救いの楊刑事
僕は良純和尚の友達だという楊刑事によって救われた。
何のことは無い。
最初に僕を脱がそうとした鑑識の女性の代りに、彼が上階の部屋に僕を連れ込んで証拠の採取をしてくれたというだけである。
ところがそれまでにも警察の間で大騒ぎがあった。
僕が犯人に思えるのか、鑑識の男性職員が一斉に自分がやると手を上げたのだ。
あの遺体は虫だらけで気味の悪い物だったから、もしかして遺体の検証から逃げたかったのかもしれないが。
眠っているようにしか見えない姿の遺体でも、身体中に蛆やミミズにヤスデが纏わりついているのだ。虫が大嫌いな僕にはゲゲゲでしかない。
そして僕は楊を選んだ。
鑑識官の彼らには申し訳ないが、最初に僕から証拠の採取をしようとした女性鑑識官がとても嫌な人だったから、同じブルーのツナギだけで怖いと思ってしまうのだ。
彼女とはどんな風だったかというと、まず楊の相棒だという髙が、楊の後ろに行く前に玄関で僕に声をかけたのである。
「まず君は、あのお姉さんの言うことを聞いて」
彼がすっと指さした方向を見れば、胸元に田口と名札のある女性が玄関の外に立っていた。彼女は僕の視線を受けるや動いた。彼女は貼り付けた笑顔のまま大雑把な動きで玄関に入り込むと、僕の腕を掴んで有無を言わさずに風呂場に連れ込んだのだのである。
この家で一番危険なお風呂場に、だ。
ちなみに僕はサバサバ系を自称する女性が嫌いだ。
自称する方々は大体において動作が乱雑で、少々のことで腹を立てて、そして、しつこいくらいに彼女達の怒りを買った相手を攻撃するのである。
僕の母は外見をおっとり奥様風に飾っているが、自分をサバサバ系だと友人達と電話で語り合っているから、この見方に間違いなどないだろう。
「さぁ。脱いで。」
丸顔でどんぐり目の田口は美人ではないが可愛らしい感じの人で、だが、それは顔つきだけの話であったようだ。彼女は僕にこれからどうするのかという説明もなく、勝手に僕の写真を撮り、勝手に、どころか乱暴に手をつかんで指紋を取った。
指紋というものは容疑者でも任意で行うものではないだろうか。
そして次は服を脱げとの連呼だ。
僕は心細くなり、怖いと思いながらも田口に尋ねていた。
「あの。良純さんは?」
「彼は別のところでしています。いいから脱いで。それよりも、あなたはいくつなの?学校に行かずに何をしているの。男の前じゃないと服が脱げないの?」
僕は彼女の嫌味を含んだ声音に、あの日の母の言葉が重なった。
「玄人、あなたが他人と旅行なんて何を考えているの。無理に決まっているでしょう。卒業旅行のお誘いは私が断っておいたから、心配しないでいいのよ。あなたの体じゃ、人前で服など脱げないでしょう」
翌日の学校で、僕は旅行に誘ってくれた彼から絶交を言い渡された。
「卒業するから僕はもう不要って、君は僕を金で買っていたんだね」
これは母の復讐なのだ。
我が子の肉体を奪った死霊への復讐。
実の子供に、どうして母親が悪意など向けれるのだ。
「ほら!早く脱ぐ!そしてこの紙袋に入れる!」
一言一句甲高い声で強調して叫ぶ田口に叱責されるたびに、僕は脅え混乱し、僕は彼女の言うがままに上のシャツを脱いで彼女が開く紙袋に投げ入れていた。
あぁ、しまった。僕のシャツが一枚消えた。
「ほら!次はそのTシャツとズボンも」
「え?」
「全部。下着以外全部だってわかっているでしょう!ちゃんと着替えも貸してあげるから、さっさと全部脱いでちょうだい」
僕は走って逃げていた。
この家では一番安全なリビングダイニングルームへと駆け込んだのである。
