第19章
夕暮れの光が、台所の窓から差し込んでいた。
櫻花は煮物の味を見ながら、透哉は静かに新聞を読んでいる。彩葉は、テーブルに並べられた器をひとつずつ整えていた。その手つきは丁寧で、どこか機械的だった。けれど、彼女の中には、確かに何かが揺れていた。
「……今日、煌希くんが来たよ」
彩葉がぽつりと口にすると、櫻花は手を止めて微笑んだ。
「そうだったの。ちゃんと話せた?」
「うん。……まっすぐだった。少し、熱すぎるくらい」
透哉は新聞を畳み、静かに言った。
「まっすぐすぎるくらいだったな」
彩葉は、父の言葉に反応せず、器を並べ続けた。
「怒った?」
「怒ってはいない。ただ、あの子は強い色を持ってる。それが、彩葉にどう影響するかは、まだわからない」
櫻花が、煮物を器に盛りながら言った。
「でも、彩葉がその色に惹かれてるなら、きっと何かが響いてるのよ。無理に混ざる必要はないけど、隣に立つことはできるはず」
彩葉は、少しだけ顔を上げた。
「……響いてるかどうかは、わからない。でも、見ようとしてくれてるのは、わかる」
透哉は、静かに頷いた。
「それなら、君の“色”が揺れても、彩葉自身が見失わなければいい。誰かに見つけてもらうことは、悪いことじゃない。ただ、見つけられたあと、どうするかが大事だ」
櫻花が、味噌汁をテーブルに置きながら笑った。
「あなた、さっきはずいぶん意地悪だったのに、今はずいぶん優しいじゃない」
透哉は、少しだけ目を伏せて言った。
「ぼくと彼は違うよ。ぼくは誰になにを言われても、君を諦めなかった。お義父さんにも、お義母さんにも何度も会いに行ったし、もちろん親も説得した。君の隣で消えてしまうかもしれないと思っていたけど、それも怖くなかった。自分が消えてしまっても、君といたいと思った。だからここにいる。それに、ぼくのお姫様にも会えた」
彩葉は、静かに箸を置いた。その声は、淡々としていた。
「……お父さんより、私の方が消えそうな色してる」
透哉は、すぐに答えた。
「彩葉は消えない。お父さんが、絶対に見つけてあげるから」
櫻花も、すぐに言葉を重ねた。その声は、少しだけ震えていた。でも、手はしっかりと器を支えていた。
「そうよ!!お母さんだって、絶対に彩葉を見つけて、掴んでてあげるからね」
彩葉の色が見えなくても、櫻花は、ずっとその輪郭を抱きしめてきた。それは、母としての“見守り方”だった。
彩葉は、少しだけ目を伏せた。そして、静かに言った。
「……ありがとう」
その言葉に、櫻花は微笑み、透哉は静かに頷いた。
食卓には、温かい湯気と、静かな余韻が漂っていた。けれど、彩葉の心の奥では、別の問いが静かに浮かんでいた。
この優しい両親に、心配をかけてまで――自分は煌希と一緒にいることを選んでもいいのだろうか。
彼の色は強くて、まっすぐで、温かい。でも、自分の“無色”は、それに耐えられるのだろうか。それとも、彼の色に染まって、消えてしまうのだろうか。
彩葉は、湯気の向こうに揺れる家族の輪郭を見つめながら、
静かに、冷静に、自分の“選択”を考えていた。
夜の居間。
櫻花は台所で洗い物をしていて、食器の音が静かに響いていた。透哉は、湯呑みを手に、彩葉の隣に座っていた。彩葉は、膝の上に開いた本を閉じ、静かに目を伏せていた。
「彩葉は、自分の色をどう思う?」
透哉の問いは、穏やかで、まっすぐだった。
彩葉は、少しだけ考えてから答えた。
「……わかんないよ。これで生きてきたから。色がある人がうらやましかった時もあるし、クラスのみんなから認識されていないことを寂しいと思ったこともある。本当に自分がここに居るのかもわからなかったけど、私を繋ぎ止めてくれる人たちがいた。だから色のことは考えないようにしてた」
透哉は、湯呑みを置いて、静かに頷いた。
「そうか。ぼくは、初めて君を見たとき、自分のせいだと思ったよ。君が“無色”なのは、ぼくの色が薄い色だったからじゃないかって。だから、ぼくが必ず見つけるって決めて生きてきた。君がどんなに薄くても、どんなに見えなくても――ぼくが絶対に見つけるって」
彩葉は、少しだけ顔を上げた。
その瞳は、やはり冷静だった。でも、ほんのわずかに揺れていた。
確かに父はいつも自分を一番に見つけてくれた。迷子になったときも、運動会でクラスのみんなに紛れているときでも、父はいつも自分の写真をきれいに撮っていたことを彩葉は思い出していた。
「……だから、彩葉。どんなに強い色がそばにいても、彩葉は消えないって信じてる。だって、お父さんもお母さんも彩葉を見つけるのは得意だから」
「……そっか。ありがとう」
その言葉は、淡々としていた。でも、透哉には、それが彩葉なりの“感謝”だとわかっていた。
「煌希くん――彼の色は、確かに強い。でも、そばにいる方法はあるんだ。それは、難しいことかもしれない。でも、彩葉ならできるよ。お父さんとお母さんの子どもだからね」
彩葉は、静かに息を吐いた。
「……お父さんは、彼に教えるの?」
透哉は、少しだけ目を細めた。
「彼がこの程度で彩葉を諦めるんだったら、この方法は教えられない。彩葉は、彼を信じていればいい。彼が諦めなければ――彼に教えてあげよう。お母さんも知らない方法だよ」
彩葉は、少しだけ眉を寄せた。
「……どうして、お父さんはそんなことを知ってるの?」
透哉は、湯呑みを手に取り、少しだけ笑った。
「生きるための方法を探してたんだ。ぼくは、色が薄かったから、誰かの隣にいるだけで消えてしまいそうだった。それで、お母さんに出会って――まぶしかった彼女の隣にいたいと思った。それで、見つけたんだよ。“消えないための方法”を」
透哉の声は、静かだった。でも、その言葉は、彩葉の胸の奥に深く届いた。それは、父から娘への“灯し方”だった。
彩葉は、まだ迷っていた。でも、受け取ってみようと思った。自分の色を、誰かの隣で守るために。
透哉は、優しく微笑んだ。その笑みは、静かで、でも確かに温かかった。
彩葉は、それがなぜか――うれしかった。
胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなった。指先が、器の縁をそっとなぞった。呼吸が、少しだけ深くなった。それは、誰にも見えないほど小さな変化だったけれど――彩葉の“色”が、灯り始めていた。
自分の“色”が見えなくても、誰かが見つけようとしてくれること。それが、少しだけ胸の奥を温めた。
彩葉はまだ迷っていた。でも、父の言葉が、静かに彼女の“無色”に触れた。
それは、誰にも見えないほど小さな揺れだったけれど――確かに、そこに“色”があった。
湯気が、静かに立ちのぼっていた。その向こうに、彩葉の輪郭が淡く揺れていた。それは、まだ誰にも見えない色。でも、透哉には――ほんの一瞬だけ、水色が見えた気がした。
それは、彩葉が“選ぼうとしている”証だった。
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