ぼくのやさしいお父さん
『メレブっ!メレブっ!メレブっ!』
『シャドウマスクっ!シャドウマスクっ!』
空調が利いているはずのそのドーム内は、しかし、異様な熱気に包まれていた。
10万以上の人間を収容可能な観客席は、なお立ち見客が出るほどの過去にない動員数を見せている。
ここは、世界最大の面積と人口を誇る一大国家ベイリカはカジノ都市バスデガス。通称デガス。
そんなデガスでは今、その存在を知らぬ者は赤子くらいであると言われる世界的な格闘トーナメントが行われていた。
莫大な賞金と名声を目当てに、各国から集った猛者たち。
様々なコンテンツで情報が発信されているにも関わらず、彼らを応援するため現地を訪れる純粋な格闘ファンや賭け試合で一獲千金を狙うギャンブラーの面々。
最終日現在に至るまでの10日間にも渡る戦いの日々は彼らを疲労させるどころか、むしろ今日と言う日に向けて最高潮にまで高められているようであった。
「青コーナー!ラフリカの大地が産んだ天才的カポエイラの使い手、メレブ選手!」
司会の男が示した方向から、しなやかな筋肉を携えた黒人が会場に現れる。
同時に歓声が爆発し会場を揺らした。
メレブは声援に応えるべく爽やかに微笑みながら大きく手を振りつつ、ステージまでゆったりとした歩調で足を進めている。
そして、彼がステージ上の定位置に立ち、会場の興奮が少しおさまったところで司会の男は再び口を開いた。
「対するは、全試合1ラウンドKO勝ちという圧倒的強さを見せつけてくれた謎の男、シャドウマスク選手!」
その声に、漆黒のマスクと全身タイツを身にまとう筋骨隆々の男が姿を現した。
メレブの際と同様に歓声が上がるが、男はそれを意に介さず重厚な足取りでリングを目指す。
「オッズは4対6!実績の差でしょうか、メレブ選手がやや優勢です!
さぁっ、この闘いに勝利し世界最強の名を頂くのは果たしてどちらか!?
間もなく、最終決戦の火ぶたが切って落とされようとしています!」
開始線に立った2人は、すでに闘気を全身にみなぎらせ爆発の瞬間を今か今かと待ちわびている様子だ。
騒がしかった観客たちも口を閉ざし、緊張の面持ちでゴングの鳴る瞬間を見守っている。
合図の為、静かに手を上げたレフェリーが大きく息を吸い込んだ。
「…………っ始め!」
~~~~~~~~~~
話は少しばかり過去に遡る。
「決勝進出おめでとう、お父さん!」
準決勝進出に伴い主催側から与えられたホテルの一室で少年の屈託の無い笑顔に出迎えられたのは、くたびれたポロシャツとジーンズに身を包んだ30代前半と思わしき男。
ブラウンの髪と口ひげをたくわえた冴えない容姿の男は、だが、逞しく鍛え上げられ余分な脂肪の一切ついていない鋼のごとき肉体を持っていた。
彼は愛しい我が子に目を細め微笑みを返しつつ、跪いて問いかける。
「ありがとう、リック。留守の間、何か不自由は無かったか?」
「うん。ここはトイレにも手すりがついているし、通路も広いから快適だよ。」
「……そうか。」
男は小さく頷いて少年の頭を撫でる。
彼の息子リックは、生まれつき両足に障害を持っていた。
補助装置と松葉杖の併用で不格好ながらも何とか自力歩行は可能だが、それも長距離はかなわず走る事など夢のまた夢といった具合だ。
子供の手を自らの両手で包み込み、真剣な眼差しを向けて男は呟く。
「あと1度だ。あとたった1度勝てば、リック。お前の足を治してやれる。」
「……お父さん。ありがとう。
でも、無理だけはしないでね。別に死ぬような病気ってわけじゃあないんだからさ。」
そう気遣うように言って苦笑いしてみせる息子に対し、男は痛ましげに眉を顰めた。
出産と同時に命を落とした彼の妻に代わりどうにかこうにか四苦八苦しながら育てては来たが、幼い頃からいらぬ苦労をしたせいか、10歳という幼さにも関わらずリックは何とも子供らしくない性格になってしまったのだ。
自らの到らなさのせいで早くに大人にならなければならなかった息子を見ていると、男は形容し難い切なさを覚えるらしい。
それでも何とか笑顔を取り繕って、彼は静かに口を開いた。
「きっと無事に勝って戻って来る。
だから、リック。信じて待っててくれるか?」
「うん!」
その夜。男は息子が寝静まったのを確認して部屋を抜け出した。
ホテルの外へと踏み出した彼の身体を、ベガス独特のなまぬるい風が撫でつけ去って行く。
ギラギラと情緒無く激しく主張してくる電飾に彩られた街中を、男は慣れた足取りで進んだ。
それから、歩き始めて10分ほども経った頃、彼は表通りから少し外れた薄暗い路地にある小さなバーへと辿り着いていた。
一見しただけではそこが店である事など分からないのだが、男は迷いなく扉に手をかける。
狭い店内には、間近に寄る事でかろうじて人の顔が認識できる程度のわずかな明かりのみが灯されている。
男はカウンター席に座る灰色のスーツを着た壮年男性の右隣の椅子に黙って腰を下ろした。
注文したドリンクが半分ほど喉を通り過ぎたところで、左の壮年男性が懐から小さな黒い箱を取り出す。
