第14章
夕食の時間。食卓には、いつも通りの献立が並んでいた。母の煮物、父の好きな味噌汁、彩葉のための小さなサラダ。何も変わらないはずだった。けれど、空気は少しだけ、重かった。
彩葉は、静かに箸を動かしていた。
指先が、ほんの少しだけ震えていた。笑顔は、形だけだった。呼吸が浅くて、胸の奥が少しだけ痛かった。それでも、彩葉は声を出した。
ここにいると、伝えるために。
表情は穏やかで、声も柔らかい。けれど、その“穏やかさ”が、逆に両親の胸を締めつけていた。
「最近、学校はどう?」
母が何気なく問いかける。
彩葉は、少しだけ笑って「うん、普通」と答える。その“普通”が、あまりにも薄くて、あまりにも遠かった。
父は、黙って味噌汁をすする。その視線が、時折、彩葉に向けられる。見つけようとしている。そこに“いる”はずの娘を。
母は、見逃さないように。父は、見つけようとして。ふたりの視線が、彩葉の輪郭をなぞっていた。そこに“いる”はずの娘を、確かめるように。
彩葉は気づいていた。
自分がまた“無色透明”になってしまったこと。
煌希と話したあの日から、少しずつ色が揺れていたのに――今はまた、何もないように見える。
両親が心配している。それが、痛いほど伝わってくる。だから彩葉は、笑う。話す。声を出すことで自分はまだここにいることを両親に知らせる。
「今日、図書室で面白い本見つけたよ」
「先生がちょっと変なこと言っててね」
“普段通り”を演じる。それが、彩葉にできる精一杯の“存在の証明”だった。でも、心の奥では、静かに痛んでいた。また、心配をかけてしまった。また、“見えなく”なってしまった。
それでも、彩葉は――そこにいた。見つけてもらえるように、ほんの少しだけ、色を灯そうとしていた。
彩葉が初めて産声を上げたとき、櫻花は――我が子を見つけられなかった。
抱いているはずなのに、腕の中に“色”がなかった。体温はあった。重さも、声も、確かにそこにあった。でも、目を凝らしても、色が見えなかった。
それが、怖かった。まるで、夢の中で誰かを抱いているようだった。
医師の言葉は、今でも耳に残っている。
「この子には色がありません。いつか、色づくのを待ってあげてください」
色のない人間なんて、いないと思っていた。でも、彩葉は——確かにそこにいるのに、見えなかった。
その“いなさ”に、櫻花は絶望した。だから、決めた。この子から目を離してはいけない。
好きだった仕事も、やりがいも、全部手放して――専業主婦になることを選んだ。彩葉が色づくその日まで、ずっと見守ると。
幼い頃の彩葉は、静かで、優しくて、でもどこか遠かった。それでも、両親は見つめ続けた。見失わないように、見逃さないように。ほんの少しでも色が見えたら、それを抱きしめようと。最近になって、彩葉自身の色が、ほんのり見え始めた。それは、両親にとって、何よりの喜びだった。
やっと、彩葉が“ここにいる”と感じられたから。でも――また、色がなくなってしまった。
それを責めるつもりはない。彩葉が悪いわけじゃない。
色は、誰かに見つけてもらうためのものじゃない。彩葉が“彩葉”であるためのものだから。誰にも見つけられないなら――自分たちが、見つけてあげるしかない。いや、見つけるんじゃない。見守るのだ。
彩葉が、彩葉である限り。
幼い頃から、ずっとそうしてきたように。
彩葉が色づく日を、急かすことなく。ただ、そばにいて。ただ、見守って。それが、私たちの役目なのだと櫻花は思う。
彩葉が生まれた日のことは、今でも鮮明に覚えている。
うれしくて、仕方なかった。小さな命が、確かにそこにいて、声をあげていた。なのに――透哉は、我が子を見つけられなかった。
医者に言われた言葉が、胸に突き刺さった。
「この子には色がありません。いつか、色づくのを待ってあげてください」
絶望した。自分の色が薄いせいで、この子にこんな苦労を背負わせてしまったんじゃないか――そんな思いが、頭を離れなかった。
透哉自身も、小さい頃は色が薄かった。周囲に溶け込めず、見つけてもらえず、苦しかった。それでも、透哉は“男”だったから、耐えられた。でも、この子は――女の子だ。その小さな肩に、同じ重さを背負わせていいのか。
不安だった。怖かった。
自分を責めたこともある。でも、櫻花が言ってくれた。
「一緒に見守ろう」って。その言葉に、救われた。だから、透哉は決めた。
誰よりも早く、彩葉を見つけられるようにしよう。誰にも見つけられなくても、ぼくたちが――絶対に見つける。
彩葉が色づくその日まで。いや、色づかなくても。彩葉が“彩葉”である限り、ぼくたちは見つけ続ける。
色がつかなくてもいい。誰かに見つけられなくてもいい。彩葉が、彩葉である限り。
それだけで、十分だと。
それが、父としての祈りだった。それが、父としての約束だと改めて透哉は思った。
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