【第52話】★血と独占欲★(本編)
鎖の軋む音が、まだ耳の奥にこびりついていた。
オルフェス=ヴァルドの軍靴が遠ざかり、扉が閉ざされた後も、広間の空気は張り詰めたまま。石床の冷気が肌を刺し、焦げた匂いと鉄の臭いが、戦いの余韻を嫌でも思い出させた。砕けた瓦礫の影が散らばり、静まり返った空間に色を落としている。
ジェイドは拳を開いたり閉じたりしながら、乱れた呼吸を整えようとした。
――終わった、はずだ。
そう自分に言い聞かせても、胸のざわめきは静まらない。敵国の影を見た直後だからこそ、安堵など訪れるはずがない。まだ見えない何かが、背中を撫でている気がした。
「ジェイド様……っ、もう……怖かった……!」
か細い声とともに、アイリスが胸に飛び込んできた。
全身の力が抜け、嗚咽混じりに服を握りしめる。涙が頬を伝い、彼女自身の指先を濡らす。震えは肩から背中へと小刻みに広がり、必死に隠そうとしても止まらなかった。
ジェイドは言葉を探す間もなく、自然と腕を伸ばしていた。
白銀の髪を抱き寄せ、乱れた呼吸を自分の胸で受け止める。
「もう大丈夫だ。……絶対に、守る」
それは慰めではなく、誓いだった。
心臓の鼓動が彼女の震えを少しずつ溶かしていく。だが同時に、自分自身の鼓動も速まっていた。彼女を守りたいという想いと、失えばすべてが崩れるという恐怖が、ひとつに絡み合っている。
「っ……そんなふうに言われたら……わたし……また泣いちゃう……」
アイリスは声を詰まらせながら、さらにぎゅっと服を握った。
その涙は“二度と会えなくなる恐怖”が形になったものだった。
ジェイドは拳を握り直し、心の奥で決める。
――誰に狙われようと、この手を離しはしない。
だが、その安堵を覆す気配が、すぐそこに滲んでいた。
安堵の余韻を破るように、赤い視線が横から差し込んだ。
デイジアだ。小さな体を壁にもたせかけ、にやにやと笑っている。
「へぇ……泣いて縋るヒロインって、こういう感じなんだね」
牙を舌でなぞり、軽い口調を装う。だが、その裏には抑えきれない渇きが潜んでいた。
ジェイドの背筋に冷たい震えが走る。
「デイジア……?」
少女は指先で瞼に触れると、ひらりと魔法を解いた。
幻影の膜がひび割れるように揺らぎ、色が剥がれ落ちていく。
現れたのは――紅と金、相反する光を宿した瞳。
「……あんまり隠してても、意味ないしね」
赤は熱を帯び、金は氷の粒を宿していた。
笑みは軽いのに、その瞳だけは化け物のもの。
ジェイドは喉が鳴り、思わず後ずさる。
「……っ!」
アイリスの肩がびくりと跳ねた。紫の瞳が恐怖と怒りに揺れ、言葉を失ったままジェイドに縋りつく。
デイジアは軽やかに間合いを詰め、細い体を押し付けてきた。
「じゃあ……ちょっとだけ、借りるわね?」
「――なっ!? お、おい――!」
鋭い牙が首筋に触れ、熱が散った。
血が吸い上げられる感覚に、全身の毛穴が総立ちになる。肩が痙攣し、視界が暗転しかけた。
「っ……痛っ……デイジア! なにしてんだ!」
必死に押し離そうとするが、細腕とは思えぬ力で絡みつく。
「ふふ……ごめんねぇ。わたし、吸血鬼なの。血は、定期的に吸わないと生きていけないの♥」
紅と金の瞳が妖しく光り、ジェイドの血を舐め取るデイジア。
甘美な吐息が首筋をくすぐるたび、全身が痺れるように震えた。
「ふふ……美味しい……。ねぇ、もっと……ちょうだい?」
挑発的な囁きに、アイリスの胸が凍りつく。
恐怖――ジェイドを奪われる。
その想像だけで息が詰まり、背筋が冷たくなった。
(……いや……違う。失うくらいなら……わたしが、奪う!)
