嫌
いや、まあそう言うものなんだろうけど。
生きる中であまり好まないのは、人の内面だろう。
出会ってから別れまで。いや、別れの無い場合もあるのだろうがその中で何度人は内側をさぐり合うのか。
結局のところそこから何かを得られたか。
いじめる人、褒める人、貶す人、愛する人どの場合だって内面が逆でないと誰が言えるのだろうか。
いくら謝られようが信じ難い。今後同じことをしないという信頼は、とんだ阿呆でなければしない事だ。
いくら感謝されようが信じ難い。その裏に何が隠されているのかわかったもんじゃない。
なにも常に人を疑う訳では無いが、少し憂鬱な時、騙された時、恋をした時、幸せな時。その中の僅か一瞬。
ある気持ちが続く中でそれが途切れた時、そういった考えが浮かび出す。
私だけなのかもしれない。こんなどうしようもないような考えを持ち、それを嫌うのは。
私がこういった風に人の内面をさぐっても結局得られたのは、疑いによる不和だけである。
人を信じないのは、相手を自分の領域に入れたくないからだろう。
信じられればいくら近しい存在でも怖くない。
実害を受けていないのに何故か人を信じられないのは、きっと無自覚の奥底でその人が裏切る可能性を察知したからだろう。
そうでないのならそれはただの人嫌いである。
では、私はどうか。
現在に至るまで様々な人との出会いと別れを経験してきたが信頼を寄せたのは、ただの一人もいない。
人嫌いなのかもしれない。
知ったふうな口を聞く人間は嫌だ。
ついてはいけない嘘を知らない人間は嫌だ。
利己的な人間は嫌だ。
利他的な人間は嫌だ。
モラルのない人間は嫌だ。
ここに述べられたどのうちにも当てはまらぬ人はいるのか。
居ないはずである。
こんなことを言う私だって当てはまりかねない。
ならば私は、一生人を信じられない。
私が嫌な人間だと分かっているから。
だからこそ、人の好意は信じ難く、人の悪意には、敏感だ。
無意味な人生だ。
人を信じず、疑い、それで特に得があるかと言えばほぼない。
きっと人を信じれば華やかな一生を送ることができるのだろう。
だが、私は出来ない。嫌な人間だから。
人を疑わないことはないし、得がなくてもそれを辞めない。
私を含めたすべての人間がマネキンのように中身のない、ただの質量であればいいのに。
言ったことはすべて本音で。
嘘はつかなくて。
取り繕うこともしないで。
内面なんてものもなくて。
そうなって初めて人を信じられる。
そうすれば無意味な探り合いは消える。
そうすれば嫌な人間は居ない。




