第5章
「待ってってば!」
煌希の声が、風を切って届く。彩葉は、振り返らない。 名前を呼ばれないことが、唯一の救いだった。
「君、さっきからずっと……どうして逃げるの?」
“君”。それでいい。それ以上、踏み込まれたら困る。
彩葉は、体育倉庫の影に身を隠す。息を殺して、心臓の音が聞こえないふりをする。でも、煌希の足音は近づいてくる。
「……君のことが、気になるんだ。ずっと前から」
その言葉に、彩葉の胸が痛む。 気になってる?それは、澄華に向けるべき感情じゃないの?
「名前、教えてよ。俺、君のこと……」
その瞬間、彩葉は立ち上がって走り出す。
名前を言ってしまったら、終わる。物語が、壊れてしまう。でも――煌希の手が、彩葉の腕を掴んだ。
「……もう逃がさない」
彩葉は、目を閉じる。この瞬間が来ることを、ずっと恐れていた。名前を言えば、煌希の世界に入ってしまう。澄華の物語が、変わってしまう。
「……名前なんて、知らなくていいよ」
彩葉の声は、震えていた。でも、煌希は静かに言った。
「俺は、知りたい。君が誰なのか。君が、どんな色なのか」
君の声は、静かで、でも芯がある。君の言葉は、少ないけれど、選ばれている。
その“静けさ”が、煌希には心地よかった。まるで、騒がしい世界の中で、ひとつだけ確かなものを見つけたような感覚だった。
その言葉に、彩葉の心が揺れる。色。名前よりも深い、存在の証。
彩葉は、ほんの少しだけ顔を上げた。でも、まだ名前は言わない。それは、最後の一線だから。
煌希の瞳は、まっすぐだった。彩葉の色を、見ようとしていた。そして、物語は――静かに、予定を逸れていく。
「……名前を教えてくれるまで、離さない」
煌希の声は、優しさと決意が混ざっていた。彩葉は、腕を掴まれたまま、逃げることを諦めていた。
男の人の力には、かなわない。それでも、名前だけは――最後の砦だった。
「……言いたくない」
「どうして?」
「名前を言ったら……私は――(物語の中に入ってしまうから)」
煌希は、少しだけ困ったように笑った。
「俺の中に、君がいるんだ。だから…教えて欲しい」
その言葉に、彩葉の胸がきゅっと締めつけられた。
逃げられない。逃げたい。でも、逃げたくない気持ちも、少しだけあった。
沈黙が流れる。
風が、体育倉庫の影を揺らす。そして――――彩葉は、静かに口を開いた。
「……朝霧彩葉」
自分の声が、自分の名前を呼んだ。それが、誰かに届いた。それだけで、胸の奥が少しだけ温かくなった。
“存在”として見られることが、こんなにも怖くて、こんなにも嬉しいなんて――知らなかった。その瞬間、世界が少しだけ変わった気がした。
煌希の瞳が、確かに彩葉を見ていた。彩葉は、ようやく気づく。これはただの物語じゃない。私の知っている物語とは違う世界。煌希も、澄華も、その他の人たちも――みんな、ここで生きている。自分も、ここで生きている。
名前を告げたことで、物語の外側にいたはずの自分が、今、確かに“存在”になった。
そのとき――少し離れた場所で、澄華が二人を見ていた。
煌希の手が彩葉の腕を掴んでいる。彩葉は、顔を上げて、何かを言った。
煌希は、微笑んでいた。澄華は、静かにつぶやく。
「……あんな登場人物、知らない」
その声は、誰にも届かない。でも、物語の均衡が、確かに揺れ始めていた。
朝霧彩葉。
知らない名前。知らない色。見たことのない色。自分とは違う色。でも、煌希の視線は彼女に向いていた。
澄華は、静かに歩き出した。 物語が少しだけ逸れたことに気づいていた。でも、それを“物語”と呼ぶことはしない。ここは、舞台じゃない。 ただ、煌希の隣に立つべき自分が、少しだけ遠ざかっただけ。だから、澄華は微笑んだ。その笑顔は、きらきらしていて、誰もが見惚れるような光を持っていた。
「煌希くん。あれ?どなたですか?こんにちは、私、藤宮澄華です。あなたは?」
彩葉は、少しだけ戸惑った。でも、もう名前を告げてしまった。逃げる理由は、もうない。
「……朝霧彩葉です」
澄華は、にこりと笑った。その笑顔は、優しさと計算が混ざっていた。でも、誰もその混ざり方には気づかない。澄華は、彩葉の名前を繰り返すことで、彼女を“物語の中”に引き込もうとしていた。
それは歓迎ではなく、配置だった。ヒロインとしての自分の立ち位置を守るための、静かな布石。
「仲良くしてくれると嬉しいな?彩葉さんは同い年?」
「3年…です」
「先輩なんですね。よろしくお願いします」
その言葉は、確認だった。澄華は、彩葉の存在を認識した。そして、物語をねじ曲げているのはこの人であるということも確信していた。でも、責めることはしない。ただ、隣に並ぶだけ。
「私ね、煌希くんのこと、ずっと見てきたの。彼って、まっすぐで、優しくて……ちょっと不器用だけど、そこがいいの」
「澄華!!」
「煌希くんは黙ってて」
煌希を制して澄華は彩葉を見つめる。彩葉は、黙って聞いていた。澄華の言葉は、まるで舞台のセリフみたいに整っていて、でも、どこか本物だった。
「彩葉ちゃんも、そう思うでしょ?」
彩葉は、自分の名前が呼ばれるたびに、少しずつ“登場人物”になっていく感覚を覚えていた。
それは、怖い。でも、煌希の視線が“色”ではなく“自分”に向いていることが、ほんの少しだけ――嬉しかった。
澄華が、彩葉の名前を呼んだ。それは、物語の“認識”だった。ヒロインである澄華が彩葉を、登場人物として迎え入れる行為。でも――澄華は、物語を肯定していない。ただ、煌希の目を自分に向けたいだけ。そのためならなんでもする。そのために、彩葉と仲良くなる。
優しさが、戦略になる。澄華は、それを知っていた。
そして、彩葉は――その優しさに、少しだけ心をほどかれていた。
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