尋問室
髙の久々の物凄い不機嫌の有様に、隣に立つ楊は身が縮む思いであった。
「菱江英一が山口が言っていた事件のホンボシ?ちびに会わせて、後々にヤツがちびを襲って来た所を捕獲しようとでも企んだの?ちびが占い師みたいに犯人を名指しするとは思わなかったけど。殺しの方法までさ。君がちびを仕込んだ?」
ぎりっと髙が歯軋りをした音がして、楊は軽薄な口を閉じる事にした。
「あなたの言ったとおりの方が良いですよ。彼の尋問は本部からです。汚職が刑事一人で無く、本部にまで芋を引いていたなんて反吐が出ます」
「ねぇ。あいつには何があったの。ちびが君に知っているでしょうって、知っているの?どうして彼は病院で目が覚めたの、かな?」
「よくあることです。限度を知らない馬鹿な子供が同級生を殺しかけただけです。彼は殺されかけて病院に搬送された。可哀相に、あの子は記憶喪失だったのですね。あの家での独り言には涙が出ますよ。僕が違う子になったから両親に嫌われたってね」
髙がこれほどまでに感情を出して同情をむけるのも珍しいと楊は思いながら、髙が恐らく楊には知らせていない武本の身上について探りを入れるべきと考えた。この相棒は公安時代の腕で人や事件の情報を簡単に手に入れる癖に、情報を整理した上で楊に伝える伝えないを勝手に決めた報告しかしないのである。
楊は上司だが、髙の掌で転がされているだけの傀儡の気もしている。
しかし、楽でいいとそのままにしている自分もろくでもないと楊は認めていた。
「あの子は親に嫌われているのかな。本人がそう思い込んでいるだけではなくて?」
「さぁ。とにかく見守りましょう。あの男が玄人君に何かしたら、本部の警部だろうが叩き潰しますよ」
「潰すの?」
「いらないでしょう。汚職警官は」
「やっぱり君が仕掛けたんじゃない」
「仕掛けていませんって。応急対応はしましたがね」
楊はいきり立っている髙に微笑むと、マジックミラーの向こうを眺めだした。
尋問室は録画機能付の監視カメラが備わっており、その映像は相模原東の署員有志が監視している。
ミラーガラスの反対側では、いつでも武本を助けに飛び出せるように楊達が控えているのだ。
髙が心配あるいは期待するようなあからさまな事が起きるはずが無いと、楊は気軽な気持ちでガラスの向こうに視線を転じた。
「君は鬱を患って大学を休学しているのだってね。幻覚も見えるのかな」
人好きのする顔立ちであるが、アメリカンフットボールの選手のような体型で威圧感を人に与えられる警部は、先程の恨みを込めたのか、思いやりのない直球から会話を始めるではないか。
彼は楊達が覗いている事を知っている上で武本の個人情報を口にしたのだ。
ところが楊の目の前の青い顔をした子供は、菱江を怖々だが見返したのである。
それはさも、相手が何を言っているのかわからないという風に、小首を傾げての仕草付きでだ。
「あなたはどうしてネクタイを変えないの?それは何人もの心を吸ったものでしょう。あなたに首を絞められて吐いた人だっている。他人の吐いたものが付いているのに、気持ち悪くないの?」
「こら、ちび」
「賢いのか、本馬鹿なのか」
思わず身を乗り出した楊と違い、髙の声音には賞賛が入っているように楊に聞こえた。
楊が知る武本は、他人の背中に隠れるばかりの生き物だったはずだ。しかし、今の彼は髙が渡した防犯ブザーを両手で握り締めてぎゅっと胸に押し付けて拠り所としながらも、あんなに怯えていた相手に対峙しているのである。
怯えながらもキッと相手を睨み上げる目は、踏みつけられる人間の目ではなく、人を踏みつけて君臨する上位者の方の目だ。
「あいつは気が強いのかな」
「芯が強いのでしょう。菱江などよりも。……僕は失敗したかな」
髙は武本から目を離さない。
楊はその鬼気迫るほどの髙に恐れをなしながら、再びガラスの向こうに神経を集中した。
それまでの菱江は武本の今ひとつの人生を唱えつつ、彼が鬱に為るまでを彼独自の解釈を含めながら武本を追い詰めていた。
追い詰めているつもりであっただろう。
ところが当の武本は、菱江の語るそれを、まるで他人事のようにうんうんと相槌を打って聞くだけであるのだ。
痺れが切れたのか、菱江は攻撃を少し変えた。
「わかるよ。君の辛さは、君の辛い人生は皆周りがいけないんだ。鬱にもなるのだろうし、薬に逃げたくもなるだろう」
