『死役所の窓口で「一番幸せだった記憶」を提出してくださいと言われた。~最期に僕が手放した、世界で一番惨めな一日のこと~』
『一番幸せな記憶を提出してください』と言われて、僕が差し出したのは、あの日食べた「不味いコンビニ弁当」の記憶だった。
「……はい、次の方。佐藤一樹さん。27歳。死因は病死。……お疲れ様でした」
目の前の男は、いかにも役所の窓口にいそうな、くたびれたスーツを着ていた。
周囲は、ただ真っ白。
自分が死んだんだってことは、案外すんなり受け入れられた。
「あちらの『門』を通るために、一つだけ手続きが必要です。あなたの人生で『最も幸せだった記憶』を、一つだけ提出してください」
「……幸せな記憶?」
僕は、思わず鼻で笑った。
「そんなもん、ないよ。20代のほとんどを病院のベッドで過ごして、金も未来もなくて。最後は、一番大切だった恋人にさえ酷い嘘をついて追い出したんだ。僕の人生なんて、ただの燃えカスだよ」
「そんなはずはありません。どんな人生にも、必ず一つは……」
「ないって言ってるだろ!」
声を荒らげると、肺の痛みが消えていることに気づく。死んだんだな、本当に。
「……じゃあ、これにしましょう」
男は、僕の記憶の目録をパラパラとめくり、ある一点を指差した。
「二年前の六月。雨の日。アパートで一人、コンビニ弁当を食べている記憶です。あなたの感情が、ここで一番強く揺れている」
「は……? ふざけんなよ」
僕は身を乗り出した。
「あの日が、人生で一番最悪な日だったんだ。彼女に別れを告げて、ボロアパートに帰って、ずぶ濡れのまま、半額のハンバーグ弁当を食ったんだ。味がしなくて、惨めで、情けなくて……あんな記憶、一番いらない!」
「いいえ。あなたはあの時、泣きながらこう思ったはずです。――『あぁ、腹が減ったな』と」
心臓を、直接掴まれたような気がした。
「死にたい、消えたい。そう絶望しながら、あなたの体は生きようとしていた。咀嚼して、栄養を摂って、明日を迎えようとしていた。それは、あなたが本能で『生』を肯定した瞬間です。そして、彼女に嘘をついたのは、彼女が別の誰かと笑う『未来』を願ったからでしょう?」
男が指を鳴らすと、目の前にあの日が再現された。
冷え切った部屋。テレビの砂嵐。
箸を持つ手が震えている。
口に詰め込んだ、ボソボソした米。
情けない。苦しい。死にたい。
でも、確かにあの時、僕は全力で「生きていた」。
「この記憶には、あなたの愛も、執着も、生きたいという呪いも、全部詰まっている。……どうしますか? これを差し出せば、あなたは楽に門をくぐれます。彼女を愛した痛みも、全部忘れて」
僕は、その泥のような記憶を見つめた。
黄金色なんかじゃない。不快な雨の匂いがする、最低の記憶。
でも。
これがなくなったら。
僕が彼女のために流した涙も。
あの日、不味い弁当を完食して「明日もまた病院に行こう」と決めたあの泥臭い決意も。
全部、無かったことになってしまう。
「……嫌だ」「はい?」
「提出しない。……この記憶は、持っていく。地獄に行くことになっても構わない。この不味さと痛みを忘れたら、僕が僕じゃなくなる」
窓口の男が、初めて少しだけ笑った気がした。
「……合格です」
「え?」
「『一番の幸せ』とは、キラキラした思い出のことじゃない。自分が自分であることを、最も強く抱きしめた瞬間のことです。……それを持ったまま、お行きなさい。その痛みこそが、あなたの魂の形ですから」
顔を上げると、男の姿も机も消えていた。
ただ、胸の奥に。
あの日の冷えた弁当の感触と、温かい涙の温度だけが、消えない熱を持って残っていた。
僕は、真っ白な光の中へ、一歩を踏み出した。
門をくぐった先は、天国でも地獄でもなかった。
そこにあったのは、見慣れた、でも少しだけ彩度の高い「街」だった。
僕が死ぬ間際まで住んでいた、あの湿っぽくて狭い街。
ただ、雨は降っていない。
空は驚くほど高く、吸い込まれそうなほど青かった。
ふと、自分の手のひらを見る。
透き通っているわけでも、光っているわけでもない。
ただの、27歳の男の手だ。
指先には、さっきまで持っていたはずの「不味い弁当の記憶」が、小さな、でもずっしりと重い黒い石のような形になって握られていた。
「……これ、どうすればいいんだよ」
途方に暮れて歩き出すと、街の角にある小さな公園のベンチに、一人の女性が座っているのが見えた。
白いワンピース。
風に揺れる長い髪。
僕が、一生をかけても償えないような嘘をついて、遠ざけた人。
「……陽子?」
心臓が、生きていた時よりも激しく脈打った。
彼女がゆっくりと振り返る。
その瞳に涙はなかった。ただ、僕が一番好きだった、あの柔らかな微笑みを浮かべていた。
「遅かったね、一樹くん」
「……え、なんで。陽子、お前、まさか……」
頭が真っ白になった。
彼女はまだ生きて、幸せになっているはずだった。僕がそう願って、地獄のような孤独を選んだはずだったのに。
「違うよ。私はまだ、あっち側にいる。これは、一樹くんが持ってきた『記憶』が見せている幻かもしれないし、私の生霊みたいなものかもしれない」
彼女は立ち上がり、僕の手に握られた「黒い石」にそっと触れた。
「……ひどい味。雨の匂いと、安っぽい揚げ物の脂の味。それと……私のことが、苦しくなるくらい好きだって味」
彼女の指が触れた瞬間、黒い石がパキッと音を立てて割れた。
中から溢れ出したのは、どろどろした絶望なんかじゃない。
あの日、僕が彼女に言えなかった「愛してる」という言葉が、温かな光となって僕たちを包み込んだ。
「一樹くん。あなたが持ってきたのは、苦しみじゃないよ。私を愛し抜こうとした、プライドでしょ?」
僕は、声も出さずに泣いた。
あの雨の日、冷めた弁当を頬張りながら、飲み込んだ涙。
「生きていてよかった」なんて、一度も思えなかった人生。でも、彼女の温もり(のようなもの)を感じた今、ようやく理解した。
窓口の男が言った通りだ。あの最悪な一日は、僕が彼女を、そして自分自身の人生を、誰よりも強く肯定した日だったんだ。
「……ねぇ、一樹くん。その記憶、半分置いていって」
「え?」
「私がそっちに行くまで、この街で寂しくないように。……あと、私がそっちに行った時、その不味い
弁当の答え合わせをしましょう?」
彼女の姿が、陽炎のように揺れて透けていく。
気づけば、僕の手には石のかけらが半分だけ残っていた。さっきまでの重みはない。
ただ、春の日差しのような、心地よい温度だけがある。僕は、そのかけらを大切にポケットに仕舞い、青空を見上げた。
天国がどんな場所か、まだ分からない。
でも、この記憶がある限り、どこへ行っても僕は僕のままだ。
「……待ってるよ、陽子」
僕は、今度こそ迷わずに、光の差す方へと歩き出した。
その足取りは、あの日、雨の中を歩いた時よりも、ずっと確かだった。




