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僕と彼と、そして出会い

 十一月二日のどんより曇った午後、僕は社会奉仕活動をしていた。

 雑居ビルの一室。最初はスケルトン状態だった廃墟のような室内は、僕の上司のデザインにより見事な「舞台装置」といえるほどの内装となり、今日のユニットバス工事等水回りが終わればこの現場は一応は終了だ。

 檜材を使った天井ではシーリングファンがゆったりと回り、僕の立つ床はリノリウム床が白と黒のチェックを描いている。


「裏さびれた雑居ビルでダンススクールですか?」


 僕は業者に指示を与えている上司の背中に声をかけた。

 ピンストライプの濃いグレースーツがよく似合う上司は、彼自体が調和のとれた見事な彫像であり、彼が作り上げた空間に見事に融和していた。

 珍しく僕が声を出したのは、そんな絵になる男に声をかけねば彼が夢のように僕の目の前から消えてなくなる気がしたからだろうか。


 僕が人前で彼に声をかけるのは初めてだ。


 けれども、ぼそぼそと小声でしか喋れない自分の声が人に聞こえるわけはないと思い、そして、自分の言葉が誰かに注目されることなどないと知っている。

 だから、誰にも、そう、両親が押し付けるばかりで僕の言葉を何一つ聞いてくれないのは当たり前で、誰からも反応がないことに一々傷ついてはいけないのだ。


 これは勝手に僕の口から出た言葉で、ただの雑音だ。


「リノリウム材を使っているけどね、ダンススクールじゃないよ。個人用の住宅兼事務所だね。イメージはそうだね、昭和の探偵事務所」


 僕は返事どころか説明まで返ってきたことに驚いて、いつも下げっぱなしの顔を上げた。

 一六〇くらいの背の僕には、一八〇を軽く超える目の前の上司は高くそびえる山の様でもあるはずだが、彼が鈍重な山になど決して見えないのは、モデルのような美しいスタイルのためだ。

 そしてその素晴らしい体にはそれに見合う端正な顔が乗っているのだ。

 男性的だが貴族的で完璧な彫刻のような素晴らしい顔。

 返事に驚いた僕がさらに驚いたのは、上司が僕を見下ろしていたのである。


 ただ見下ろしているのではない。

 奥二重の切れ長の目が僕の姿を捉えて笑みを作っていたのだ。

 なんと、色素の薄いその瞳が、室内の明かりを受けて金色に柔らかく輝いているではないか。


「あう」


 思わず感嘆の声が出てしまった。

 そんな僕に彼は笑みを大きくした。

 僕は美しいものには目がない。

 父方の実家が百貨店を経営していた一族なのだ。

 その習性は遺伝に違いなく、僕自身の責任では無い筈だ。

 でも、彼のこの笑顔は美しすぎる。


「どうした?」


 僕は彼が僕の様子の変化を気付いて気にまでかけてくれた事に気が付いたが、それもいつものことであり、しかしいつものことなのに僕は嬉しくて喜ぶよりも先に毎回驚く。


 どうして?って。


 そしてすぐに、そうだ、驚くことではない、毎回彼は僕に反応し必ず答えてくれるのだ、と思い出しては心が萎むのである。


 彼は僕専用の相談役なのだから、と。


 僕が鬱になったからと、金満な父方の祖母によって与えられた存在なのだから、彼が僕に構うのは当たり前なのだ、と。


 僕はいつものように頭を垂れて、それから、黙り込む。

 相談役だからこそ話しかけ、僕の出来ない「人との会話」というものを練習させてもらい、それで鬱を軽減させ、一般人に戻れるように努力しなければならないのにこの有様だ。


「この内装だと一昔前のテレビドラマの探偵事務所みたいでしょう。そういうのが好きな馬鹿に言い値で買わせられるかなってね。ここは死体があったという噂の事故物件だからねぇ」