「あなたは僕ではないのに、どうして僕の気持ちがわかるのですか?そんなにも共感力も高いのに、どうしてそのネクタイで人の首を絞めれるの?泣いてごめんなさいって言ったよね。あの女の子は、何度もごめんなさいって言ったよね」
バシンっと菱江は机を強く叩き、作った笑い顔を顔に貼り付けて自分の席を立つと、机に両腕で体を支えるようにして向かいの武本に上半身を寄せた。
「無駄話はいいから、君が飲んでいる薬名を教えてくれるかな」
「飲んでません」
「嘘はいけないよ。裁判所命令で提出してもらってもいいんだよ」
「それは無駄骨になりますよ。飲んでませんから。あの、確実に間違った事をするのは時間の無駄だと思います。だって、あの、僕は非定型鬱なんです。新型鬱と呼ばれるもので、体が動かなくなる症状が先に出る欝です。体が動けないから鬱になる鬱です。動かないと完全に動けなくなるので、僕は良純和尚様に預けられているのです」
「そうかぁ。あいつは新型か」
「かわさん」
軽口を叩きながらも、楊には目の前の茶番の恐ろしさを理解しだしてきていた。
「ねぇ。ちびが人を殺せなくても、ちびのために殺す誰かがいると想定するとどうだろう?そう考えたら百目鬼に全部罪を被せられるね。美青年だろ。三十代でも、まだ」
「そうですね。このまま彼が不必要な事を口走らなければいいのですが。杞憂かもしれませんが。あの子は賢いですね。馬鹿な賢い子供だ」
「髙?」
楊は相棒が魅せられている表情を見せている事に驚いていた。
あれは、楊が考えているような存在ではないのか?
鏡の向こうの武本は、今では防犯ブザーを守るように体を丸めており、やはり空元気でしかないのか、彼の肌は真っ白に血の気が失せていた。
まるで、今にも崖から突き落とされそうな生贄の風情である。
そして、その情景から、誰の目にも、恐らくは録画された映像を誰が目にする事になっても、菱江は無実の美少女を不当に追い詰める無頼漢にしかみえないだろうと楊は考え、髙が武本を賞賛する気持ちの一片が窺い知れた。
これを想定しているのならば、武本はかなりの策士であり、考え無しであるならばとても危険な存在だ。
楊の部下達の殆んどが武本への同情を寄せている点でも、彼が人心を操れる存在だと言えるだろう。
楊が見守る中、菱江はゆっくりと武本の所に歩を進め、後ろから武本の耳元に囁いた。
「その良純さんの事を詳しく教えてくれないかな?」
「駄目です」
「駄目って言い方は、君が彼の秘密を何か知っているということかな?」
武本はゆっくりと菱江に振り向き、だが、その顔は楊でもぞくっとさせる貴婦人のような美しさがあった。
彼はまるで菱江を小物の様に見下すような目で睨むと、脅えで口元が震えてはいたが、威厳を持って言い返していた。
「僕の家は小売店です。人様の個人情報を、それも恩義のある方の情報をべらべらと喋ったとなれば、信用を失って家が潰れます。商売は信用第一なのです。僕のせいで、一族全員に迷惑をかけることはできません」
「……君の家の店の名前を教えてくれるかな?」
「出来ません。僕は経営に関わっていませんが、一族に迷惑はかけられません」
「ごめん。髙、俺は大笑いしていい?ちびが面白過ぎ。あいつが可愛がるわけだよ。馬鹿だ。あいつは真っ直ぐな馬鹿だ」
ゴン!
楊は髙に向けてしまっていた顔を、音のした方へと急いで戻した。
先程までに両手に防犯ブザーを握り締め、椅子に座って菱江警部に立ち向かっていたはずの彼が、今や机に顔を突っ伏して机の天板で伸びているのだ。
壊れた人形のようにびくりともしない彼の頭の脇で動いているのは、一筋の血。
それは天板の上をつっと一本の線を描いて、そして、ぽたりと床に落ちた。
「何が起きた?」
楊の呟きに答えるべき相棒の姿はない。
楊の隣りに立っていた髙は、武本を介抱するためにか、既に尋問室に飛び込んでいるのである。
髙が武本を抱き上げる横で、置物のように立ち竦んだ菱江警部という構図だ。
あれ程高圧的だった男が、自分の消えた将来に押し潰されて、あの大きな体を縮こませているのである。
「何だよ。何が起きたんだ。何なんだよ、この茶番はよ」
髙に抱きかかえられた武本はぐらりと上体が反り返った。
上を向いた彼の口元は真っ赤に染まり、唇からはぽたぽたと血が流れ、シャツの胸元に次々と滴って染みを作っていく。
「かわさん!玄人君が息をしていない!心臓も止まっている!搬送を!すぐに!」
相棒の叫びを聞いているはずの楊が思った事は、あぁ、あのシャツも駄目になってしまうな、と、それのみであった。




