第17章
煌希は、彩葉の言葉に沈黙したまま、ただ彼女を見つめていた。
その瞳には、痛みと願いが混ざっていた。
彩葉の「奇跡だよ」という言葉は、優しくて、残酷だった。
「……それでも、俺は例外になりたい」
煌希の声は、静かだった。叫びでもなく、懇願でもなく――ただ、願いだった。
「彩葉を消さない色になりたい。彩葉の隣にいても、彩葉が消えないような、そんな色に」
彩葉は、目を伏せた。その肩が、ほんの少しだけ震えた。
「……煌希くん。あれは、奇跡なんだよ。誰にでも起こるものじゃない。私の両親は、たまたまそうだっただけ。母の色は強くて、父の色は限りなく透明に近かった。それでも、混ざらずに隣にいられた。それは――奇跡だったの」
奇跡は、偶然じゃない。誰かが誰かの隣に立ちたいと願い、その願いが、壊れずに届いたとき――それが、奇跡になる。
彩葉は、まだ怖かった。でも、煌希の願いが、奇跡の形をしていることに、少しだけ気づいていた。
煌希は、何も言わなかった。その言葉の重さを、受け止めようとしていた。陽向は、少し離れた場所で空を見上げていた。そして、深く息を吐いた。
「……彩葉がそう決めたなら、俺は止めない。でも、見守ることはやめない。彩葉を死なせたくないから」
陽向のその言葉には、静かな決意があった。
陽向の“色”は、冷静で、強くて、でもどこか優しかった。
「たとえ俺にパートナーができても、それは変わらない。彩葉は、俺の大事な“色”だから。
それは、誰にも消せない」
彩葉は、陽向の言葉に目を見開いた。そして、煌希を見つめた。
「……それでも、そばにいたいと思ってしまう。怖いのに。消えてしまうかもしれないのに。それでも、煌希くんの色に触れたいと思ってしまうの」
煌希は、彩葉の言葉に、ゆっくりと手を伸ばした。でも、その手は、彼女に触れることなく、空気の中で止まった。指先が、ほんの数センチの空気を隔てて揺れていた。
彩葉の髪が、風に揺れて煌希の手に触れそうになる。でも、触れなかった。それでも、二人の呼吸は、確かに重なっていた。
「俺の色が、彩葉を消さないように。そう願ってる。ずっと、願ってる」
陽向は、二人の背中を見つめながら、そっと目を閉じた。その胸の奥に、静かな祈りが灯っていた。
色は、混ざることで新しい色になることもある。でも、混ざらずに隣にいることも、奇跡だ。
彩葉の“透明”は、消えることを恐れながらも、煌希の“鮮やかさ”に惹かれていた。
陽向の“静かな色”は、二人を見守りながら、決してその距離を見失わなかった。
三人の色は、まだ混ざらない。でも、確かに――隣にある。
夜の美術室。
煌希は、静かな空間の中で澄華と向き合っていた。
彼女はキャンバスの前に立ち、まだ何も描かれていない白に、何かを見ているようだった。
「君は……何かを知ってるんだよね。彩葉のことも、俺のことも。そして、“一緒にいる方法”も」
澄華は、少しだけ微笑んだ。その微笑みは、まるで“物語の続きを知っている人”のようだった。
「方法は、あるよ。でもそれは、誰かが“物語”として残したもの。その物語を最初に書いた人がいる。――“九条櫻花”という名前を、聞いたことはある?」
煌希は、静かに首を振った。
「その人は、今の世界の“前”にいた人。奇跡と呼ばれるものの、始まりに触れた人。彩葉ちゃんが信じている奇跡は、きっとその人が残した“余韻”なんだと思う」
澄華は、キャンバスに指先を添えた。
白い画面に、何も描かれていないはずなのに――彼女の瞳には、何かが浮かんでいるようだった。
「その人を見つけられたら、君もわかるはず。“隣にいる”ということが、どういう意味を持つのか。色を消さずに、一緒にいる方法が、どこに隠されているのか」
煌希は、言葉を失った。澄華の語りは、まるで夢の断片のようだった。でも、その中に確かに――“方法”が潜んでいた。
澄華は、答えを教えない。でも、物語の“始まり”を指し示す。
かつて、自分が煌希の隣に立ちたいと思ったことがあった。でも今は、彩葉の色が灯ることを、心から願っていた。澄華は、物語の“ヒロイン”ではなく、“語り部”になることを選んだ。
それが、自分の色だと気づいたから。
