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前編

「この世の果てに連れていって欲しいな」


 唐突に先輩が、そんなことを言いだした。

 僕は飲みかけのオレンジジュースを机の上に置くと言葉を返す。


「何処ですか、それ」


「行ってみれば分かるよ、きっと」


 先輩がオレンジジュースを一口しながら一言。

 いつもの戯言ならば広げる必要もなかったのだけれど、なんだか今日の先輩は雰囲気が違う気がして僕は先輩の言葉を待った。


「ね、連れていってよ」


「自転車で行ける距離ですか?」


 滑稽な返答だ、と僕は自分で思った。

 距離など関係ないだろうに。

 先輩にとっては、特に。


「行けるよ、きっと行ける」


 悪戯っぽい子供の様で、何もかもを悟った聖人の様でもある先輩の笑顔。

 いつぶりだろうか、先輩の笑顔を見るのは。僕の視線はそんな先輩の笑顔に釘付けになってしまう。

 

「さ、連れ出してよ王子様」

 

「……」


 差し出された先輩の手を握る。

 想像していたよりも温かい先輩の手。離したらそのまま消えてしまいそうな先輩の手。


「……エスコート致します、お姫様」


「うむ、くるしゅうない」


 いつもの僕ならこんな大それた事しなかっただろう。

 だけどなぜだかそうしなければならないと、そう思ったのだ。


「暑くないですか?先輩」


 荷台へ声を掛ける。


「んー、暑いよ。すっごい暑い」


 傍に居なければ聞こえないほどしかない大きさの返答。

 僕はその返答を聞いて安心した。

 暑いと言われて安心するのも変な話だが。

 声が返ってこないと不安になるほど、先輩は重量感がなかったのだ。


「日本の夏って感じだねー」


「辛くなったら言ってくださいね。日陰探します」


「……ありがと」


 後ろを振り返る。自分の汗が前髪を伝うのが見える。

 先輩はいつもと変わらず、平然とした顔のままで僕の運転に揺られていた。

 暑いと言った割に汗は全然かいていない。

 いい事なのか、悪い事なのか。


「ねぇ」


「はい、なんでしょうか」


 木陰で佇む僕と先輩。

 学生にとっては夏休みでも世間的には平日の街並み。

 疎らな人通りは今の僕らにとって好都合だ。


「あれ、あれが食べたいな」


「……?」


 先輩の指差した方向を目で追う。

 僕のと同じような自転車。違う所を上げるとすれば、荷台に先輩の代わりにクーラーボックスが乗っている所か。

 その自転車の主と思われる麦わら帽子のおじいさんと目が合う。

 にんまりと音がしそうな笑み。

 僕はそんなおじいさんの笑みと先輩の笑みを交互に見比べてから、財布へと目を落とした。

 あまり浪費はしたくない。

 が、先輩の願望を浪費と表現もしたくなかった。


「おいしいね」


「はい、おいしいです」


 アイスを舐めながら並んで歩く僕と先輩。

 買ったのは先輩の分だけ。僕が舐めているのはおまけで貰った分だ。


「得しちゃったね。二人で来てよかった」


「そう、ですね」


 屈託のないおじいさんの笑顔がリフレインされる。

 僕が彼氏くんと呼ばれた時、先輩は特に何も言わなかった。

 だから僕も特に何も言わない事にした。

 気にならないわけではないが、気にしても仕方ないだろうし。


「あー、おいしかった」


 先輩はアイスを舐め終わるまでに5、6回ほどおいしいを口にした。

 決して、このアイスが特別おいしいわけではないと思う。

 名残惜しそうにアイスの棒を舐める先輩。

 小動物みたいで可愛い。


「さて、そろそろ行こっか」


「了解です」


 荷台に先輩が座ったのを確認して、僕はペダルを漕ぎ出す。

 自分でもどこへ向かおうとしているのか、分からない。

 先輩に聞いてもきっと明確に答えてはくれない気がする。

 悪意ではなく、先輩も答えが分からないからだろうけれど。


「このまま行くとどこに出る?」


 商店街を抜けた辺りで、先輩が聞いていた。


「多分海……ですね」

 