 僕は相談役が「毒」を吐いた事に驚いて、再び下ろしていた顔を上げた。

 ぐいん、と。

 首が折れて死んだら彼のせいだ。

 しかし、僕が死んでも彼には問題などないだろう。

 なにせ、彼、百目鬼良純とどめきりょうじゅんは競売物件専門の不動産屋であるが、僧侶でもあるのだ。

 死んだ僕に引導を渡すなど朝飯前だろう。


「良純さん。言っていることがお坊様じゃないです」


「そうか?どのあたりが?」


 彼は困ったような悩んだ顔を素直に作った。

 そうだ、素直だ。

 不思議なことに、彼は自分自身が「真っ当な慈悲深き僧侶」であると思い込んでおり、それをちゃんと実践していると思い込んでいる節があるのだ。

 初めて出会った時から「鬼畜生」の本性が垣間見えている金メッキ野郎なのは確実であるというのに、だ。



 百目鬼良純に出会ったのは二ヶ月前の九月上旬。

 僕の名前は武本玄人たけもとくろと

 父は研究がしたいと家業から逃げて大学の助教授となったのだが、その男の子供でしかない僕が父方の実家でなぜだか「武本家当主」扱いをされている。

 父の姉加奈子かなこと妹奈央子なおこの方が確実に父より実務にたけて有能であり、加奈子の息子である僕と年の離れた従兄のかず君などは人柄の良さなど言うに及ばず、カリスマ性も才能も実務能力もすべて兼ね備えた当主たる人物でしかないのに、だ。


 こんな環境では誰よりも無能な僕が鬱になるのは必然的かもしれず、そして鬱になった人間の末路として、「鬱による自宅療養のため」に九月に大学を休学した。


 元々対人恐怖症を抱えていた僕だ。


 鬱になるなど今更だと自分でも思うが、大学二年の夏に入る頃の二十歳の誕生日の早朝、僕は駅のホームで倒れてしまったのである。

 その日以来、僕は駅に近づく度に原因不明の胸の痛みと体が鉛のように固まって動けなくなる事を繰り返すようになり、結果として電車に乗れなくなり、大学に行けなくなり、ほとんど家からも出られなくなった。

 電車に乗れない自分では、鬱の専門病院への通院も不可能である。

 そこで「入院」を両親が検討していたところ、「彼」を祖母に紹介されたのだ。


 祖母に彼を紹介した者は、武本家の菩提寺の住職様である。

 我が武本家が百貨店を起こす前は、江戸と東北地方を結ぶ海路を掌握していた廻船問屋であった。

 その本拠地は青森県の奥地にある玄同げんど村。

 江戸で財を成した信州出身だった初代の武本当主が青森に移住したのも驚きだが、廻船問屋なのになぜか海から少し距離のある山の中に本丸を建てて住み着いたことにも意味がわからない。


 けれども武本家はそこでよそ者扱いなどされず、それどころか住み着いたことによって寒村に富がもたらされたからと、領主様に近い持ち上げぶりなのである。

 そんな持ち上げぶりを表すように村名が玄同村から「武本町」と改名されているが、当時ではなく最近なのが笑える。

 今更?って。

 さて、それ程までに村人に愛されている武本家の当主が壊れたと先代未亡人の相談を受けたならば、村の代表である住職が親身になって伝手を探って動いてくれるのは当たり前であろう。



 紹介を受けた九月上旬、自分は指定された大学の広場にいた。


 自宅から歩いていける距離にある大学への道順は、なぜか母から手渡された地図と違う風景が広がるばかりで、僕が近道だと母から聞いていた裏門を見つけるまでに大層かかってしまったのである。

 一度国道246まで戻って、そこからわかりやすい正門を目指せばいいだけの話でもあるが、僕は完全に方向を見失っていたのだ。

 それでもようやく道を見つけ、目的地に辿り着いたところで三十分以上は遅刻していた。


 当たり前だが、待ち合わせの広場には誰もいなかった。

 だが、僕はがっかりよりもその時は疑問だけが沸いていた。

 待ち合わせの相手がいないのは自分の遅刻のせいだとしても、学園祭準備の真っ最中が見て取れる構内において、人っ子一人いないのはどういうことだ、と。


 設置最中のサークル屋台の出店もまばらだし、華やかな大学ではないのかもしれないと納得すると、自分の大学は華やかだったと思い返してしまった。

 けれども、華やかな大学において、去年の自分も、華やかで派手な学祭には何も感知していなかったと情けなさだけがこみ上げていた。

 僕はどこにも要らない人間だ、と。


「君が武本君?」


 突然後ろから声が聞こえて驚いて振り向くと、黒い人が後ろに立っていた。

 黒い棒のようだ、が、第一印象である。

 その時の良純和尚の格好は、ワッフル素材の黒でヨレヨレのヘンリーネックの長袖Tシャツと黒いジーンズの組み合わせに、頭は黒い綿スカーフで覆い、その上で顔には黒眼鏡を掛けているという、僧侶とは確実に思えない姿であったのだ。


 僕は彼が紹介された人物だと確証もないまま、それでもとりあえず頭を下げた。

 どこで知り合いと繋がっているのかわからないのだからと、人様への挨拶についてはとても厳しく祖母に躾られていた事による、単なる体に染み付いた条件反射でもある。


「武本玄人と申します。よろしくお願いします」


 すると、黒い人は黒眼鏡を外してから僕をしばしじっと見つめ、それから同じように頭を下げて僕に名乗ったのだが、その時に見えた彼の顔に、とても端整だと僕は見惚れてしまっていたのである。

