃんが好きで、永遠が好きで、陽泉も好きだ。それは恋心とは違うもの……あたたかい友達、気の合う仲間、そういった人たちだ。
なら、一生連れ添うことができるほどの恋人なんかいるのか? そもそもそんな人を作ろうとして、恋はしているのか?
そんなことを訊かれてしまえば、僕はNOと答えるしかない。
わからないのだ。自分は誰が好きで、どんな人が好みで、今は好きな人がいるのか、恋人はいるのか、もし恋人ができたとして……その人は本当に運命の人か……。そのどれもが、自分自身ではわからない。確認のしようがない。なぜなら、過去にそんな経験がないから。
そんなことを言ってしまったら、初めて感じる感情はどれもわからない。これは“痛い”という感情。“柔らかい”という形容。“美味い”と感じた理由。人は、そのどれもを本能的に実感するものなのかも知れない。
けど、それはある程度小さくて、まだ理性のあまり働かない頃のことだ。
今の僕たちは、それを今更理解することができるのだろうか。初めて感じる感情を、自分は分別できるのだろうか。
そんな疑問が浮かんだとき、僕はふと思った――僕は、人を愛することが……この先、できないのかも知れない。
たぶん、彼女も一緒なのだろう。だから、僕にはせめて……。
「一緒に……頑張ろうよ……」
「え?」
「僕も……正直なところ、わからないんだ。好きっていう感情が」
「そう……なの?」
「うん。だから、これから一緒に探していこうよ。僕らは似たものどうしだ。1人でできないなら、2人でその意味を探していけばいい……」
「そっか……“これから探す”。うんッ。これから探してみるッ!!」
あはは……。2人でにっこりと笑い続けた。遠回しな告白のようにも思えたけど……僕からしたら、未来ちゃんを和ましてあげられる唯一の一言だった。
“仲間だから、協力し合える”……そう思ってしまった。僕は、つくづく呆れた男だと思った。また……“仲間”という言葉で片付けてしまっている自分が情けなかった。
マジックアワーも終盤にさしかかってきた頃、未来ちゃんは再び僕の手を引いて歩き出した。海岸からはどんどん離れていく。
僕らの町にずーっと続くこの海岸だが、通学路から見渡せる道以外に踏み入れることはほとんど無い。しかし、未来ちゃんは僕の知らない方の道でさえもずんずん入っていってしまう。以前に来たことがあるのかな……。そんなことを考えつつも彼女の歩調にあわせてついていく。
やがて、道の横には木が茂り始める。木のトンネルをどんどん進み、僕は不安感に駆られる。
「ねぇ未来ちゃん、何処に行く気……?」
「この先にね……いいところがあるの」
いいところってどんなところ?
そんなささやかな疑問を抱きつつ奥へ進んでみると、トンネルの出口を示す光が見える。そこへとまっしぐらに進んでいき、やがてトンネルから出たその先には、驚愕の風景が広がっていた。
「「うわーーッ!!」」
ついついそんな声を上げてしまうそこは……金色に広がるひまわり畑だった。
「ね? 綺麗でしょッ」
嬉しそうにはね回るあどけない少女の横で、僕は、この景色に感動していた。どこか見覚えがありながらも、堂々として広大に広がる金色の野は、まさにゴールデンアワーにふさわしいものだった。
「私、この色が好きなんだ……」
「え?」
「この何処までも広がる、オレンジがかった黄金色がね……大好きなんだ」
「そっか……。僕はね、この空の色が好きなんだ。この何処までも広がる、黒みがかった瑠璃色が……」
「大空に、大地……かぁ。なんだか……やっぱり似たものどうしだねッ、私たち!」
「うんッ」
うなずく僕は、初めて気付いた。
僕は、こんなにはしゃぐ彼女が見たかったんだ。こんなに無邪気に笑う彼女の笑顔が好きだったんだ。
僕はこの時、不思議と、彼女の笑顔を見ても“かわいいな”とは思わなかった。僕は、こんな彼女の笑顔が……。
彼女のことが…………。
今日は結構行動派の未来でした。
何が彼女をそうさせたのか、皆様は知っているはずですよね?(前話参照)
*次回予告*
翌日の放課後、月夜は体育館裏に呼び出されていた。
そこで見た人影は2つ。成海と李凛の姿だった……