彼はテーブルの上に置いたその箱をつ…と男のコップの傍に滑らせて、独り言を呟くような小さな声でこう告げた。
「明日の分だ。」
男は黙ってその箱をポロシャツの胸ポケットに仕舞い込む。
互いに顔は正面を向いたままだ。
「……約束は守ってもらえるんだろうな。」
「くくっ、勿論だとも。
余計な疑念など抱かずに、お前はただ明日の試合に勝つことだけを考えているがいい。」
低く唸るような声で問えば、相手は嘲るような声でそう返してくる。
それ以上は聞くことも無いと口を噤み、男はぐいとコップの中身をあおって席を立った。
華やかな表通りを歩く気分にもなれず、またすぐにホテルに戻る気にもなれず、適当に目についた裏道を彷徨う男。
そんな彼の表情は思いのほか苦々しく歪められている。
胸ポケットからほんの少しはみ出した黒い箱を服の上から握りながら、男はトーナメントに出場するまでの経緯を思い出していた。
『あなたは黙って首を縦に振るだけで良い。
たったそれだけで息子さんを助けてあげられるのですよ。何を迷う事があります。』
『しかし、すでに引退した身とは言え私とて格闘家のはしくれです。
そのように卑怯な真似は……。』
小さな町の小さな工場。その敷地の片隅で2人の男の話声がボソボソと響いていた。
背後に屈強なボディーガード3人を携えた黄色のスーツを着た交渉人が、男に向かい声を荒げる。
『卑怯っ。そのような言われ方は心外ですなっ。』
『しかし、結局はドーピングをしろと。そういう事なのでしょう。』
『えぇ。ただし、従来のものと比べ数十倍の効果がありながら、けっして検出される事の無い我が社自慢の新薬ですが…ね。
だとすれば、それはもう反則でも何でもない創意工夫の範囲内ではありませんか?』
『なっ…!』
交渉人の信じられない発言に表情を歪め反論しようと口を開く男だったが、しかしそれは次に発せられた言葉によって遮られてしまう。
『それにっ!
……よしんばあなたの言う卑怯な行為だったとして、それだけの理由で息子さんの足をなおす唯一のチャンスを棒に振るってしまうのはあまりにも愚かだ。
そうは思いませんか。』
男は彼のそのセリフを聞いた瞬間、ぐっと身体を強張らせた。
愛する息子の未来とすでに過去である格闘家としての自分……。
その価値は比ぶべくもない。
「ハッ!」
耳に届いてきた何者かの声に意識を戻すと、道の先の広場で奇妙な動きを見せる1人の男の姿が目に入った。
今にも切れてしまいそうな小さな輝きの電灯の下で、リズミカルにステップを踏みながら様々な形の蹴りを繰り出している。
どうしてかその動きに惹かれてフラフラと傍に寄れば、それがとてもよく見知った人物であることが分かった。
明日の決勝戦の相手、メレブだ。
一見、ダンスを踊っているようにも見えるその動作は、おそらく彼が使うというカポエイラのソレなのだろう。
後ろめたさから自身の試合以外に目を向けて来なかった男は、ここに来てそれをひどく後悔した。
野生の獣のごとき力強くしなやかなその動作は、しかし、どこまでも洗練されており美しい。
無駄の一切を省いた機能美とでも言うのだろうか。
長く格闘家として自らを鍛え続けた男にも、目の前の彼がどれほど過酷な鍛錬を積んで来たのか想像もつかなかった。
元々のセンスの高さも当然あるだろう。けれど、それだけでは到底成しえない並々ならぬ努力の跡が男の目には垣間見えていた。
愕然とした表情で見開かれた瞳から、光るものが零れ落ち頬をつたっていく。
心臓が早鐘を打ち、口から荒い呼吸音が漏れた。
(……あぁ……っあぁ。
こんな…、こんなにも素晴らしい格闘家は今まで見た事が無い。
だのに、だと言うのに、自分はドーピングなどという最低の反則行為で彼との勝負を穢そうとしているのか!?
っバカな!そんなバカな事がッ!)
男は己の拳を強く握り込み、唇を噛んだ。
悔しさと情けなさに涙が止まらない。
妻の忘れ形見である息子を愛しすぎた彼は、それゆえに失いかけていたあるものを取り戻そうとしていた。
それは、かつて男が当たり前に持っていたもの。
そして、なにより大切にしていたもの。
そう。…………戦士としての誇りだった。
無言で勢い良く身を翻した男は、足早にその場を後にする。
彼の立っていた場所に、メチャクチャに握りつぶされた小さな黒い箱が転がっていた。
歪んだ箱の隙間から覗く粉々に割れた注射器。そこから溢れた透明な液体が冷たく地面を濡らしていた。
~~~~~~~~~~
カーンというゴング独特の音色が響くと同時に、シャドウマスクはごく小さな声でメレブに話しかけた。
「私の目を覚まさせてくれて礼を言う。
最後の最後に、メレブ。貴方という素晴らしい格闘家と出会えて良かった。」
「…………?」
よく分からない言葉を投げかけられたメレブは、警戒心を解かないまま困惑に眉を顰める。
直後、シャドウマスクの取った予想外の行動にメレブは思わず驚きの声を上げた。
「なっ!?」
『あーっとぉ、これはどうした事だぁ!?
