【第51話】★鎖と軍靴★(本編)
鎖が床を擦る音が、ひどく遠くで鳴っているように聞こえた。
戦闘の熱はもう消え去り、広間には焦げた匂いと涙の余韻だけが残っていた。
砕け散った瓦礫の影の中で、カールの身体が無様に拘束されている。
「……拘束を続けて。油断は禁物よ」
ユミナの声音は、氷で覆った刃のように澄んでいた。
命令と同時に近衛たちが動く。鋼鉄の拘束具が、ひとつ、またひとつと噛み合わされ、鈍い音を響かせる。
まるで広間そのものが、彼を閉じ込める檻へ変わっていくかのようだった。
(……終わった、のか)
ジェイドは息を吐いた。
胸の奥に張り詰めていた弦が、ゆっくりと緩んでいく。
その証拠のように、アイリスの肩が小さく上下しているのを見届け、指先から力が抜け落ちた。
だが――安堵は一瞬だった。
石床を踏む靴音が、背後から静寂を切り裂いた。
乾いた音が、規則正しく石床を叩いた。
一歩ごとに広間の温度が下がっていく。
それは威圧でも怒号でもない。むしろ淡々とした歩調――だが、誰ひとり声を発することができなかった。
扉口に、影が立つ。
深緑に染められた軍服。肩章と襟に刻まれた金の意匠。
胸元で鈍く光る徽章は、教範の挿絵でしか目にしたことがない紋章だった。
(……軍服? いや、まさか――)
喉が勝手に動き、ジェイドは息を呑んだ。
その答えは恐ろしいほど明白だった。
――オーク帝国。
敵国の影が、今この場に立っている。
「場は収まったようだね。……煙たいな」
男は軽く鼻を鳴らし、指先で空気を払うような仕草をした。
笑みを浮かべている。だがその笑みは、床に影を落とさない。
「来訪を確認……オルフェス=ヴァルド中佐、ですね」
ユミナが、迷いなく名を告げた。
声色は淡々としている。感情を削ぎ落とした冷静さ。
その一言が、広間全体の意味を変えた。
(ユミナは……知っていた?)
安堵は砕け、疑念が胸を占める。
ジェイドは初めて知った。
そして読者も同時に知る――カール=ベレヒトが帝国と繋がっていたという事実を。
「紹介は要らないよな。……まあ一応言っておこうか」
扉口に立つ男は、気楽そうに両手を広げてみせた。
軍服の重さをものともしない仕草。その場に集まった全員を軽くあしらうような態度。
「オルフェス=ヴァルド。帝国の“連絡役”だ。今日は味方ってことで来てる」
声は軽やかだった。だが、笑みの裏で一瞬だけ、氷のような視線が走った。
その一閃に、広間の空気がわずかに凍る。
「……評価は不要です。本件については、規定どおり私たちの管理下で処理します」
ユミナはわずかに顎を引き、冷たい声音で返す。
言葉に余計な飾りはなく、鋭い刃のように整然としていた。
「お堅いなあ。いや、嫌いじゃないけど」
オルフェスは肩をすくめて笑う。その目がふと、拘束されたカールに流れる。
一瞬、刃物のような光が宿った。
「これが交渉材料になると踏んだんだが……期待外れだ。
――彼はただの“個人”だな。帝国の正規ラインとは無関係。そう書いておけば、余計な霜は降りない」
軽口のように聞こえる言葉。
だがその端々には、冷気が紛れ込んでいた。
(……軽く笑っているのに、心臓が締め付けられる)
ジェイドは知らず、拳を握りしめていた。
表向きは柔らかい。だがその奥に潜む冷酷さを、誰もが直感していた。
「――ジェイド・レオンハルト」
名を呼ばれた瞬間、肺が縮んだ。
声は柔らかい。だが、その瞳の奥には氷の刃が立っていた。
笑みと目が一致しない――それだけで、背筋を凍らせるには十分だった。
「噂は少し聞いている。君は運が良い……あるいは、選ばれやすい」
その言葉が胸に沈む。
視線が肌を撫で、骨の奥まで届く錯覚。
心を覗かれている――ジェイドは無意識にアイリスの前に立ち、拳を固く握った。
オルフェスはわずかに肩をすくめ、声色を変える。
「……ただし、その前に一つ謝らせてほしい。
帝国の使者が、この場で無礼を働いた。――国家の立場は別としても、形式として謝罪を示す必要がある」
そう言うや否や、彼は片膝を床に付き、軍人式の作法で頭を垂れた。
硬質な床に響くその動作は、誠意ではなく儀礼そのもの。
「大変申し訳なかった」と低く告げる声には、温度がなかった。
ユミナは微動だにせず、淡々と応じた。
「……承りました。処理は規定どおりに」
一瞬、彼女の睫毛が震えた。それは感情ではなく、規律の強張り。
形式と形式が擦れ合う音を、ジェイドは肌で感じ取った。
オルフェスは再び立ち上がり、ジェイドへ視線を戻す。
「警戒は悪くない。……今日は観察の範囲内だ」
笑みを深め、そして浅く引く。
まるで糸を引くように、場の空気の重心が彼の掌へ吸い寄せられていく。
(……やはりこいつは、ただの軍人じゃない)
ジェイドの喉に、言葉にならない熱がこみ上げた。
「――本件は我々、メリトクラシアの審問庁にて裁定を行います。
詳細は追って文書にて送達いたします」
ユミナの声は硬質な刃のように響いた。
冷ややかだが、揺るぎない国家の意志がそこにあった。
オルフェスは一瞬だけ目を細め、すぐに薄い笑みを浮かべる。
返答はない。ただ、靴音を刻んで広間を後にした。
去り際、背を向けたまま片手を軽く振る。その仕草が挨拶か、冷たい合図か――誰にも判別できなかった。
扉が閉じる。
残されたのは、鎖の軋む音と、沈黙だけ。
(……カールが帝国の使者だった。その事実に、驚きを隠せなかった。
だが――これで全てが終わるはずがない。
このざわめきは、影を形に変える。牙となるのは、その時だ)
オルフェス……嫌な目つきだった。もしアイツがアイリスを傷付けようものなら――。
静寂の中で、不穏な影が音を立てていた。
やり場のない怒りは、どこにぶつければいいのか。
ジェイドは拳を開いたり閉じたりして、白くなった指の節を見つめた。
鎖は沈んだまま、影を引きずっている。
それが誰のものなのか――まだ、誰にも言い切れはしなかった。
――つづく――




