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預かり物の青年

「コピー遅いですね」


 公務員の若造がコーヒーカップに手を伸ばしながら口を開いた。

 武本を受領証のコピーに走らせたのである。

 競売物件についている債権を外さねば所有権の移転はできない。

 今回の債権者は税務課であり、よくある債務者の間抜け行為による差し押さえということだ。


 つまり、銀行のローンを払うことばかりに集中して、固定資産税をいつでも払える金額だからと督促状を無視し続けたのだ。


 一般人が法律に無知なのは仕方がないだろうが、差し押さえが入れば、そこにかかるすべての債権が確定してしまうという事だけは覚えていたほうが良いだろう。

 数十万円の国税を支払い忘れたがために差し押さえられ、毎月必死で払っていたはずの銀行ローンの残金の一括返済が待っているのだ。


 そして、今回の物件も差し押さえられ競売され、俺が競り勝った。

 けれども、それでそれが俺の持ち物になるわけではない。


 まず、俺が債務者の支払うべき債務を現金でまず支払い、債権を外してから所有権移転の手続きと流れるのだが、税務課の役人様は俺が受け取った領収書の写しがなければ役所おうちに帰れない。

 そして、「コピーぐらいお前がやれよ」と言われないために、「差押え解除の書類」をコピーが届くまで握っているという厭らしさだ。

 差押え解除の書類がなければ差押えの抹消と所有権移転の手続きができないと知っていての所業だ。


「遅いとのたまうならば、それならたまにはお前がやれよ」


 そう言い返せない自分の常識人振りを呪いながら、俺は発言者である役人を見返した。

 にっこりと微笑むというサービスつきで、だ。


 がちゃん。


 彼はコーヒーカップを取り上げ損ねて受け皿にカップをぶつけ、半分くらい残っていたコーヒーの飛沫を袖口に受けている。


「あぁ。大丈夫ですか?」


 俺が店員を呼ぼうと、机に貼り付けられているコールボタンを押そうと手を伸ばした。


「いいです。すいません。すいません。僕はただ、クロちゃんの帰りが遅いなって。あの子は大丈夫かなって心配になっただけで、他意はございませんから!」


「あぁ?」


 先程の「あぁ。」とは違い、今度の「あぁ?」には当たり前だが聞き返す音を含んでいた。

 だが、俺の声は武本に言わせれば他者を脅す声にもなるらしい。

 天辺が尖がっている髪型が栗坊にしか見えない三十代前半の人の良さそうな税制課の職員は、見るからにゲームのヒーローにぺしゃんこにされた雑魚キャラそのものの態で小さくなってしまった。


