あの日の出来事と彼
あの日、大学構内から彼の白いトラックに乗せられて辿り着いた所は、1LDKのマンションの一室だった。
賃貸料の未納と規約違反の住人つきの不良物件であったそうである。
住人は僕達がそこに着いたその時、その僕の目の前で、強制執行により追い出された。
僕は事前に強制執行と聞いていたので、暴れまわる住人を役人が押さえつけ追い出す行為なのかと思っていた。正しくは、裁判所職員が住人に室内に住人の私物が残っていないかを確認させて書類を渡して署名させ、住人がそのまま手提げかばんを持って出て行くという流れで、少々の肩透かしを食らった気がした。
どうして、住人が少しでも痛めつけられる場所を期待したのか。
それは彼女の部屋にはどっさりの私物であったゴミが残されており、その淀んだ臭気と虫達の楽園と化していて人間の住めるところではない状態だったからだ。だって、その部屋を、僕達が清掃するのだと僕は事前に聞かされていたんだよ。
気持ち的にもっと彼女にペナルティを与えたかったのだろう。
「よし、片付いたからやるぞ」
「無理です、無理です。僕は家でもゴミ捨てはおろか自分の部屋を片付けたこともないのです。やり方がわかりません」
それは本当だ。
そして内容的には嘘でもある。
僕には自分の部屋はあっても私物は殆んど無い。
大事な私物は「ごみ」と呼ばれ、自分がいない間に母に捨て去られてしまうのだ。
部屋の中の僕の持ち物は勉強机と祖母が買ってくれたデスクトップとモニターと着替えのみだ。
本当に大事なものは僕の鞄の中に入っている。
一番大事なものは、祖父母と和君からの数通の手紙。
そして大事ではないが無くしたら困るものが教科書に辞書だ。
学校を休学しているからこそ、これらはいらないものだろうと思われるはずだ。
だから僕は大事なものだと、常にぱんぱんのメッセンジャーバッグを手放せずにいたのである。
今は無い。
最初の頃は良純和尚のトラックの座席だったが、今では一番安全な良純和尚の自宅に置いてある。
彼が僕の大切なものを守るからと、僕から鞄を取り上げたのである。
僕はその頃には彼から見捨てられたくはないと思うようになっていたのだから、彼のその行為は絶対に僕が見捨てられないだろうという保証にもなったと喜んだ。
けれども、初対面の時には、僕は彼からどう逃げ出そうとばかり考えていたのである。
何しろ、初対面の仕事もわかるはずない僕に彼は一瞥をくれた後、今では馴染みとなった「お掃除に挑みますセット」のマスクにゴム手袋と軍手を、有無を言わさずに突き出したのだ。
そして突き出しただけではない。
あの腰にまで響く恐ろしい声で、僕に仕事の説明と気遣いを見せたのだ。
「ゴミ袋に同類のものだけ入れる、を繰り返していけばいいから。だけど、どうしても君が嫌だったら帰ってもかまわないよ」
後半部分のこれが気遣いとは、鬼の所業ではないだろうか。
「帰れってどうやって?一体全体ここがどこかわかりませんので帰れませんし、僕の鞄も財布もあなたの車の中にあるのではありませんか?」
何て初対面の人に言える人間ならばそもそも「鬱」になっていないわけで、自分の「帰る」選択肢は一瞬で消え、帰りたいけど帰れない心の中で「もし家に帰れたらこの人は駄目だと親に言おう」という決心は芽生えていた。
自分の話を聞いてくれる親が自分にいれば、の話だが。
いや、母親の前で良純和尚をべた褒めすれば、彼女が絶対に彼を切り捨てるだろう。
僕の大事な彼を切り捨てた時の様に。
「君はそっち側で古着などの布系を袋に入れていってくれないかな」
良純和尚が僕に担当させたのは、比較的キレイなゴミであった。
声をかけた彼を振り向けば、彼自身は異臭と虫とドロドロ系の巣窟に身を投じていた。
そこで自分はまた何も言えなくなって、言われた通りにしようと歯を食いしばった。
彼は僕に気遣いをしてくれているのだと、僕を決して見ようとしない両親とは違うと、僕は自分を気にかけてくれるらしい彼にその時点で縋ってしまったのだろう。
それでも、ゴミに手を突っ込むには暫しの葛藤があったのは仕方がない。
なんとか手を突っ込んだところで、感触はぐちゃぐちゃ、ぐねぐね、だ。
片付けると言うよりは掘るという行為に近い。
これはそのまま住人の頭の中だ。嫌なこと、隠したいこと、見栄、喜び、失意、不安不安不安、孤独、後悔、孤独。全部煮込んで自分自身がわからなくなった闇鍋で、見えるゴミはなくなっても、見えないゴミは住人のもとにまた戻る。
ゴミの元を片付けていないのだから仕方がない。
それは、居を変えた彼女を追いかけて再び捉え、そして彼女はまた抱え込んで内部から腐れ燻るだろう。
では、何もない僕の自室は一体何なのだろうか。
両親への思慕もなければ、幼い頃の記憶も一切ない自分自身そのものか?
