助けを待つ間
こいつは駄目だ。
全光のLED照明の下、確実に異常なものを目の前に、淡々と、それも無関心で清掃を続けようとする美しい人形、という光景を目の当たりにした衝撃をわかって欲しい。
鬱とはこういうものなのか?
この臭いと明らかな死体を前にして、何も認識できてないとはどういうことだ?
繰り返される呼び出し音が鳴る度に、俺は着々と焦燥感を煽られていた。
ようやく音が途切れ、押し寄せた安堵感の代わりにつめていた息を吐き出す。
「どうした?」
電話の向こうでは寝ていたのか、応えてきた声はテンションの低いものである。
「死体がある」
しばしの沈黙。
たぶんあの大きな目をぐるりとさせ、大きなため息をついているはずだろうが、俺にはこの昔なじみの協力が必要なのだ。
何しろ、屋内に入ってすぐならまだしも、武本がかなり現場を荒らしている上に、俺は混乱しているからな。
「110番して自首しなよ。そっちの方が印象いいって。情状酌量の余地とか認めてくれやすくなるよ。俺、一応刑事だからさ、協力は無理だなぁ」
「俺が誰を殺すんだよ。そして何の協力を求めていると思っている。仕事現場のゴミ山に埋もれている死体を発見したんだよ」
「本当に死体か?人形じゃないだろうね」
そういえば何年か前に山に捨てられた精巧なエッチ人形が死体と間違えられた事件がどこかであったよね、ともう一度死体を見返した。それは仰向けになっているらしき膝から下しか見えないものであり、肌色の変色した足裏を見るに死体に間違いないだろう。ウジだってこんなにも湧いているではないか。
「臭いも凄いし、確実に死体だよ。どうする?」
そう答えて発見するまでのあらましも伝えると、相手は刑事らしからぬ、刑事であるからか、俺に幾つか指示を出したのである。
まず119に連絡をいれ、混乱した一般人を演じろと。
「警察がすぐに来ればいいだろ。死体で呼んだら迷惑だろ」
「救急隊に警察を呼ばせればいいから。いいの。場所はこの間言っていた所でしょう?それなら俺の従兄の消防署の管轄じゃん。大丈夫。勲ちゃんを働かせましょう」
「また負けたのか」
彼は従兄とスマートフォンゲームの点数を競っている。
刑事と消防署の隊長では、当たり前だが物凄く低レベルな点数争いになっている事が笑えるが。
「うるせぇよ。空き家が多いってお前が言ってたから調べたけど、そこの住宅地には何もなかったけどなぁ。まぁいいや。そこでじっとして、もう何も触るなよ」
友人の言うとおりに119に掛けると、救急車が数分しないで到着した。担架を持った二名の救護隊員がリビングに飛び込んで来たが、やっぱりというか彼らは怒り出した。
「確実に死んでいたら警察でしょうが!俺達は忙しいのに!これのせいで警察が来るまで署に戻れないじゃないですか!」
「素人の俺達には、死んでいるか生きているかなんてわからないものでね」
「ふざけないで下さい。こんなにウジが湧いて臭く腐っている遺体を、生きているって言い張るあんたこそ不可解ですよ」
俺はここで友人の指示に従った自分を物凄く恥じていた。
俺の目の前で怒り心頭で警察に連絡を入れている彼らの姿に、俺が混乱したばっかりにと、職業意識の高い救急隊員の行動を制限させる目に遭わせてしまった事を心の中で謝ってもいた。
そして大後悔だ。
俺が冷静だったならば、普通にあいつでなく110番をして、普通に武本の行為を責め立てさせる事も無しに俺が対処してお仕舞いだっただろう、と。
「すいません」
これは俺ではなく武本であった。
空気の読めない彼は、本来謝るべき哀れな救急隊員ではなく、俺に謝ってきたのである。
それもうるうるの瞳で俺を必死に仰ぎ見て、だ。
「すいません。全部僕のせいです。僕のせいなんです」
「いいんです。素人が死体に出会うなんて滅多にないですから。混乱するのは当たり前です。大丈夫ですか?怖かったでしょう」
「そうだよ。全然平気。救急車は戻したしさ、うちの署はオレンジもいる大所帯だし、俺達二人ぐらいが動けなくても全然平気。気にしないで」
俺に謝るために顔を上げた武本を、彼らは女だと思い込んでいた。
それも絶世がつく美少女だ。
困った一般人の俺達のために数時間拘束される事くらいこの若い隊員達には平気だろうと、俺は武本の首根っこを掴むと、発情した若者から引き離して玄関ドアへと向かった。
