第6章
眠れなかった。昨日のことが、頭の中で何度も再生された。
名前を告げた瞬間の煌希の瞳。澄華のきらきらした笑顔。そして、自分が“物語の中”に足を踏み入れてしまった感覚。
彩葉は、重たいまぶたをこすりながら、校門をくぐった。まだ誰もいない時間。静かな空気に、少しだけ安心する。
彩葉はこの何気ない時間が好きだった。誰にも認識されない時間が落ち着いた。
でも――そこに、煌希がいた。
「……おはよう」
その声に、彩葉は立ち止まった。逃げる理由は、もうない。でも、気まずさは残っていた。
「……おはようございます」
ぎこちない挨拶。煌希は、少しだけ笑った。その笑顔は、昨日と同じで、でも少しだけ距離があった。二人の間に、沈黙が落ちる。
風が、制服の裾を揺らす。そのとき――澄華がやってきた。
「おはよう、煌希くん。……彩葉ちゃんも」
その声は、朝の光みたいに明るくて、彩葉の胸に、ふわりと入り込んだ。
澄華が煌希の隣に並ぶ。至極自然な距離。二人の姿は、まるでポスターみたいに絵になっていた。
彩葉の心が、少しだけ躍った。きれいだな、と思った。この二人が並ぶのが、やっぱり“正しい”気がした。でも―――ほんの少しだけ、違和感があった。
澄華の笑顔は完璧だった。煌希の表情も、自然だった。ただ、彩葉の中にある何かが、静かにざわついた。
それでも、彩葉はただ、透明なまま。そこにいた。
自分は、まだ“色”を持っていない。それが、少しだけ寂しくて――でも、どこか安心でもあった。
「彩葉ちゃんも、よかったら一緒に行こうよ」
澄華の声は、朝の光みたいに明るかった。その笑顔は、誰もが見惚れるほどきらきらしていて、澄華の色みたいに鮮やかで、彩葉の胸が、少しだけ高鳴った。
藤宮澄華と神崎煌希が並んで立っている。その姿は、まるで完成された物語の一場面みたいだった。
彩葉は、少しだけ微笑んだ。でも、その笑顔の奥に、言葉にならない違和感があった。
澄華のきらめきが、あまりにも完璧すぎて――、煌希の色とも重なり合っていて―――自分の“色のなさ”が、際立ってしまう気がした。
煌希が一歩前に出た。
「……彩葉、ちょっといい?」
その声は、澄華にも聞こえるように、でも彩葉にだけ向けられていた。
「え……?」
「少しだけ、話したいことがあるんだ。こっち、来てくれる?」
彩葉は戸惑いながらも、頷いた。煌希の表情は、昨日よりも少しだけ強くて、でもどこか焦っているようにも見えた。
澄華は、微笑んだまま見送った。その笑顔に、彩葉は少しだけ罪悪感を覚えた。煌希の手が自分を導くように動いたとき――その感覚に、逆らえなかった。
二人が歩き出す。校舎の裏、静かな場所へ。
煌希は、言葉を探していた。名前も知らなかった彼女を、ようやく捕まえた。それなのに――やっとのことで名前を聞いた。でも、澄華は、何の苦労もなく彩葉に近づいてきた。
その事実が、胸の奥をざらりと撫でた。
「……澄華って、すごいよな。誰とでもすぐ仲良くなれるし、いつも中心にいるし」
彩葉は、黙って聞いていた。煌希の声には、少しだけ嫉妬が混ざっていた。それは、澄華に対してではなく――彩葉に向けられた、感情の揺れだった。
「でも、俺……昨日、彩葉の名前聞けてうれしかった」
ずっと探していた“淡い色”の正体が、ようやく形になった。でも、それ以上に――彩葉の声が、思っていたよりも柔らかくて、彩葉の目が、思っていたよりも深くて、彩葉の存在が、思っていたよりも“静かに響く”ことに、驚いていた。
それが、心の奥に、ゆっくりと染みていく。その言葉に、彩葉の心が少しだけ揺れた。でも、煌希と彩葉の色が重なることはない。
ただ、風が静かに吹いていた。校舎の裏。朝の光が、まだ少し冷たい。
煌希の足音が隣にある。
昨日、名前を告げた相手。今日、また偶然に出会ってしまった相手。
彩葉は、逃げなかった。でも、気まずさは残っていた。
「……昨日、ありがとう」
煌希の声は、少しだけ照れていて、でもまっすぐだった。
彩葉は、頷いた。それだけで、言葉が詰まった。
そこへ、澄華が駆け寄ってくる。きらきらした笑顔。完璧な距離感。完璧な間でやってきた。でも、完璧すぎるものには、どこか“隙間”がない。
彩葉は、その隙間のなさに、少しだけ息苦しさを覚えた。自分の色が、そこに入り込む余地はない。
それでも、煌希は――自分を見つけてくれた。そして煌希の隣に立つ姿は、まるで光の中の2人だった。
彩葉の心が、少しだけ躍った。きれいだな、と思った。
この2人が並ぶのが、やっぱり“正しい”気がした。でも――煌希が、自分を連れ出した。澄華のきらめきの中から、彩葉を選んだ。
その事実が、彩葉の胸の奥に、ほんの少しだけ、色を落とした。
それは、淡い水色だった。空の色に似ていて、でも、少しだけ温かかった。
胸の奥が、静かに震えていた。指先が、少しだけ熱を帯びていた。呼吸が、浅くなって、でも確かに“自分のもの”だと感じた。それは、誰かに見られたからじゃない。自分が、自分を見つけた瞬間だった。
彩葉は、立ち止まった。
胸の奥が、静かに震えていた。
「……私、今……」
言葉にならない感情が、心に染みていく。
ずっと無色透明だった。誰にも気づかれず、誰にも触れられず、ただ、物語の外側にいた。でも、今――ほんの少しだけ、色がついた。
それは、誰かに見られたからじゃない。誰かに選ばれたからでもない。自分が、自分の存在を感じたから。
朝霧彩葉は、初めてこの世界に“生きている”と感じた。
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