起動
「リョート、起きて。もう、起きないと。仕事に遅れるわよ」
どこからか、聞き覚えのある声が聞こえていた。その声は、リョートの耳にとても心地よく、再び眠りを誘うようだった。
「ほら、起きて」
身体を揺さぶられ、リョートは目を覚ました。夢ではなかった。まぶたを開けると、ベッドの前にはジーニアスのルコが立っていた。
「おはよう。ルコ、起こしてくれたんだね」
「ちゃんと、7時には起きるって言っていたから。それに、朝食、出来てるからちゃんと食べてね」
無表情のまま、リョートに語りかけるルコをみて、リョートはルコの頬にそっと掌を添えると、
「そういう時は、こんな風に笑むんだよ」
リョートはルコに穏やかな笑みを見せた。ルコの視覚にあるセンサーがそれを読み取ると、カンヂョウシステムがそれを記録していた。
「朝、起こす時には優しく、笑みを見せて欲しい」
「…データ、記録しました」
「いい子だね」
リョートはルコの頭に手を乗せた。ふわりとした髪の感触と、甘い髪の香りが鼻についた。
ジーニアスのルコは、順調に起動していた。日に日に感情も記録し、会話の中でごく自然に言葉と一緒に表情も豊かになっていた。
リョートが出かけている間は、家事機能を学習している事から、掃除、洗濯、夕食を作ることまで無駄なく行うと、充電して待機していた。
リョートはジーニアスではあるが、ルコが自分の日常にいる暮らしに気持ちが浮かれていた。
ルコが目の前にいる。
それだけでも、リョートの心は感情が高まり、胸の奥が摩擦するようなくすぐったさと、苦しさを感じているのだった。
休みの日には、ジーニアスのルコと一緒に部屋で映画を観たり、近くの繁華街へ買い物へ出かけてみたり、港が見える公園でのんびり過ごす、まるで恋人同士のような時間の過ごし方をしていた。
「昔、私が好きだった映画なんだけど。恋愛映画だから、リョートつまらないよね?」
モニターを操作しながら、データに表示された映画のタイトルを見つけ、ルコは尋ねた。
元々、キヲクシステムに保管されていた、本物のルコのデータを複写している事から、リョートは自然にルコの好きなもの、嫌いなもの、これまでの思い出を聞くことができた。ただし、リョートは、自分自身に対する記憶を全て消去していた。
そして今、この生活で新たに、自分とルコとの出来事を作っていた。しかし、リョートの考えは、それだけではなかった。出来ることなら、これから続くルコとの関係、感情のデータを雅ルコ本人のデータとして、書き換えることを企んでいた。
「リョート?」
ルコが、リョートの顔を覗き込み、リョートは、はっとした。
「ごめん。考え事をしていた。映画だっけ? どんな映画か観てみたいから、一緒に観よう」
リョートはルコに答えると、ルコの表情がぱっと明るくなった。その表情は、初めてルコと出会った時の笑顔と重なって見えた。
リョートの胸の奥が締め付けられ、目から涙がほろりと零れ落ちた。
「涙? 悲しいカンヂョウの時のもの? リョートは悲しいの?」
不思議そうに、首を小さく傾げルコがリョートの顔を見つめた。
「いや、違う。今のは、ルコの笑んだ顔が、初めて出会った時の顔と同じだったから。俺の記憶とルコへの感情が揺さぶられて、胸が苦しくなったから。つまりは、好きだって事」
サラサラしたリョートの長い髪を、ルコは指で搔きわけると、リョートの涙を指で拭って見せた。
「胸が苦しい。好き…。涙」
「感覚をカンヂョウシステムにリンクさせるのは出来ますか? 私も、同じような感覚を覚えたい。涙は出せるようになりますか?」
ジーニアスのルコは、NO.153チームへメッセージを発信した。
目の前のジーニアスが、日に日に学習だけではなく進化していく姿に、リョートは鳥肌が立つ興奮を隠しきれないでいた。ジーニアスであっても、限りなく人間のルコに近くなっている事に。
「感覚システム苦しみ、痛み、くすぐったい、熱い、冷たいを、実験対象のジーニアスに導入しました。涙は、残念ですがジーニアスには機能しません」
NO.153チームの女性ジーニアスの声が、ルコの身体から聞こえた。
「そうなのね。でも、今導入されたのなら。ね、リョート、私の手を叩いてみて?」
ルコは、白く華奢な右手をリョートに差し出して言った。リョートは躊躇したが、そっと両手でルコの手を取り、右手で軽くパチンと叩いてみた。ルコの手は人工皮膚と機械の熱伝導で暖かく柔らかさもあり、限りなく人に近い物に仕上がっていた。
「うん。少しだけど、痛いがわかったわ。有難う、リョート」
ルコは、笑みを見せそう言った。
お読みいただき有難うございました。
リョートの企みが浮き彫りになって来ました。
お話は、まだ続きます。
これからもどうぞよろしくお願いいたします。