 病気になってから「美しい」と心が動く事がなかったからか、久しぶりのその感覚に僕が浸ってしまったのはいうまでも無い。

 そんな僕を彼はベンチに誘うと、「履歴書を見せてもらえるかな」と言った……ええと、気がした。


「え?」


 戸惑っている自分に、黒い和尚も「え?」と途惑ってしまっているようだ。


「祖母に話は全て通っているからと聞いて参ったのですが、病歴なども詳しく書いて改めてお渡ししたほうが良かったのでしょうか」


「いや、病歴なんて見せられてもわからないし」


 わからないって言われても、彼はカウンセリングもする和尚ではなかったのだろうか。

 不安になって彼を見返したら、彼は腕を組んで、どうしようかな、なんて呟いている。

 あの祖母のことだ。

 きっと聞き漏らしが一つか二つか十以上はあったかもしれない。

 彼女に情報を任すと大体が失敗するのだ。

 僕が鬱に逃げずに自分で全部やり取りをするべきだった。

 それに大学の道順についても、その大学が母の母校だからと任せた僕の失態だ。

 彼女が卒業してから二十年以上は経っているのである。


 全部、僕の責任だ。


 ちくりと胸が痛み始めそっと胸に手を当てたその時、彼が再び僕に尋ねてきた。

 それも、こんな状態の自分の不安が増す質問だ。


「君は俺のこと何て言われてきたの?」


「あの、えっと。鬱の自分をカウンセリングしてくれる和尚さん」


「え」


 えって何?って、え?


「君、欝なの?」


 怖々とうなずいた。

 不安心はピークだ。

 彼も確実に僕と同じぐらいに不安だったはずだ。彼はしばし悩んでる様子を見せたのである。しかし、数秒しないで、いいか、と軽く言ってベンチを立ち上がったことには僕はびっくりした。

 いいの?


「付いて来て」


 彼はそれだけ言うとサクサクと歩き出し、僕は置いていかれまいと慌ててベンチから立ち上がり一歩を踏み出した。

 すると、突如沸き起こった喧騒に足が再び棒立ちとなってしまったのである。

 ここは相変わらず物悲しい風情の華のない学際準備中の広場だったが、いつのまにやら立ち働く学生でザワザワとしている中に僕は立ち止まっており、そして、広場を抜けた先で僕が歩いてきた道が消えていた事にまで気がついた。


 もしかして、やって「しまった」?


「どうした?」


 僕の様子に違和感を抱いたのであろう。

 彼が立ち止まって振り向いて尋ねてきた。


「いえ、あの。裏門に行く道がわからなくなってしまって」


 これは事実であるし問題はないだろうと、そう答えると、彼は見るからに変な顔だ。


「今は正門と西門しかないよ」


 しまった。



「大丈夫か?具合が悪いのか?」


 あ、彼の言葉で僕は物思いから覚めた。

 彼はいつの間にか僕の肩に左腕を回しており、僕は彼の作った空間に収められていた。

 彼は僕を抱きしめない。

 空間を持って僕を庇護するのだ。

 人との接触が苦手でありながら、人との接触を求める僕には、最適な人の体の囲い。

 否、彼がこうやって僕を庇護することで、僕は人との接触も求めていたのだと自分に初めて認めたのである。

 怖いけれど抱きしめて欲しいのだと。


「いえ、大丈夫です。思い出していたのです。良純さんと初めて会った時のことを」


「あの日のお前は道が無いって、狸に化かされた間抜けのように騒いでいたね」


「良純さんはその混乱している僕をゴミ屋敷に連れ込みましたよね」


「嫌だったら帰っていいよって、俺はお前に言ったよね。今日だって嫌だったら帰っていいんだよ。俺の仕事を手伝う行為はお前の治療の一環でもあるけれど、お前には謝礼の出る社会奉仕でしかないのだからね」


「ここがどこだか住所も知らないのに?」



 初めて出会った日も、やはり僕は住所も何も知らされずに彼のトラックに乗せられて、彼の物件の一つに連れ込まれたのである。

 僕の最初の仕事はぐちゃぐちゃのゴミ屋敷の片づけであった。

 彼の言うとおりに帰っていいよとその時も僕は言われたが、僕の財布やらスマートフォンが入った大事な鞄は鍵のかかった彼のトラックの中だったのである。そしてそれらが僕の手にあったとしても、僕は電車に乗れないのだから一人で家に帰れるわけがない。


 僕が「鬼畜生」認定を初対面の彼にした所以である。

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