「ズボンも欲しいんだけど、駄目かな?一応替えのジャージはあるけど」
「僕には二本しかズボンが無いので、駄目です」
「買い足せない?全部検査したらクリーニングして返すけどね。申し訳ないけど、返せるまでに時間がかかるかもしれないから」
僕が楊を見下ろすと、彼は僕のズボンにぺたぺたと透明フィルムのシールを貼り付けるという証拠採取をしており、作業のためにしゃがんでいる楊のつむじのあたりには、みみずばれのような古傷が走っていた。
彼は僕の視線に気づいたかのように目線だけ僕の顔に向けて、僕が返事をしないことを咎めるように右眉を軽く動かした。
「あの、買い足しなんて無理です。お洋服を買い足す余裕が無いんです。このズボンも従兄の和君から貰ったものです。僕の洋服は全部従兄の和君が用意してくれたものです。父の実家は小売店を経営しているから、倉庫品をあげるよって」
「え?」
楊は納得していない顔で僕を窺っている。
「あの。小売店を経営していても、父は経営に関わっていないので、我が家は貧乏なのです。貧乏になったから、かな。僕のせいで」
「え?どうして君のせいで貧乏になったの?自転車で人を轢いちゃった?」
固そうな黒縁眼鏡に合わない軽薄な口調であった。
「あの、すいません。僕の学費が物凄く高いので、洋服代まで出せないって。僕が頭が悪かったから。高校も私立だったから」
俯いた彼はふうっと息を吐き出すと、ぐいっと顔を上げた。
「百目鬼に強請れ。あいつは金持ちだ」
「そんなことないです」
「そうだって」
「でも、良純さんは仕事以外のお金にはとても細かいです。みみっちいくらいです!」
楊はここで盛大に噴出し、親指と人差し指で円を作るとニヤリと笑った。
「俺に任せておけ」
僕は悪戯そうな楊の笑顔に吃驚したのかもしれない。
彼の言葉を信じて、彼の言うままにズボンとTシャツまでも脱いで彼に没収されるに任せたのである。一応ジャージを渡してもらえたが、これは警察に後で返却するものであるらしいので僕のものにはならない。
楊と一緒に階下に降りると、同じ格好をした良純和尚が僕を待っていた。
僕は貸し出されたジャージがぶかぶかで、彼にはツンツルテンだ。
それでも誰も彼の姿を笑うことの出来ない威圧感をかもし出しているのには驚いた。
そして、楊は部下から渡されたボードを良純和尚に手渡すと、書類の記入について説明をしだした。
「これ。リビングにある大荷物に対する所有権放棄の署名。それから、こっちはお前とちびの服の預かり証。服はさ、破損して返せないかもしれないから、それに対しての受諾のサインもしてくれる?」
楊は僕の目の前で約束を守るどころか破ったのである。
なんて大嘘つきだ。僕は彼が良純和尚に服を強請ってくれると約束してくれて、且つ、渡した服も返してくれると言ったから服を渡したのである。
戻って来ないなど契約違反だ。
詐欺だ。
僕のズボンは後一本。
シャツはあと四枚しかないではないか。
「楊さんの嘘吐き!服を返してくれるって言ったじゃないですか!僕の洋服が帰ってこないと僕は困ります!僕は貧乏で服が無いんです!」
僕は何も考えずに叫んでしまっていた。
こんな声で叫んだのは何年ぶりだろうかというくらいに、だ。
もしかして今まで一度も無かったかもしれない。
だが、楊は僕に上階で見せた悪たれな笑顔を見せ、なんと良純和尚が考えもしなかったセリフを僕に吐いたのだ。
「帰り道に店が開いていたら服を買うぞ。服が返って来なかったら、そっちも弁償してやるからいいな」
僕は大きくコクコクと良純和尚に頷いていた。
新しい服は四年ぶりだ。
楊は嘘吐きどころか僕の英雄になっていた。