 俺は武本が戻って来ない事にも、その為に停滞している状況に少々イラつき始めていた。

 俺はそこで俺にいじけさせられたらしい栗坊から視線をはがして、人生に疲れ切った表情のはずの、債務者である四十代の女性に視線を移した。


 ベージュ色のツイードスーツ姿の女性は、すべてに疲れたような顔をしていて、四十代よりも老けて見える。

 彼女は最初の挨拶から何も喋らず、着席したその時のままじっとテーブルの天板を見下ろしていた。


 まるで武本のように。


 しかし彼と彼女が違うのは、彼女が失意で頭を垂れているのとは違い、いつも必要以上に頭を垂れているあいつの行為が、身を隠すという自己保身でしかないというところだ。


 あいつは世界に脅えている。


 だからか、他者に対して威圧的な俺に必死で縋っているのだろう。

 そう思って、俺はあいつを必死で守っていた。


 ついさっきまでは。


 午前中の現場であいつは、俺から逃げないのは俺に住所を知らされずに連れまわされているからだと告白したのである。

 住所がわからなければスマートフォンのGPS機能を使えばいいだろうに。

 俺の声が他者を言いなりにできる恐ろしくいい声だと褒め上げてくれていたということは、あいつも俺が怖かったのだろうか。


 そうではないだろう。


 あの武本の方こそ、俺の目の前の栗坊を手なずけ、気づけば俺の自宅近所に住む四人の高齢女性と友達になっていたという人たらしだ。

 彼女達は町内会でも重鎮どころか鬼婆軍団と恐れられている程で、俺などは見つけられる度に囲まれて「腐れ坊主」と説教をされるのだ。

 俺がそんな彼女達をババーズフォーと名づけて、出来る限り避けて逃げているというのに、だ。


「まぁまぁ、百目鬼さん。お手柔らかに。本当に彼には他意は無いでしょうから」


 俺の隣で窓際に座る藤堂が、司法書士らしく仲裁に入ってきた。

 俺は何もしていないし、俺こそ他意は無いと彼に目を向けると、ほとんど剥げた白髪頭の爺は仕事用の笑顔を俺に向けた。


「あんなに可愛いクロちゃんを独占したい気持ちは判りますよ。わかっていますから」


「あぁ?」


 窓際の東堂は、窓枠に止まった虫のように小さくなった。

 好好爺という言葉が良く似合う小柄な白髪頭の七十代の爺さんだが、このメンバーで一番怖い人の筈だったのではなかったのか。

 この仕事を始めた当初から彼には司法書士の必要な案件の殆んどを頼んでいる。

 俺にこの競売部門を暖簾わけした大手不動産の雇い人であった彼に仕事を回すのは当たり前であるが、過去のヤクザな方々に囲まれての案件時に、彼がヤクザをものともせずにサクサクと書類を作成してくれた手腕を評価しているからだ。


 しかし、それ程の胆力のある男が、なぜ俺に怯えるのだろうか?


 武本が「マフィアのドンです」と絶賛した本日のピンストライプのスーツ姿がいけないのか?

 俺の姿はそんなに怖いのか?

 否。

 あからさまに他者を怖がるなどという振る舞いを、大の大人が素面でするわけがない。

 これは彼らのお遊びなのだ。

 俺の親友も俺に脅えたふりをして俺をからかって遊ぶではないか。


「ハハハ。」


 思わず出た俺の笑い声に藤堂も栗坊も同時に「ひぃ」と小さく声を上げ、俺は彼らのおどけは共感力の無い俺には理解できないと、このいたたまれない空間の原因を連れ戻しに行く事にした。


「助手を迎えにいってきます」


 そう言付けて席を立つと、栗坊の隣の窓際、俺の正面に座っていた本日の債務者であり物件の所有者が初めて顔を上げた。


「私はかまいませんから」


 消え入るような声を出してまで、かまわない、と、彼女が言うのは当たり前だろう。

 明け渡して現在居住してないにしても、コピーが届けば彼女は「自宅を失う」のだ。

 その家に掛けた愛情も苦労も時間も、全て、一瞬で、喪失してしまうのである。


「こういうのはさっさと済ませたほうが良いのですよ」


 軽く彼女に一礼をしてから、俺は外に出た。

 そしてすぐに胸ポケットからサングラスを取り出して掛けた。

 秋口のぼんやりした陽光でも、瞳の色が薄い俺には外光が目に染みて痛いのだ。

 決して養父からの贈り物の黒眼鏡を使用できる機会を探っているわけではない。

 それにしてもあの馬鹿は、また狸にでも化かされているのか。


 初めて会った日もそんな事を呟いていたのである。



「裏門への道がない」


 裏門など、六年前の構内縮小工事の一環で撤去の憂き目にあって存在しないと言うのにだ。

 だが、彼は聞き返した俺に「しまった」の顔を見せながらも、しどろもどろだが正確に裏門の姿を描写したのである。

 おまけに彼は不気味な事に、見えるもの、見えないもの、見えてはいけないもの、と物事を振り分けているふしがあり、それを行わないと周りが認識できないようであるのだ。


 そこで彼を心配した俺は専門家の知人に相談したが、彼が言うには裏門は卒業生であった親のアルバムを見た記憶からであり、おかしな振り分けは現在の症状に対応するための武本独自の拘りでしかないので、見ないフリをしろとのことだ。


 正しくは「気にするな」である。


 事実彼は俺に説明した後にそのとおりに言い放ったのだ。


「武本家はもともと変な拘りが強い一族だからね。そこは気にしないで」


「気にするなって、俺を騙してまで彼の相談役に推したのはあなたでしょう。アルバイトなんか雇えないっていう俺に、安く使えるからって嘘までついて押し付けた事を忘れてはいませんよね」


 俺は目の前の初老の男に言い返していた。

 武本を雇い始めた数日後に、その男が俺の家を訪ねて来たのである。


 丸顔の狸顔をした男は、俺の家の居間で寛ぎ、その寛ぐ姿は誰もが想像する大学教授の佇まいであり、実際に俺の母校の犯罪心理学の教授である三厩隆志みんまやたかしだ。

 しかし、三ヶ月も在学せずに退学した俺と彼が当時に親交があるわけはなく、彼と知り合ったのは俺が坊主となった後、俺を養子にまでしてくれた俊明しゅんめい和尚に彼の世話をと修行中の本山から世田谷に連れて来られた時からである。

 目の前の三厩教授は、俊明和尚の自宅近くに住んでいるだけの「ご近所さん」だったのであり、そんな三厩は、近所の親父でしかない風情で俺を近所の悪がきでしかないという風に簡単にいなした。


