第9章
放課後の教室。
煌希と澄華が並んで笑っていた。その光景は、まるで物語の一場面のようだった。
彩葉は、中庭からそれを見ていた。誰にも気づかれない場所。誰にも話しかけられない距離。
「私は……外にいる。それが正しい物語」
心の中で、何度も繰り返した言葉。
煌希の笑顔は、澄華に向けられている。テレビの中で何度もみたその笑顔が、好きだった。それが今、誰かに向けられていると分かっていても、心が少しだけ跳ねた。
それが、苦しくて、でも――確かに“好き”だった。
澄華の声は、煌希に届いている。そのやりとりの中に、彩葉の居場所はなかった。
これが正しい物語。これが正しいこと。
彩葉は目を閉じる。
《私は、物語の外側にいる。
触れてはいけない。
ただ、見ているだけ》
その言葉は、誰にも届かない。でも、彩葉の中では、確かな痛みだった。
煌希がふとこちらを見た。一瞬だけ、目が合った。でも――すぐに澄華の方へ視線が戻った。
彩葉は、微笑んだ。その笑顔は、誰にも見られないまま、静かに消えていった。
《私は、物語の中には入れない。
物語の流れに触れず、ただ、風のように通り過ぎるだけ》
目を開く。ちょっとだけ、心が寂しく感じた。それでも、彩葉は立ち上がった。
誰にも気づかれないように、静かに中庭を後にした。
校舎裏の細い道。
夕暮れが、空を淡く染めていた。
彩葉は歩いていた。逃げているわけじゃない。ただ、離れたかった。煌希の声も、澄華の笑顔も、今は遠くに置いておきたかった。
「彩葉!」
その声が、背後から追いかけてくる。
彩葉は足を止めなかった。でも、歩幅が少しだけ緩んだ。煌希は走っていた。昨日からずっと、彩葉の表情が気になっていた。澄華と笑っているときも、彩葉の沈黙が、頭の片隅に残っていた。
彼女の目が、何かを言いかけていた気がした。それが、ずっと気になっていた。
何かが変わった。何かが、遠ざかっていった。
ようやく追いついて、彩葉の肩に手を伸ばした。でも――その手は、空を掴んだようだった。
「どうして、離れていくの?」
煌希の声は、少しだけ掠れていた。彩葉は、静かに答えた。
「私は……ここにいるよ。でも、あなたの物語には、入れない」
その言葉に、煌希は言葉を失った。彩葉の瞳は、優しくて、でも遠かった。
そのとき――――澄華が、静かに現れた。
「煌希くん」
その声は、夕暮れの風に溶けるようだった。
煌希は、彩葉から視線を外し、澄華の方へ向けた。澄華は、少しだけ微笑んでいた。その笑顔は、煌希の揺れを受け止めるようだった。
「彩葉さんは、離れたいんじゃなくて――外にいるの。でも、煌希くんは、ここにいる。私と、同じ場所に」
澄華は、彩葉を責めなかった。でも、煌希の隣に立つことを、静かに選んだ。それが、自分の物語だと信じていた。だからこそ、彩葉の色には触れなかった。
煌希は、澄華の言葉に頷いた。
その瞬間、彩葉は一歩だけ後ろに下がった。その距離は、もう戻らない気がした。
《彩葉の思いは触れたいけれど、壊したくない。
煌希の思いは掴みたいけれど、掴めない。
澄華の思いは守りたいから、隣に立つ》
三つの思いが、夕暮れの中で交差した。でも、交わったのは―――煌希と澄華だった。
彩葉は、静かに背を向けた。その背中には、誰にも言えない“好き”が残っていた。触れたいと思った。でも、触れてしまえば、誰かの物語が壊れてしまう。だから、彩葉は静かに歩いた。風のように、誰にも気づかれないように。
その背中に、誰も声をかけなかった。かけられなかった。
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