僕は十二歳の時に同級生達にプールに沈められ、そしてその時に、本当の僕はそこで死んだのだ。
ここにいる僕は偽者で、武本玄人の振りをして存在しているだけ。
「本日の分は終わり」
良純和尚の声に我に返り、声があがった方向に顔を上げると、かなり汚れている姿が見て取れた。
それもそうだろう、彼の担当した場所はかなり改善している。
だが自分は?自分は役に立ったのだろうか?
なぜかこの時は、潔癖なほど汚れることを嫌う自分が、自分の体が汚れていて欲しいと体を見下ろしたのだ。
汚れてしまったら服が無くなる、という気持ちがその時は消えていたのが不思議なことだ。
当たり前だが、シャツの前身ごろに裾、両の袖先がいつのまにかゴミの汁を吸っているらしき染みができていた。
「どうした?」
「すいません。あの。服が、汚れているなって」
「あぁ。そうだね。シャツは俺が洗って返すよ。汚れを落すのにはコツがあるからね」
「落ちますか?」
「落ちるでしょう。方法さえ知っていれば、元通りにもそれ以上にもできるものなんだよ」
「どうしても駄目だったら?」
「そうしたら、新しい服について考えようか」
たいした事でも、彼が意図した事でもないであろうが、僕は僕の存在が彼によって肯定されたようで、彼のその言葉によって、僕は数ヶ月ぶりに安堵の吐息を口から吐いていた。
否、吸ったのか?
生き返る時の、あるいは、赤ん坊が生まれる時の最初の一息を。
とにかく久々に生きているという高揚感を感じられた僕は、仕事前に有無を言わさずにトラックに放り込まれたように、仕事後にも再びトラックに放り込まれて運ばれた。だが、僕達が出会った大学に向かうどころか、とても見慣れた通りの歩道にて車から降ろされたのだ。見回したところで、僕から高揚感はすっかりと消えていた。
ここでお別れ、ってことですね、と。
「明日は朝の八時にココに立っててくれるかな」
終わりではなかったと驚いた自分の目の前に封筒が差し出され、良純和尚は僕の返事を待たずに車を発進させようとしている。
「えと。あの」
「悪いね、今日は少なくて。あの部屋が完了したら謝礼を渡すから。それでは、明日」
走り去る白いおんぼろトラック。
自分はトラックの車影が見えなくなるまで阿呆みたいに突っ立っていた。
封筒の中には三千円。
お小遣いというものは祖父母に親族の伯父や伯母、情けない事に従兄の和君から貰うだけだった自分だ。
僕はその日財布に入った三千円で鎖が一個外れた気がして、両親がどうとか、自分の鬱がどうとか一切考えずに、気がついたら翌日には彼が言ったとおりの時間に歩道で彼を待っていたのである。
その日から僕は安全な荷物置き場と、コンスタントに手に入る金を手に入れたのだ。
それを僕にもたらした彼は、僕にとっては完璧な庇護者なのではないだろうか。