「いいじゃない。君が相棒を作るのにもいい時期でしょう。それにあの子は君のような保護者を必要としている状態だからね。彼の病気のことは僕が君からの報告で考えるから、君はあの子の世話と話し相手をしてあげて」


「そうですね。あなたは精神医学出のお偉い先生でしたね」


「憎たらしい糞坊主だなぁ」


「あなたこそ。元々あなたが武本の親族の知り合いでしょうが。実はあなたが頼まれていた武本を俺に押し付けただけじゃないんですか?」


 三厩の兄が武本の故郷で住職をしているのである。


「まあね。相談は受けたけどさぁ。あの子の欝は通常の鬱じゃないでしょう。やさしく、そっと、は当たり前だけど、誰かに外に連れ出して貰わないとどんどん体も心も疲弊して駄目になっちゃうからね、君に任せるのが一番なんだよ。君は絶対に守ってくれるでしょう。僕が段位をあげたんだからさ」


 一八〇以上ある俺には一七〇無い小柄な彼が豆粒地蔵にしか見えないけれど、彼は合気道道場を趣味で経営しているのである。

 俺は時々彼の道場を手伝いながら、彼に段位まで授けてもらった経緯もある。


 つまり、俺には恩人で、納得できないが師匠でもあるのだ。


「武本にも嘘を伝えていましたね。俺がカウンセリングもできる坊主だって」


「君だって彼に嘘をついているじゃない。アルバイトって知らせずに、謝礼の出る社会奉仕?この破れ坊主が」


「嘘は無いですよ。休み休み仕事をさせているならば社会奉仕でしょう。ああ、そうだ。あなたの嘘の訂正もしてあげましたよ。カウンセリングの資格が無いから相談役だねって。あなただって知っているでしょう。俺は親しい人間には嘘はつけない人間だと」


「あの子を親しい人間だと受け入れてくれてうれしいよ」


 俺は「この糞親父」と三厩を罵りたかったが、俺は僧侶であり、そして、三厩の顔が本当に嬉しそうに綻んでいたのである。

 子を持たない男には、親族に近い青年は息子にも思えるのだろう。


 否、娘か?


 悲しい事に武本は成人男性どころか、思春期くらいの少女にしか見えないのだ。

 初対面の時に、その姿に驚いて外光が痛かろうがサングラスを外して見直してしまった程であるのだ。


 なんだ、この生き物は、と。


 一六〇センチの身長の体には筋肉どころか肉が無く、骨格も通常よりも華奢といえる。

 そして、女性だったら均整がとれた細く美しい体に、追い討ちのように整い過ぎている女顔が乗っているのだ。


 つまり、一見だろうがガン見だろうが、彼はただの美少女にしか見えないのである。

 それも絶世の、だ。


 しかし彼は常に頭を垂れており、周囲にはつむじしか見えない有様だ。

 そんな姿で俺の後をとぽとぽとついて周る存在がうざいと思いつつ俺には当たり前になった頃、俺がババーズフォーに叱られたのである。

 あいつらは俺を囲んでバシバシと腕や背中を叩いてくる鬼婆共だが、その中の一人、元女学校校長の磯田が俺の左の二の腕を殴りつけるや叫んだのだ。


「坊主が家出少女をかどわかしてどうするの!」


「え?」


 気がつけば、彼は俺の後ろを歩く時は顔を上げており、その表情は餌を与えた野良犬の顔でしかない。

 あの、期待を込めた哀れな子犬の表情を、美少女顔の武本がしているのだ。


 うざいどころの話ではない。


 この顔のせいで成人男性には全く見えず、それどころか同年代の同性に気味悪がられて嫌われ続けた人生だと武本から聞いていた。

 そんな彼の身の上を俺が哀れんだのである。


 まるで自分のようであると。


 俺は一人で平気だった。

 高校で初めて出来た親友が亡くなった時、俺は初めて一人が辛いものなのだと実感したのだ。

 だからこそ鎮魂だと独りよがりで仏門に下り、そして俊明和尚に出会い、彼を慕うばかりに五月蝿く彼の後をついて周った俺なのだ。

 俺は武本が俺の後ろを歩く姿を見て、当時の父の気持ちをようやく理解したのである。


「なんて馬鹿な子供だろう」


 頭に浮かんだその言葉は俊明さんの声を伴って再生され、その声が温かく笑いまでも含んでいた事に数年ぶりに救われたと、この俺が涙にくれたとは情けない話だ。



「それが俺が怖かっただけだと?あの野郎。」


 自分に純粋に縋っていたわけではないと知って、どうしてこんなにもイラつくのかと、コンビニに足を踏み入れて目にしたのは、丸まっている武本の姿だった。

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