混乱を招く家
「嫌です。ここ絶対、い、や、です。僕駄目です」
エアグレイスひばりと銘打ってある住宅街の一戸が本日手に入れた家であり、その家の前で武本が珍しく大声をあげて抵抗をしているのだ。
この住宅街は、大通りから北方向にクルドサックと呼ばれる袋小路が真っ直ぐに舗装され、その私道に沿って十二棟の建売が立ち並び、そして、歩車分離された歩行者専用道路がぐるりと住宅地を取り囲んでいるというラドバーン方式でもある。
通りから見て左に当たる西側に四戸建ち、向かいの東側に五戸が並び、車が回転できる丸い袋小路に沿うように奥に三戸という配置だ。
家番号は西側から1号から12号と反時計回りに番号が振り分けられており、我が戦利品は5号となる。
奥の一番左端の家であるが、住宅街のシンボルツリーが植えられた共有地に隣接することで敷地を他の家よりも広く錯覚して開放感を感じる見栄えの良い物件であった。
競売前の下見と内覧の時点では。
カーポートと石張りのアプローチは土とヒビのような擦り傷にまみれ、目隠しともなっているカーポートの垣根の隙間から見えるリビングルームにはゴミが、それも大量のゴミがこんもりと堆積しているのが見て取れるのだ。
武本は初仕事時のゴミ屋敷掃除がトラウマだったのか、嫌だ嫌だとトラックの扉にしがみついて降りまいと頑張っている。
ゴミのためか漂う異臭がもの凄いのだから当たり前か。
「とにかく、やるぞ」
自分に言い聞かせるように声をかけ、軍手とマスクを装着した。
鍵の交換と屋内の状態の再確認だけの予定だったので、服はスーツのままだ。
上着は脱いだがズボンは駄目になるだろう。
二本パンツセットを考えてくれた人は偉いなぁ、なんて会ったこともない人に感謝するほど自分が韜晦していると認識していたが、やるしかないのだ。
自分だって今日は帰りたいが、今日やればフローリングの床は助かるかもしれないと思えばこそ、俺達は今日やるしかないのである。
今回の物件はリフォーム無しの清掃のみで売り払うつもりだったのだから。
「行くぞ」
車から降りる前にもう一度武本に声をかけた。
「無理です」
彼を再び顧みれば、シートベルトを命綱のように体に巻き付けた姿でドアに必死でしがみ付き、俺に運転席側から引っ張り出されないようにダンゴムシのように体を丸めていたではないか。
こいつは気が弱いくせに頑固だ。
いや、頑固になれるということは、本当は気が強いのか?
この間など、お菓子を買って欲しいと駄々をこね、俺が買い与えるまでデパ地下から出ようとしなかったのだ。
そこまで思い出して、彼がとても馬鹿だったことも思い出した。
「嫌なら先に一人で帰りなさい。スマートフォンの機能を使えば家に帰れるでしょう」
そう言い放って彼を見ると、まず裏切られた人の表情をして、次に何か言おうと口を開け、終には何も言わずにがっくりとなった。
「どうしたの?」
「僕のスマートフォンは鞄の中です」
俺は暗みを帯びてきた空を車窓から眺めて、長い長い溜息をついた。
「一か月前から俺の家の納戸の中か。早く言いなさいよ。俺に物を尋ねるのも怖いのか?」
俺は自分が意外と小さい男だと今更ながら気が付いていた。
頭を垂れている小さい生き物をこれ以上責めてどうするのだ、と。
母親に大事なものは全部捨てられると、専門書やら何やら大事だと思う物を詰め込んでパンパンになっている鞄をどこに行くにも持ち歩く彼が不憫で、「俺が預かる」と彼から殆ど奪うようにして自宅に持ち帰ったのは俺だ。
「気づかなくて悪かったよ。いいよ。今日はトラックに終わるまでいなさい」
しかし、喜ぶどころか武本はぷるぷると頭を横に振って、「いやです」と小さく答えた。
「俺がそんなに怖いのか」
ため息交じりに勝手に口から飛び出た自分の情けない声に、俺が彼に慕われていたわけではなく、不格好でやくざの様な大男だと、ただ脅えられていたと認めることがこんなにも苛立っていたのかと、そんな自分にかなり呆れた。
だが、俺の落ち込みなどどうでもよい。