そして煌希は、前作の主人公が残した奇跡の余韻を辿る旅へと、静かに踏み出していく。
放課後の資料室。
煌希は、澄華の言葉を胸に、古い卒業アルバムをめくっていた。
“九条櫻花”――その名前は、検索しても何も出てこなかった。
物語を書いた形跡も、著作も、記録もない。
まるで、存在しなかったかのように。でも、澄華は言った。
「その人を見つけられたら、きっとわかるよ。どうすれば、彩葉ちゃんの隣にいられるか」
煌希は、校内の資料室で、十数年前の卒業アルバムを見つけた。ページをめくる。古びた写真の中に、ひとつの名前があった。
九条櫻花
彼女は、鮮やかではなかった。けれど、色は確かに“そこにある”と感じさせる女の子だった。淡い灰青の制服の中で、彼女の瞳だけがはっきりとした輪郭を持っていた。
静かで、揺るがない色。まるで、誰かの物語を黙って見届けるために生まれたような存在。
そのアルバムの中に、もうひとつの名前があった。
朝霧透哉
彼は、彩葉ほどではないが、色の薄い男の子だった。
写真の中でも、光に溶け込むような佇まい。
髪も瞳も、輪郭も、どこか曖昧で――でも、櫻花の隣にいることで、かろうじて“存在”として留まっていた。
まるで、彼女の色に引き寄せられるように、そこにいた。
煌希は、ページを閉じた。
点が、線になった瞬間だった。
“九条櫻花”は、物語を書いた人ではない。でも、物語が始まった場所にいた人。
そして、“朝霧透哉”――その名が、次の扉を開く鍵になる。
煌希は、ノートにふたつの名前を書き留めた。
それは、彩葉の隣に立つための地図の始まりだった。
煌希は、数日間、朝霧透哉という名前を追い続けていた。卒業アルバムに写っていた、色の薄い少年。
九条櫻花の隣にいた、物語の起源に関わる存在。澄華の言葉が、彼の胸に残っていた。
「その人は、櫻花の“隣”にいた人。きっと、彩葉ちゃんの隣にいる方法を知ってる」
その言葉を信じて、煌希は透哉の痕跡を探した。
校内の記録、地域の卒業者名簿、図書館の古い新聞記事。SNSの断片、掲示板の書き込み、卒業生の寄稿文。
あらゆる手段を使っても、透哉の名前はどこにも見つからなかった。まるで、彼は最初から存在していなかったかのように。あるいは、世界の背景に溶け込んでしまったように。
煌希は、焦っていた。
探しても探しても、何も見つからない。手がかりは、あの一枚の写真だけ。
色の薄い少年が、静かに櫻花の隣に立っていた――それだけだった。
夕暮れの図書室。
煌希は、窓辺の席に座り、ノートを開いたまま、ただ空を見ていた。
ページの余白に、何度も書き直した名前が滲んでいた。
朝霧透哉。
その文字を見つめながら、彼は呟いた。
「……見つからない。どこにもいない。まるで、最初から存在してなかったみたいだ」
そのときだった。
“朝霧”という名字が、視界の隅で揺れた。何度も見たはずなのに、今になって、何かが引っかかった。
“朝霧”――彩葉の名字。
煌希は、息を呑んだ。
ノートの端に書かれた“朝霧透哉”の文字と、彩葉の名前が、頭の中で重なった。
「……そうか。答えは、ずっと近くにあったんだ」
彩葉。彼女の“色”は、透哉に似ていた。
色が薄く、輪郭が曖昧で、でも確かにそこにいる。誰にも触れられないようでいて、誰かの隣には静かに立てる存在。
もしかすると――彩葉は、“朝霧透哉”の血を継いでいる。あるいは、彼の“続きを生きている”存在なのかもしれない。
煌希は、ノートに新たな線を引いた。
“九条櫻花”と“朝霧透哉”――そして、“朝霧彩葉”。
ノートの余白に並んだ三つの名前。それは、地図ではなかった。灯りだった。
彩葉の色が、誰かの隣に立つために灯る。その始まりを、煌希は静かに見つめていた。
点が、線になった。線が、物語になった。そして煌希は、彩葉の隣に立つための地図の、次の扉を開けた。
答えは、遠くではなく、すぐそばにあった。
それは、ずっと見ていたはずの“名前”の中に。
そしてその名前は、物語の続きを書くために、静かに煌希を待っていた。
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