2猫模様交差点
体育の授業が終わった頃には、すっかり優子にメールをするのを忘れてしまい、放課後、田中に声をかけられてようやくそのことを思い出した。
『優子、どうしたの? 風邪でも引いちゃった?』
メールを見ればすぐに返事を返してくるだろうと、しばらく待ったが返信がない。優子はそれほどまめにメールを確認するタイプじゃないし、具合が悪くて寝ているか、学校を休まなければならないような用事ででかけているなら、それもしかたがないと諦め、とりあえず田中を連れてあの場所に向かうことにした。
「ねぇ田中、誰だかわかった? あの写真の女子高生」
「いや、さっぱりだわ。カズ子は?」
「あたしも全然よ」
目的の場所は学校から徒歩10分ほどの距離だ。そういえば、こうして二人で歩くのは随分久しぶりな気もする。
「優子にメールで聞いちゃおうかなって思ったんだけど――ああ、優子、今日休みだったみたい」
「へぇ、めずらしいな。マネージャーが休みなんて」
いつの頃か、田中は優子のことをマネージャーと呼ぶようになった。優子も部員の前では田中のことをキャプテンと呼んでいるらしい。ただ、三人でいるときは、『せいちゃん』と呼んでいる。田中誠司だから"せいちゃん"なのだが、野球部には田中達也というもう1人の田中がいる。『田中君』が二人いるので、チームメイとは1年のときはそれぞれ名前を呼んでいたが、二年生になり、田中が主将に選ばれてからは、当然キャプテンと呼ばれることが多くなった。
「写メ送って、優子に見てもらおうとか考えたんだけど、さすがにいきなり心霊写真を送るのはまずいかなぁと」
田中が大声で笑った。田中は街中だろうと、駅のホームだろうと人目も気にせず、そうやって笑うのだ。
「そうだな。あいつ、結構、そういうの、駄目だからな。幽霊とかお化けとか」
あたしだって苦手だよと思いながらも、それを口にするのは何かしゃくにさわるので黙っていた。
「なぁ、カズ子」
「なぁに」
「やっぱ、カズ子は、数子だな」
顔を真っ赤にして怒るあたしは、どこかほっとしている。過去につながっている自分を証明する存在があるとすれば、それは、あたしを過去から現在まで見てくれた第三者である。
"観測者なしに世界は存在しえない"
私は"あたし"を常に見ている。しかし、私が見ているだけでは、"あたし"の存在は証明できない。"あたし"を観測する第三者が"あたし"の存在を認めてこそ、"あたし"という存在は証明できる。
そんな理屈っぽいことを考えている女子校生は、幸せにはなれないんじゃないかと優子に愚痴をこぼしたことがある。優子は笑ってこう言ってくれた。
「カズ子って、ロマンチストよね、そういう乙女には、それにふさわしい男性が現れるように、世界の方程式は作られているんじゃない? じゃなきゃ、世界はとっくに滅びているわよ」
あたしが優子を何かと頼りにしてしまうのは、優子のそういう割り切り方、思い切りの良さなのだと思う。考えるよりも行動を先にするタイプの優子は、田中に頼まれてあっさりと野球部のマネージャーを引き受けてしまった。
「だって面白そうじゃん」
あたしにはとてもまねができない。もし田中があたしにそんな相談をしてきたら、どうしていただろうか。"いや、それはありえない"と思ってしまう。あたしは優子が野球部のマネージャーとして必要とされる能力が高い数値であることを瞬時に計算し、あたしの残念な数値と比較し、すぐに答えを出してしまう。"無駄な努力などない"とか"やってみることに意味がある"とか、そういうことではないのだ。あたしは――
「カズ子って、やっぱ幽霊とか信じない感じ? 人魂はプラズマ、幽霊は電磁波が引き起こす幻覚や幻聴みたいな?」
「あたし、そこまで唯物論者じゃないわよ」
指摘された事実を認めながらもあたしは抵抗する。それは無駄な努力ではない。
「なにそれ、霊能者よりも強いの」
「ねぇ、あたしのこと、馬鹿にしてる?」
そんなあたしを認めてくれなくてもいい。やることに意味がある。
「カズ子は賢い」
「ノート返して」
でも、結局、抵抗は無意味だと思い知らされる。
「カズ子は賢くて可愛い」
「優子と比べて?」
あー、やってしまった。とんでもないことを口にしてしまったと、一瞬頭の中が真っ白になりかけた。
「昨日もそんなこと、マネージャーに聴かれたな。女子って、どうしてそういうこと気にするのかね。ぜんぜんわかんねー」
はぁ?