重要なことは、このままでは仕事の埒が明かない、その一点である。
「家に入りたくない。トラックで待つのも嫌。駅まで送ろうかって、お前は電車に乗れなかったな。そういえば」
俺が怖いわけではなく、帰りたくても切実に帰れない彼の理由を俺は忘れていたのである。俺が怖かろうが怖くなかろうが、彼は一人で帰れない。
「あー、どうしようかな」
「……降ります。良純さんは絶対に家に入って仕事をするのしょう。一緒がいいです。だから、どうしても、でしたら、僕は居間のゴミのほうを担当します。いいですか?」
「おや」
俺は「一緒がいい」とほざかれたことに一瞬で気を良くし、しかし彼の気が変わらぬように急いで軍手とマスクを取り出した。
彼は俺が渡したマスクと軍手を受け取ると、生意気そうに上目遣いで俺を睨むようにしてぽつりと言った。
「この家は本当にヤバいんですよ」
今回は本当にしつこいなと思いながら、彼の気が変わらないうちにとシートに置いていた取り換え用の鍵を片手に車から飛び降りると、一目散に玄関に走って玄関ドアを開けて入り込んだ。
電灯スイッチを手探りで見つけてスイッチを入れる。
ばしゅ。
「畜生。電灯が切れやがった」
切れたどころか弾けた電球を見上げれば、電球をつけたまま土台が壁から外れていた。
「なんなんだよ。一体」
いらだちを抑えながら靴を履いたまま廊下にあがった。
リフォームどころか、俺はこの家自体をぶち壊して更地にしてやりたい気持ちがが湧いてきていたのである。
内覧時には新品同様で良い買い物だと見えたこの家は、吹き抜けの玄関ホールに入って右手にリビングダイニングルーム、左手に八畳の和室とトイレと浴室、そして二階へ階段を上がると六畳・六畳・四畳半の広さの洋室が三室という4LDKの造りである。
階段を上がって右手の二室は仕切りを外すと一室となる造りだが現在は外されており、広々とした主寝室となっているので、現在は3LDKだ。
「俺は広々とした寝室に騙されたかな」
俺はリビングルームの手前に来ており、戸口からリビングルームを見渡せば、ゴミはリビングルームの一部分に積みあがっているのみだった事に胸を撫でおろした。
自宅を手放す口惜しさにわざと汚して出て行く住人もたまにいる。
あの女性はそんな風に見えなかったが、人間は外見ではわからない。
特に女性は、と言うしね。
二階も確認しようかと踵を返そうとすると脇腹に人の感触があたり、なんだと見下ろせば、武本が俺の脇腹にくっつくようにして後ろに立っていていたのである。
血の気の引いた青白い顔をして、軍手を嵌めた両手で俺のベルトを掴んでひっついていたのだ。
「大丈夫?」
彼はコクコクと頭を上下させると、珍しく素早い動きで戸口からリビングルームに飛び込んだ。
鬱で動きがトロい生き物が、突然ぴょんって飛んだのだ。
そして、ものすごい勢いでゴミの山に両手を突っ込んだのである。
その彼の行動だけでも俺の思考は混乱したというのに、彼は勢いよくゴミの山に両腕を突っ込んだのだ。
掃除などという行動ではない。
驚く俺を尻目に、彼はゴミ山から何かを引っ張り出した。
俺はその物体を目にしたことで、俺の思考は完全に停止した。
そんな俺など全く知らない武本は、自分で引っ張り出したものがそれ以上動かないと気付くや、その上のゴミを先に片付けようと山を崩しかけているではないか。
俺はそこで思考が逃避してしまったのか、この山の第一印象がネズミの巣だったとぼんやりと考え、いや、蟻塚か、と冷静に訂正し、そして、違うだろうと結論づけた。
死体が入っているのだから、これは墓標だ。
「武本!もういい!動くな!」
無表情で無機質な美しい人形が振り向き、枯れ葉と土でできた土嚢から飛び出す蛆の湧いた腐りかけた男の足の対比に俺は背筋が凍っていた。
それなのに、頭の中で武本が引っ張り出した片足について、あれは男のものだ、あの足の裏は男であるはずだと何度も唱えている自分を認識している自分もいた。
違うか。
俺はどうしていいのかわからず珍しく混乱していたのである。