第3章
1年経っても、誰も彼女の名前を知らなかった。まるで、校舎のどこにも、世界のどこにも存在していないみたいだった。
でも、春の風が吹いたその日――物語が、少しだけ、ずれた。
煌希が、ふと中庭の方を見た。その視線が、彩葉のいる場所を通り過ぎる。
彩葉は、いつものように身を隠そうとした。でも――煌希の目が、止まった。
「……あれ?――――見つけた!!」
声が、思ったよりも大きくなっていた。自分でも驚くほど、心が跳ねた。ずっと探していた“あの色”が、ようやく目の前に現れた。それは、鮮やかでも濃くもない。でも、確かに心に残っていた色だった。その声に、彩葉は動けなくなった。煌希は、走る。中庭のベンチの方へ。誰もいないはずの場所へ。
彩葉は、心臓の音が聞こえてしまいそうで、息を止めた。
煌希が、ベンチの陰に立った。そして、ようやくそこにいる彩葉を見つけた。
「……君、去年……すれ違ったよね?」
煌希の声が、春の風に溶けていく。彩葉は、ベンチの陰で立ち尽くしていた。
見つかってしまった。2年生の春、誰にも気づかれずにいたはずだった。物語の外側にいるはずだったのに。
「……そうかもしれませんね」
彩葉は、目を合わせないように言った。声は静かで、どこか繕うようだった。
「3年生……?」
「はい。あの…すみません、急いでて」
煌希は、何か言おうとした。でも、彩葉はすでに一歩、後ろに下がっていた。
「じゃあ、失礼します」
それだけ言って、彩葉は歩き出した。逃げるように。でも、足取りは静かだった。
背中に、煌希の視線を感じた。それが、痛いほどに温かかった。彩葉は、心の奥がざわつくのを感じながら、歩き続けた。逃げているのに、心はあの場所に置いてきたままだった。
煌希は、名前を聞けなかった。でも、彼女が自分のことを知っていた――それだけで、胸の奥が少しだけ温かくなった。
すれ違う瞬間、彩葉のスマホケースがちらりと見えた。透明なケースの中に、写真が一枚。
それは――自分だった。
誰にも見せないように隠していたもの。でも、ずっと大切にしていた。彩葉にとって、それは“色のない自分”が唯一持っていた、誰かへの想いだった
ステージの上で笑っている、煌希の写真。ファンなら誰でも持っているような、ありふれたもの。でも、あの“淡い色”の少女が持っていた。
誰にも気づかれないように、誰にも見せないように、それでも、ずっと見守っていた証。
その瞬間だった。
煌希の目に映る彼女の色が、ふっと変わった。淡い色だったはずの感情が、すっと透明になった。
驚いた。あんなに恥ずかしそうにしていたのに。確かにそこに存在を感じたのに彼女は無色透明だった。
煌希は、そんな人間を初めて見た。淡い色の人なら、何人か見たことがある。でも、完全に透明を持つ人は、初めてだった。
みんな自分の色を持っている。それがこの世界に生まれた人間だ。鮮やかだったり、淡かったり、はっきりした色だったりしている。でも、彼女は違った。
色がなかった。それなのに、確かにそこにいた。
煌希は、立ち尽くした。名前も知らない。でも、彼女が“自分を知っていた”という事実だけが、心の奥に、静かに灯った。
それは、澄華の鮮やかさとは違う。誰にも見えない色。でも、確かにそこにある色。
煌希は、初めて思った。――――あの人の名前が、知りたい。
姿が見えなくなってから走った。逃げるように。足は止まらなかった。心は、あの場所に置いてきたまま。
校舎の裏手の植え込みの陰。そこから、彩葉はそっと顔を出した。
煌希は、まだそこにいた。ベンチのそばで、誰かを待っているように立っていた。そして――澄華が来た。
予定通り。物語通り。
今日、澄華は煌希に声をかける。親密度は十分に上がっている。澄華の色は、淡いピンクに金色がかかっていて色鮮やかだった。
それは、彼と並んでも遜色ない色。
彩葉は、息をひそめて見つめた。
澄華の表情は、少し緊張していて、でも嬉しそうだった。煌希に向かって、何かを話している。
きっと、休みに一緒に過ごそうと誘っているのだろう。でも、煌希の目に愛しさを感じなかった。あの目は友情。
あの目は恋している人の目ではない。
どうして?
どうして、澄華の色はあんなに鮮やかで、二人で並んでも遜色ないのに煌希はいつまでも友達としての感情しかないのか。
彩葉は、物陰からその“ずれ”を見つめていた。
それは、物語の破綻ではない。でも、確かに“予定外”だった。
澄華の言葉に、煌希は笑って答えている。その笑顔は、優しくて、自然で――でも、恋の色ではなかった。
彩葉は、胸の奥が静かにざわつくのを感じた。それは、嫉妬ではない。ただ、物語が“思っていた通りではない”ことへの、静かな混乱。
そして、ほんの少しだけ――――煌希の色が、揺れたような気がした。でも、それはすぐに戻った。澄華のピンクと金色に、煌希の色は重ならなかった。
彩葉は、そっと目を伏せた。自分は、物語の外側にいるはずだった。でも、今、自分の目だけが“本当の色”を見てしまった。
それは、誰にも気づかれない色。でも、彩葉には見えた。煌希の色が、澄華の色に重ならないという事実。
それは、物語の“予定”ではなかった。でも、確かに“真実”だった。それは、誰にも言えない。誰にも知られてはいけない。でも、確かにそこにある“色のずれ”だった。
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