試合が始まっているというのに、シャドウマスク選手は構えもせずに自らのマスクに手をかけ……。
はっ、外したぁーーーッ!?』
観客席にドッとどよめきが広がる。
興味深げに瞳を輝かせる者、ポカンと口を開き呆然とする者、怪訝に顔を歪める者、その表情は様々だ。
ステージ上のシャドウマスクはそんな雑音を無視して、剥ぎ取ったマスクを後方へ投げ捨てた。
「悪魔の傀儡シャドウマスクとしてでは無く、かつての格闘家ロドムとしてお相手させていただこう。」
真摯な眼差しでそう告げたロドムは、おもむろに半身に構えを取る。
それを受けて、メレブは早々に意識を切り換え、腰を低く落として腕で顔を庇いながら身体を左右に動かすジンガと呼ばれるカポエイラ独特のステップを踏んだ。
ともすれば動きを読まれ攻め込まれる隙となりやすい動作なのだが、ことメレブに至ってはそれは全く当てはまるものではない。
両者の真剣な空気を感じ取り、観客席のざわめきは次第に静まっていく。
再び闘気を放ち始めた2人の姿に彼らはようやく思い出したのだ。すでに試合は始まっていた…という事を。
「マルテーロッ!」
先に仕掛けたのはメレブだった。風を切るような鋭い上段蹴りがロドムを襲う。
しかし、冷静なロドムは蹴りの軌道に合わせ上半身を後方に反らすという最小限の動きで攻撃をかわした。
さらに、上体を起こす際にそのまま流れるような動作でメレブの足に手を伸ばす。立ち関節の技を仕掛けようとしているようだった。
すぐにそれを察したメレブは、素早く足を引き次の動作に移る。
「カベサーダッ!」
足を取るためにほんの少し前傾姿勢になったロドムへ頭突きを繰り出した。
今度は身体を捻るように左に倒してよけながら、彼は握り込んだ拳をメレブの腹部へと走らせる。
身を屈めてそれを避けたメレブは、マカーコと呼ばれるしゃがんだ状態からのバク転で距離を取った。
同時にロドムもバックステップでメレブから離れる。
睨みあうように視線を合わせ、再び構えの状態に戻る両者。
会場内はしんと静まり返っていた。
司会すら己の仕事を忘れたように口を噤み、大きく見開いた瞳でじっと試合の行く末を見守っている。
今まで誰も目にしたことが無いような非常に高レベルの攻防に、試合を見守る観客たちはただただ魅了されていた。
また、それ以上に驚愕もしていた。
これまでシャドーマスクとして闘っていたロドムは、怪力に物を言わせた力任せの荒技ばかり使っていたのだ。
それが、ここに来てまるで別人のように洗練された動きを見せている。驚くなという方が無理だった。
~~~~~~~~~~
「お父さん、お帰りなさい!
今日の試合、すっごくすっごく恰好良かったよ!!」
ロドムが部屋に戻るなり、頬を紅潮させた彼の息子リックは大興奮でそう告げた。
それに小さく苦笑いで返しつつ、彼はリックの腰掛けるベッドのすぐ隣へと腰を下ろす。
「ありがとう。」
言葉と裏腹に悲痛な面持ちで己を抱き寄せる父親を、リックは不思議そうに見上げた。
「お父さん?」
「……すまん。
すまん、リック。お前の足……。」
「なぁんだ、そんな事っ。」
ロドムの言葉を軽く笑い飛ばすリック。
足を治療する機会が永遠に失われたというのに、なお屈託のない笑顔を見せる息子をロドムは意外な思いで見つめた。
そんな父親に、リックはしょうがないなとでも言いたげな表情を向けて口を開く。
「頑張ってくれたお父さんには悪いけど、元々その話自体あんまり実感って無かったし。」
「リック……。」
「それに、無事に帰るって約束も守ってくれたし、お父さんの恰好良いところも見れた。
あと、タダでデガスに旅行が出来てとってもラッキー。
ねっ。お父さんが謝るようなこと、全然ないでしょ?」
「…………っリック。」
どこまでもどこまでも心優しい、自分には出来過ぎた息子。
胸の内から例えようのない愛しさ込み上げるロドムは、その想いのままにリックを力強く抱きしめたのだった。
彼が試合に負けた事で、ドーピングを持ちかけた組織は不穏な考えを持つ小国家への新薬の売り込みに失敗し、その結果、多くの罪なき命が救われる流れとなったのだが……。
その事実をロドム本人が知ることはついぞ無かった。
FIN.