 この辺からはあまり出たことがないので、僕の返答も曖昧になる。

 間違っていても咎められることはないだろうが。


「海……か。いいね、海」


 先輩の一言に僕はペダルに込める力を少し強めた。

 急ぐ必要があるかは分からなかったが、答えあわせは早い方がいいだろう。


「キミは海、よく来るの?」


「いえ、ほとんど。海に繋がってるかどうかもうろ覚えでした」


 海水がギリギリ届かない辺りの波打ち際に立つ先輩。

 僕もそんな先輩に習って隣に立つ。

 この時期にしては人が少ないな、と思ったらどうやらここは遊泳禁止らしい。

 そんなことも知らなかった。


「んー、ちべたい」


 スリッパの先輩はずかずかと海の方へと進んで行く。

 スニーカーの僕はそんな先輩の様子を見守る。


「キミもおいでよー」


 ばしゃばしゃと音を立てながら先輩が振りかえる。

 日光を吸いこんでしまいそうな綺麗な黒髪。

 そんな黒髪とは逆に日光を反射してしまえそうなほど白い肌。

 僕はそんな先輩に見とれてしまった。

 アイスを舐めていた時とはまるで別人に見える。


「……あ」


 はしゃぎ気味に水音を立てていた先輩の身体がぐらりと揺れた。

 僕の視界の中でゆっくりと傾いていく先輩。

 続いて大きな水音。


「先輩っ!」


 スニーカーであることも忘れて先輩の元へ駆け寄る僕。

 水を吸って足元がどんどん重くなる。

 それでもなんとか先輩の元へと辿り着いた。


「先輩!大丈夫ですか!」


「あはは、少し足をとられちゃったよ」


 全身から水を滴らせながら笑う先輩。

 顔色は悪そうに見えない。ひとまずは安心だろうか。


「歩けますか、先輩」


「大袈裟だなぁ」


 先輩がけらけらと笑う。

 それに合わせて僕も笑えたらよかったのだけれど、今の僕にそんな余裕は無くて。

 とりあえず先輩を連れて波打ち際まで避難する。

 日陰にいても寒いだけなので日向に並んで座った僕と先輩。

 この陽射しの強さだ、しばらくこうしていれば乾いてくれるだろうか。


「……っしゅん」


 しかし靴だけの僕はそれでいいが、全身濡れてしまった先輩はそうもいかない。

 早急に乾かさないと、なにかあっては大事だ。


「とりあえずこれ着てください、先輩」


 僕はTシャツを脱いで先輩へ渡す。

 汗でびしょ濡れで効果はあまりなさそうだが、無いよりはマシではなかろうか。

 

「肌着一枚で平気?」


「少なくとも、今の先輩よりは」


 小さく肩を震わせながら問いかける先輩に僕はそう言葉を返す。

 こんな状況にそぐわないかもしれないがなんだか変に安心してしまった。

 先輩が何も感じない人のように思えていたから。

 ちゃんと先輩が現実にいるものなのだと、実感出来たような気がしたのだ。


「本当に大丈夫ですか、先輩」


「大丈夫だってば。心配性なんだから」


 服からぽたぽたと雫を垂らせながら歩く僕と先輩。

 もう少し乾かしてからにしませんか、と僕は言ったのだが。

 先輩たっての希望で出発することになったのだ。

 別に反論する気はないが、大丈夫なわけがないのも事実なわけで。

 

「ねぇ、後輩くん」


「なんでしょうか、先輩」


「水、買ってくれないかな」


「お安い御用です」


 自販機に立ち寄り水を買う。

 喉が渇いたのだろうか、ついでに自分の分も買っておく。


「……んっ……ぐ」


「……先輩、それは?」


 言ってからまぬけな質問をしたものだと自分で思った。

 PTP包装に包まれて無機質に並ぶ白い錠剤。

 見た目は市販の風邪薬と相違ないが、そんな生易しい物ではないことくらい薬に詳しくない僕でも想像に難くない。


「本当はね、持ってくる気なかったんだけど」


 僕の質問への返答代わりに先輩が口を開く。


「キミとの時間を少しでも長くしたくってね」


 もう一度水を一飲みしてから先輩はそう続ける。

 僕の中の後悔が膨らむ音が聞こえた気がした。

 そんな覚悟が出来て僕が先輩を連れ出したかと問われれば答えはノーなのだから。

 先輩と入れる時間が少しでも長くなれば、と思ったのは事実だけれど。


「さ、行こ」


「あの、先輩」


「ん?」


 僕の声に振り返る先輩。

 その表情に焦りや苦悶といった負の感情は見て取れない。

 そういう感情が見て取れればこの場で帰る選択肢を正当化も出来るものを。

 先輩のこういう所が僕を不安にさせる。

 