涙で滲む視界の中、手が震えながら伸びる。
アイリスは迷いなくジェイドの顔を両手で掴んだ。
「ジェイド様の血は……わたしのもの……!」
衝動の叫びと同時に、唇を重ねる。
涙の味が混ざり、苦くて甘い、必死のキス。
「……!? ア、アイリス!? な、なんで急に――っ」
ジェイドの視界が熱で揺れ、心臓が暴れた。
混乱と動揺で頭が真っ白になる。
だが胸の奥で、彼女を抱き留めたい衝動も同時に膨れ上がっていく。
「っ……絶対に、渡さない……!」
嗚咽混じりの言葉が刃のように鋭い。
紫の瞳が怒りと愛で潤み、炎のように燃えていた。
「あはは……! なにこれ、最高すぎるんだけど♡」
デイジアが堪えきれずに笑う。牙を覗かせ、首を傾げる。
「泣きながらキス? 独占欲まるだし? 本当に必死ね、アイリス。
……人間って、意外と獰猛なのね」
煽りながらも、観察者のような冷たさを漂わせる声。
紅と金の瞳が、二人の関係を愉快そうに見つめていた。
「ジェイド様……っ」
アイリスの声は涙に濡れていた。
それでもはっきりとした決意が滲んでいた。
――奪わせない。わたしがこの人を守る。
広間の空気が急速に熱を帯びていく。
恐怖と嫉妬と独占欲が混じり合い、炎となって燃え上がっていた。
アイリスの必死なキスを見届けたデイジアは、唇を艶やかに吊り上げた。
紅と金の瞳が細められ、愉快そうに揺れる。
「ふふふ……アイリスちゃんって可愛いね♡
……アイリスばっかりズルいなぁ。
じゃあ……次はわたしの番だよね♪」
挑発めいた声音のまま、ジェイドの腕を強く掴む。
小柄な体なのに、その力は鉄鎖のように重く、簡単には振り解けない。
「――っ、デイジア……!」
抗う声を無視し、デイジアは顔を近づけた。
次の瞬間、ジェイドの唇を奪い、深く吸い込む。
血ではなく、生命の芯そのものを啜られるような感覚。
「……っ!? な、なに……これ……力が……抜け……!」
膝が震え、視界が霞み、耳鳴りが広がる。
体温が急速に遠のき、立っているのがやっとだった。
ジェイドは歯を食いしばり、意識をつなぎとめる。
「ん……ふふっ……血も精気も……甘くて、美味しい……♥
ねぇジェイド、もっと……わたしにちょうだい?」
舌が這い、耳元で甘やかに囁く。
支配と快楽を同時に押し付けるような声。
彼女にとって精気を啜るのは、血以上に人間を“所有する”行為だった。
「や、やめてっ!! ジェイド様を苦しめないで!」
アイリスが悲鳴を上げ、必死にジェイドの体を抱きとめる。
腕は震え、指先がかすかに痙攣している。
それでも彼を支えようと必死にしがみついた。
「返して……ジェイド様は、わたしの大切な人なの!」
祈りと叫びが混じった声が広間に響く。
紫の瞳は涙に濡れ、それでも揺るぎない光を帯びていた。
「……ふふっ」
デイジアは舌なめずりをし、余裕の笑みを崩さない。
紅と金の瞳が楽しげに輝き、二人を試すように見下ろしていた。
ジェイドの体がふらつき、アイリスが必死に抱きとめる。
腕は震え続けているのに、決して離そうとしなかった。
「返してって言ってるの! ジェイド様は、わたしの……大切な人なの!」
涙と嗚咽が混ざり、声はかすれてもなお真っ直ぐだった。
その姿を見て、デイジアは小首を傾げ、紅と金の瞳を細める。
「ふふ……熱烈な告白だねぇ。
でもズルいなぁ、アイリスばっかり。
わたしだって――欲しいのに」
唇をぺろりと舐め、挑発的に笑う。
「ジェイドの血も、精気も、心も……ぜーんぶ」
挑発的な声が、広間にじわりと熱を広げる。
アイリスは涙に潤んだ瞳でジェイドを見上げ、必死に言葉を紡ぐ。
「ジェイド様……っ、わたしは……」
その隙を狙うように、デイジアが顔を近づけた。
再び奪い去ろうとする唇。
「やめろ――!」
ジェイドが声を張った。
体はまだ震えているのに、不思議と力がこもる。
彼はデイジアの肩を押しとどめ、アイリスを庇うように立ちふさがった。
「おい、待てデイジア。
いつからだよ? オレはお前に好かれるような行動、取った覚えはない」
その言葉に、デイジアの瞳がわずかに揺れる。
「……なにそれ、ちょっとショックなんだけど」
口を尖らせ、わざとらしく肩をすくめる。
だが紅と金の瞳は、次の瞬間きらりと光を増した。
「じゃあ――今からたっぷり、教えてあげる♡」
挑発でも告白でもない、支配の予告。
その声音に、アイリスの胸が再びざわめいた。
ジェイドにすがりつく手に、さらなる力がこもる。
「ジェイド様を渡さない……絶対に!」
涙で濡れた声が広間に響き、三者の感情が衝突する。
紅と金、紫と茶――視線が交錯し、空気は灼けるように熱を帯びていった。
紅と金の瞳が艶めき、デイジアが舌なめずりをする。
アイリスは必死にジェイドへ縋りつき、涙で濡れた声を上げた。
三者の感情が衝突し、広間は灼熱の舞台のように煮えたぎっていた。
――その光景を、廊下の影から眺める影があった。
ユミナ。
翡翠色の瞳を細め、微笑を浮かべる。
「……ご馳走」
艶やかな声音が、誰に届くでもなく空気に溶けた。
観客のようなその表情は、楽しげでありながら冷ややかでもある。
足音ひとつ立てず、気配すら残さず、彼女は影へと消えていった。
広間には再び、三人だけが取り残される。
「……ジェイド様……」
アイリスは涙で濡れた頬を拭いながら、なお彼を抱きしめて離さない。
濡れた髪が彼の胸元に張り付き、指先は小刻みに震えていた。
「ふふ……ほんと、手強いなぁ。
……だから、余計に欲しくなるんだよね」
デイジアは勝ち誇った笑みを浮かべ、牙をちらりと覗かせた。
楽しげな声の奥に、飢えを隠さない。
「お、お前たち……ほんと、どうしてこうなるんだ……」
ジェイドは赤面しながら頭を抱え、呻く。
安堵も恐怖も嫉妬も、すべてが入り混じった舞台。
その夜は、涙と独占欲と困惑に塗れて――まだ、幕を閉じようとはしなかった。




