【第47話】】★デイジア、涙をこらえて★(本編)
【第47話】】★デイジア、涙をこらえて★(本編)
霧が、音を呑み込んでいた。
市場のざわめきは背後に遠ざかり、裏路地に踏み込んだ途端、世界の色がひとつ失われたように思えた。
石畳は濡れて鈍く光り、その上に茶葉がぱらぱらと散っている。
細く撚られた琥珀葉――アイリスが選んだ紅茶だ。
掌に掬った瞬間、柔らかな香りが胸を突く。
同じ路地に、踏み潰された蜂蜜菓子の欠片が張り付いていた。
その甘さも、風にさらわれかけている。
「……アイリス、どこに行ったんだ」
懐に抱えた紙袋をぎゅっと握る。まだ紅茶の香りが残っている。
けれどその温もりが、逆に心を締めつけた。
焦りに胸が焼け、呼吸は浅く速くなる。
そのとき――。
霧の奥で、布の擦れる微かな音がした。
ジェイドは反射的に顔を上げる。
白い靄がゆらぎ、その向こうに人影が浮かび上がった。
黒いマントの裾がふわりと揺れ、少女の姿が現れる。
「……デイジア?」
名前を呼んだ声は震えていた。
どうして彼女が、こんな場所に――。
霧を背に立つデイジアは、いつもの小悪魔めいた笑みを見せなかった。
銀の髪は湿気を含んで頬に張り付き、赤い瞳は沈黙を抱え込んでいる。
彼女の周囲だけ、霧が濃く渦を巻いているように見えた。
「……ジェイド、ここで足を止めなよ」
声は低く抑えられていた。いつものからかう響きはない。
それがかえって不安を煽る。
「な、なんで……デイジアが……! アイリスはどこだ!」
焦燥が喉を突き破り、声が裏返る。
霧が二人の間を漂い、音をすべて吸い込んでいく。
靴音すら鈍く、心臓の鼓動が遅れて耳に返ってくる。
時間が引き延ばされたかのような異様な感覚に、ジェイドは歯を食いしばった。
「……オレには時間がないんだ! どいてくれ!」
叫びにも似た声。
だがデイジアは動かず、視線を落としたまま小さく首を振った。
濡れた睫毛がわずかに震える。
「……あんたさぁ、それでも行くの?」
静かに、しかし突き放すように。
その言葉は試すようでもあり、縋るようでもあった。
「……本当は、わたしが口を出すべきじゃないの」
押し殺した声が霧に溶けた。
デイジアは俯き、袖口をぎゅっと握る。その指先に、一瞬だけ赤い光が宿る。
ジェイドの目がそれを捉えた瞬間、彼女は慌てて手を引き、マントの下に隠した。
「今の……赤い光……?」
ジェイドが問いかけても、返事はない。
ただ、デイジアの肩がわずかに震えている。
声を出せば、堪えてきた感情が零れてしまう。
そんな恐れを、彼女自身が必死に抑えているのが分かった。
「……でも、あんたなら、もしかしたら……」
小さな吐息のように紡がれた言葉は、霧に紛れて聞き取りにくい。
「なにを……言ってるんだよ」
ジェイドの胸に混乱と苛立ちが渦巻く。
デイジアはゆっくりと顔を上げ、霧の奥を指差した。
「この路地の先。古い石垣の扉……そこに、いる」
瞳の奥に揺れるものは、涙か、別の光か。
ジェイドは息を呑み、拳を握る。
「……信じていいのか? お前は敵なのか、味方なのか……!」
問いかけは、霧に吸い込まれて消えた。
デイジアは答えず、ただ唇を噛み、沈黙を選んだ。
沈黙が胸を締めつける。
答えを返さないデイジアの姿に、疑念と焦燥が渦を巻いた。
だが――迷っている場合じゃない。
「信じていいのか……?」
吐き出した声は掠れて震える。
「いや、迷っている場合じゃない! 急いで探さないと!」
胸の奥で熱が爆ぜ、息が荒くなる。
紅茶の香りが指先に蘇り、アイリスの笑顔が脳裏をよぎる。
「アイリスは無事だって信じてる!」
喉を裂くような叫びが霧を震わせた。
その声に、彼女を思う心がすべて詰まっていた。
「デイジア! お前が敵に回ったら、オレは一生許さないからな!」
霧がびりびりと震え、空気が張り裂けるようだった。
その言葉に、デイジアの肩が小さく揺れる。
泣きそうな瞳を一瞬だけ見せ――すぐに霧の奥へ背を向ける。
返事はなかった。
ただ、彼女は声を飲み込み、白い靄に紛れて消えていった。
「……間に合ってくれ……! 頼む……!」
祈りに似た声が漏れ、ジェイドの拳は白くなるほど固く握られていた。
それは誓いであり、願いであり、己を突き動かす最後の力だった。
霧を抜けると、石垣の一角に苔むした鉄扉が口を開けていた。
人に忘れ去られたかのように錆び付き、重苦しい気配を漂わせている。
近づくほどに、冷たい鉄の匂いとともに別の香りが胸を刺した。
紅茶と蜂蜜菓子――アイリスが大切に抱えていた温もりの残り香だ。
だが、その甘さは鉄錆と湿気に混じり、地下から立ちのぼるような冷たさを帯びていた。
耳を澄ませば、微かに響く鎖の擦れる音。
石畳の隙間には黒い影がじわりと滲み、扉の下へと吸い込まれている。
「……ここだな」
ジェイドは拳を握りしめ、震える手を扉に伸ばした。
冷え切った鉄の表面は拒むように硬く、指先に食い込む。
それでもためらうわけにはいかない。
胸に紙袋を抱きしめる。
散らばった茶葉も、砕けた菓子も、すべてはアイリスが自分に渡そうとしたものだ。
その温もりが確かにここまで導いてくれた。
「待ってろ、アイリス……!」
錆びた蝶番が悲鳴を上げ、重たい扉がゆっくりと軋む。
暗闇が口を開け、冷気とともに不穏な気配が溢れ出した。
ジェイドは短く息を呑み、迷わずその闇へ足を踏み入れた。