「……いえ、行きましょうか」


「しゅっぱーつ」


 怖くないですか、とか。不安じゃないですか、とか。

 いろいろ聞きたいことはあるのだけれど。

 どう答えられても納得できる気がしないので、僕は聞かない事にした。



 海岸線沿いを走る僕と先輩。

 照り付ける太陽のおかげで僕の靴はすっかり乾いていた。

 きっと先輩の服や髪も同じ状況なのではなかろうか。

 靴と違って服や髪だと状況が全く同じとは言い難いだろうが。


「また暑くなってきたねー」


「そう、ですね」


 ほんの少しずつ重くなっていくペダル。

 先輩が行きたい場所まで僕の身体は耐えられるだろうか。

 僕は元々そこまで体力があるほうじゃない。

 面倒くさいという理由で運動部に入ることを敬遠していた自分に少し苛立ちを感じてしまう。


「綺麗だねー、海って」


 先輩に言われて視線を少し水平線の方へ向ける。

 光を反射してキラキラと輝く海。

 そんな海を細い眼で見つめる先輩。

 先輩の方が綺麗だ。なんてクサい台詞は言えるわけもなくて。


「キレイ、ですね……」


 先輩と同じ方向を見て、そう呟いた。

 水平線へ夕日が沈んでいくのが見える。

 その様子を僕と先輩は並んでみていた。

 凄く綺麗な光景だ。

 もっと楽しむ余裕があればなおよかったのだが。


「きれー……」


 しみじみと呟く先輩。

 さっきよりも声のトーンが低いような気がする。

 自分の気持ちを勝手に反映させてしまっているだけだろうか。

 

「来てよかったね」


 口元を緩ませながら、顔だけでこちらを向く先輩。

 折角の綺麗な黒髪が潮風でパリパリになってしまっている。


「……ん」


 自分でも全く無意識だった。

 不意に伸びた手が、先輩の髪に触れる。

 頭頂部ではなくもみあげ当たりに触っている辺り、無意識下でも僕は僕だ。


「あはは、くすぐったいよ」


 意に介する様子の無い先輩。

 半分ほど沈んだ夕日が僕達の影を伸ばす。

 先輩は少し目を細めて僕を見つめている。

 心臓の音が手を伝わって先輩に伝わっていないか不安だ。


「あ、あの……先輩」


「なにかな?」


 これは俗に言う、いい雰囲気ってやつなのではなかろうか。

 女性に免疫の無い人間特有の勘違いというならば、それはもう勘違いで構わない。

 音が自分でも聞こえるほど強く喉を鳴らす。


「せんぱ……っ」


 意を決して言葉を発した僕の体が防波堤に押し付けられた。

 柔らかい先輩の感触が全身に触れる。

 鼓動が一気に早鐘を打つ。

 その鼓動の音に負けず劣らずの高音。

 サイレンの音が海岸線を通り過ぎていった。


「……」


 先輩は何も言わない。

 僕も何も言えない。

 さっきのパトカーが先輩を探しているとは限らない。

 もちろん、失踪した先輩の捜索願が出ていてもおかしくはないわけだが。


「……そろそろ、行こうか」


 先輩の小さな声。

 相変わらず感情は透けてこない。

 ここで僕が取り乱しながら帰る案を提示したら先輩はどんな顔をするのだろうか。

 そんなくだらない事を考えながら僕は立ち上がった。


「……んぐ」


 先輩が薬を飲んだのを確認してから自転車をこぎ始める。

 人気の無い海岸沿いは薄暗くて、明かりと呼べるものはぽつぽつと立った街灯と僕の自転車から伸びるライトの明かりだけ。

 普段通っている道はとうに通り過ぎてしまって、今は道なりに道を進んでいる状態だ。

 多少休んだとはいえへろへろの足。

 自転車の速度低下は自分でも分かる次元になってしまっている。


「少し歩こっか」


「……はい」


 気遣ってくれる先輩の言葉に強がる余裕も無い。

 このまま海岸沿いを進むとどこへ出るのだろう。

 どこの街にも繋がっていないわけはなかろうが。


「うりうり」


「……何するんですか、先輩」


 先輩が指先で僕の頬をぐりぐりしてくる。


「難しい顔、してるからさ」


 あくまでも軽い口調で先輩が言う。

 鏡があれば確認したかった。

 僕は今一体どんな顔をしているのだろう。

 暗くなければ先輩の瞳に映る自分の顔が確認できたかもしれない。


「……ごめんね」


 先輩が何か言った気がした。

 きちんと聞こえたような気もする。


「……?」


 でも僕は敢えて聞こえなかった方を選んだ。

 それが先輩のためか自分のためかは分からなかったけれど。

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