「え、ちょっと、どちらへ!」
「警察を迎えに行くんだよ」
「えぇ。その子は置いてってよ」
「うるせぇ!」
実際に俺達が玄関についてすぐに、警察のご到着だ。
彼らはこれでもかと回転灯を回し、サイレンをけたたましくがなりたてながら隊列を組んでやってきたのであった。
「まるでパレードだな」
この警察の派手な登場のお陰で、明日にはこの家が事故物件サイトに登録されるであろうことは確実だ。お陰様で十数年は売れないだろう。俺はうんざりしながら玄関口から皮肉めいて外の様子を眺めていると、次々にクルドサッックの私道に停まった警察車両からは制服警官と明るいブルーのツナギを着た面々が続々と降車してきた。
しかしその中の一台だけ、なぜかドアを開けないまま回転灯とサイレンを消すや、もと来た方向に方向転換して戻っていくではないか。
おまけに戻っていくパトカーに手を振っている奴らが何人かいる。
本当にパレードしていたのだ、あの馬鹿は。
思わず舌打ちをしてしまったせいか、俺の左脇に立つ武本がビクッとしてしまった。
靴箱と俺に挟まれる格好で立つ彼に、広い右側に立てと言ってやりたいが、これが彼の決まった立ち位置なのだと思い直した。
彼の決まった立ちとは、俺の左側が、ではない。
壁などの障害物と俺の間に挟まる形で俺の横に立つのが、ということだ。
なぜか知らないが、彼は悲しいくらいに世界にびくびくと怯えているのである。
三厩は俺に相談役になれと武本を預けたくせに、彼の成育環境その他について俺に語った事がない。
武本が語る言葉が彼を知る全てなのに、武本はぽつぽつしか語らない。
二ヶ月も一緒にいて俺が今までに彼に聞いて知りえた事は、高級洋菓子をこよなく愛している事と、彼が家族の団欒を知らないと言う事と、何でも捨てる母親がいて、そして、聞かなくともわかっていた事だが、彼には友達が一人もいないという事実だ。
彼のような外見では友達がいないのは辛かっただろう。
友達は身を守る盾にもなる。
今みたいに友好的でも知らない人間に囲まれれば、武本どころか誰だって怖いものだ。
そう考えたら、俺に守られようと必死で俺に縋る彼が哀れで、思わず彼の頭を撫でていた。
撫でながら、大の男が成人男性の頭を撫でているという自分の間抜けな行動が情けなく感じて、成人男性に絶対に見えない彼が悪いのだと自分を慰めてもいた。
「もういいって。誰だって想定外の出来事には脳みそが拒否してしまうものなんだよ」
撫でられた彼はこくりと頷くと、ゆっくりと顔を上げて俺をじっと見つめた。
青白い顔を強張らせて、大きな目で俺を強請る勢いだ。
「どうした?」
「ここから離れてリビングに行きましょう。ここは駄目です」
「あそこは死体があるだろう。救急隊員が恋しいか?」
「違います。ここが駄目です。駄目なんです」
こいつは大丈夫か?と不安に感じたその時、ようやくあいつの登場である。
相模原東署という所轄の刑事である、楊勝利警部補だ。
自称一七五センチでも五センチ低い標準身長にしか見えない男は、その身長にしては手足が長く、さらに体に乗っけている顔も標準ではない。
童顔だが印象的な二重が見事な、とてもハンサムな男であるのだ。
しかし、その顔ならば私生活が華やかであるはずだが、刑事という職を言い訳に使えないほど私生活は残念だ。
大昔に彼が警護した大物の孫娘に恋慕され、彼を恋慕する女性が幾ら美しくとも、彼女がまだ高校生ならば恋愛なども成立できまいに、婚約してしまったのである。
彼女の父が警察庁の大物で、彼女の祖母がマツノグループで現在会長をしている松野葉子だというならば、楊の実家がそれなりに裕福で名士でも、そんな権力財力のある一族に逆らえる訳はないだろう。
そして逆らえない彼は、世田谷に住むその少女への詣でるたびに、俺の家に逃げてきている。仕事か我が家での寝泊まりのない日常。つまり彼はその少女に恋慕された二十代の頃から、私生活が僧侶である俺よりも修行僧なのである。
楊は俺を見つけると、印象深い大きな目をぐるりと回して、俺に何かくだらない挨拶を言おうとしたようだが開いた口はそのまま閉じた。珍しく言えなかったようだ。
彼が俺の隣の武本に気がついたからだろうか。
武本はすぐに俺の後ろに隠れたが、楊にも見えたはずなのだ。
此の世の者と思えないほど美しい生物が。




