【番外編】幕間記録:デイジア、霧の選択
市場裏の路地で、私は霧の濃さを測っていた。
人目を避け、音を拾うにはちょうどいい。
その肩に、ふわりと小さな影が舞い降りる。
――ノワール。
闇に紛れる黒猫の使い魔。
赤い瞳が淡く光り、拾ってきた声を私の耳へと流し込んだ。
「……ユミナ様、思念会話を受信しました。生徒の一人が拉致された可能性が――」
「影の術が使われた、と? 市場の裏路地だな。早急に確認を」
断片的なやり取りが霧を震わせて伝わってくる。
耳慣れた名がそこに混じっていた。
「……ノワール…あなたとんでもない情報拾ってきたわね……」
――アイリス。
胸の奥がズキズキと痛む。
……聞かなかったことにしてしまおうか。
一瞬だけ、そんな黒い感情が脳裏を支配した。
でも――。
どうしてだろう、そんなことしたら一生後悔する気がした。
きっと、アイリスのご主人様であるジェイドは悲しむ。
「そんなの絶対嫌!ジェイドが悲しむに決まってるじゃない!」
言葉と同時に、私は駆け出していた。
赤い指輪が熱を帯び、ノワールが驚いたように肩で鳴く。
それでも足を止めることはできなかった。
駆け抜けた先は、裏路地のさらに奥。
建物が肩を寄せ合い、光さえ届かない。
白い霧が地を這い、音を飲み込んでいく。
やがて足が止まった。
石垣の一角に、苔むした鉄扉。
錆びた蝶番は歪み、長らく使われていないはずなのに――そこから冷気が漏れ出していた。
鼻を刺す鉄の匂いに混じり、甘い香りが漂っている。
紅茶と蜂蜜菓子……間違いない、アイリスの痕跡だ。
「ノワール、分身体を戻して」
黒猫の姿がふっと揺らぎ、霧に散っていた影が集まる。
瞳が深紅に輝き、私の足元に忠実に頭を垂れた。
「よし……今度は中を調べて」
赤い瞳が細く光り、影の糸が鉄扉の隙間へと伸びていく。
やがてノワールを通じ、微かな鎖の擦れる音が耳に届いた。
胸の奥がきゅっと縮む。
その音だけで、彼女の震えが想像できてしまう。
赤い指輪が熱を帯び、指先に痛みを走らせた。
任務と情の板挟み。
背を向ければ楽になれる。けれど――一生後悔する。
私は唇を噛み、扉を睨みつけた。
ノワールの瞳が淡く揺れた瞬間、別の気配が霧を裂いた。
駆ける足音――重く速く、焦りを纏った音。
鼓動が霧に反響し、私の胸まで震わせる。
「……来たわね」
予想していた。
アイリスの名が教師陣に伝わったなら、必ず動く。
あの少年が、走ってくるのは当然だ。
影に身を寄せ、私は呼吸を整えた。
でも胸の奥はざわついている。
彼にどう顔を向ければいい?
任務と感情が交錯し、答えは見つからない。
やがて白い靄の向こうに、彼の姿が浮かんだ。
乱れた髪、険しい目。
ジェイド――。
口を開こうとして、言葉が喉に詰まる。
笑ってごまかすこともできるはずなのに、できなかった。
(止めなきゃ。でも、どうすれば……)
赤い指輪が脈打ち、熱を放つ。
ノワールが低く鳴き、足元に身を寄せる。
その仕草が「覚悟を決めろ」と告げているようだった。
私は一歩、霧の中へ踏み出す。
――このあと何を言うかは、もう分かっている。
霧の奥から、彼の声が飛び込んできた。
「信じていいのか……? いや、迷ってる場合じゃない! 急いで探さないと!」
胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
ああ、やっぱり。
彼は迷いながらも、結局は前に進む。
「アイリスは無事だって信じてる!」
その叫びに、私の心臓が跳ねた。
信じる。
その一言が、どうしてこんなにも重く響くのか。
「デイジア! お前が敵に回ったら、オレは一生許さないからな!」
刃のように鋭い声だった。
でも、胸に突き刺さったのは痛みではなく――熱。
(許さない、か……)
喉の奥に込み上げた笑いが震えに変わり、目頭が熱くなる。
裏切るわけにはいかない。
その言葉が、私を縛った。
……いいえ。縛ったんじゃない。救ったんだ。
赤い指輪が脈打ち、任務を思い出させる。
でも、ジェイドの声がそれ以上に大きい。
「……ほんと、わたしってバカ」
涙がこぼれる前に、私は霧へと身を翻した。
ノワールが足元に擦り寄り、小さく鳴く。
それが余計に胸を揺らす。
(間に合って……お願いだから)
声にならない祈りを残し、私は白い靄の奥へ消えていった。
学院の作戦室。
水晶に映る霧の路地を、私はじっと見つめていた。
魔術の揺らぎで映像は不鮮明。それでも――誰がそこにいるかは分かる。
「……デイジア」
記録官が筆を止め、私に問いかける。
「どうなさいますか? 報告に回しますか?」
「……まだダメよ。断定できていないもの」
水晶の中、ジェイドは鉄扉に手をかけていた。
その背に寄り添うように、デイジアの影が霧に溶けて消えていく。
あの瞳に宿った揺らぎを、私は見逃さなかった。
胸の奥にざわめきを覚えながら、私は短く息を吐く。
「記録を続けて頂戴。いずれ……答えが出るでしょう」
――彼女は何者?
……ただの人間、そうは見えない。
この学院には、彼女のように得体の知れない者達が在籍している。
それを記録し、監察し、突き止めるのが……私の役目。
やがて明かされる答えは、彼女だけでなく、この国すら揺るがすだろう。