交差点で信号待ちをしているのは、あたしと田中だけだった。目の前の風景がどこか浮世離れした――時間が静止したほんの0.1秒の間に、あたしの意識が飛ばされたような感覚。浮遊感をともなう"とんちんかん"。
信号がすべて赤になり、そして目の前に道が開ける。田中が一歩先に横断歩道を歩きだす。あたしはおいてけぼりになりそうな感じがして、思わず右手で田中の左手を掴もうとする。
"何をしようとしているのよ、あたし"
通りゃんせ 通りゃんせここはどこの 細道じゃ……
確か昔は信号機から、そんなメロディーが流れていたっけ。そうえいば最近は聞かなくなったけど、今、私の頭の中には、あのメロディーが流れている。
目的の場所――大きな交差点の角にある商業ビルが見えている。優子はなんでそんなこと、言ったんだろう。田中は馬鹿なんだろうか。それともあたしの脳細胞が恋愛脳とやらになってしまい勝手に暴走しているのか。
「なぁ、先にコンビニに寄ってコピー取らせてもらっていい。今度の試験の範囲、どこからどこかもわかんねーし、一緒に付き合ってくれない」
一瞬どきっとしてしまった自分に驚きを隠せない。"一緒に付き合ってくれない"の意味を理解しながらも、言語感に反応してしまっている自分が情けない。そんなんじゃない。そんなんじゃないんだってば!
「いいよ、付き合ってあげる」
「サンキュー」
田中はもう、どこをどう切っても田中なのだろう。あたしは自分で自分を慰めることに慣れている。なぜなら、これはあたしの中で起きている出来事であり、第三者から観測されない限り、答えは常に五分五分なのである。
箱を開けなければ可能性は五分五分である――シュレディンガーの猫を知ったのは、中学の時、受験勉強の合間に、好きな数学の雑学的な本を読んだのがきっかけだった。あたしは計算するのも好きだけれど、論理パズルや思考実験が好きでたまらなかった。「嘘をつかない天使」「嘘をつく悪魔」「気分で嘘をつく人間」を見分ける問題や天国と地獄の扉の前にいる見分けがつかない天使と悪魔に対して、1回の質問で天国への扉を見分ける質問をするにはどうすればいいのかといった問題である。
『シュレディンガーの猫』とは、箱の中にある一定の条件で毒が発生する装置を設置し、その中に猫を閉じ込める。1時間で装置が作動するか、しない確率が同じ場合、箱を開けるまで、猫の生死は1対1の状態に保たれることになる。しかし、観察者が箱をあけた瞬間に、必ずどちらかの結果が得られる。つまり観察者が実験の結果に影響を及ぼしてしまうというパラドックスを指摘しているのだけれど――猫?
交差点を渡り切り、目の前のコンビニに入ろうとする田中を肩越しに、昨日見たあの黒猫が視界に入った。
「ちょっと観て! あの猫よ」
あたしは躊躇なく、無意識に、潜在的な欲求を満たした。
「な、なんだよ、急に」
突然あたしに左腕を掴まれた田中は、崩れかけた身体のバランスを瞬時に取戻し、あたしのリードに従った。
「昨日見た猫があそこにいるのよ!」
ブチ猫の毛の黒と黒猫の毛の黒は違う。あたしが昨日見た子猫は、まさに黒猫のあたしの中でイメージしたシュレディンガーの猫そのものである。
「どこだ?」
「こっち、早く」
田中の視界には入っていないのか、もし田中にそれが観えていたのなら、あたしを引きずるような勢いで走ったに違いないのだが、そのときのあたしには、目の前を走る黒猫のことしで頭がいっぱいだった。だから何も観えていなかった。周りの景色も、田中の表情も……
あたしたちは100メートルダッシュを二人三脚でするような体で、あの写真を撮った場所――煉瓦の建物がある狭い路地に足を踏み入れた。




