【第46話】★追跡、 市場の足跡★(本編)
黒い影が足首から這い上がり、全身を冷たく締めつける。息が詰まり、視界の端がじわじわと暗く染まっていった。
逃げたい――そう思うよりも早く、胸の奥で別の願いが揺れていた。
――紅茶を淹れたい。
たった一杯でいい。ジェイド様に温かさを届けたい。
市場で選んだばかりの茶葉の香りが、まだ指先に残っている。蜂蜜をほのかに含ませた菓子の甘さも、掌に確かにあった。
その小さな幸福が、影に奪われる寸前にある。だからこそ余計に、彼の笑顔と共に過ごす時間を夢見てしまう。
影は容赦なく締めつけ、呼吸を細く削っていく。恐怖は確かにあった。身体は震えて、声も喉の奥に貼りつく。
けれど、心だけは違った。
学院で出会った彼の眼差しを思い出すたび、不思議と「必ず来てくれる」と信じられた。
所有物として扱われた日々とは違う。今はもう、支配されるだけの存在ではない。彼の隣に立ち、いつか胸を張って紅茶を差し出したい。
その願いに縋った瞬間、胸の奥が熱を帯びた。
思念伝達――授業で「最後の護り」と教えられた魔法が、極限の中で発動する。
暗闇に沈みかける意識の底で、ただ一人の名を叫んだ。
(……ジェイド様!)
答えは返らない。だが確かに、届いたと信じられた。
その確信を胸に抱いたまま、アイリスの意識は闇へ沈んでいった。
……静かだ。
市場はこんなに人で溢れているのに、この一角だけが切り取られたように音が遠い。
転がる紙袋。
中からこぼれた茶葉が石畳に散り、蜂蜜菓子の甘い香りが胸を突く。
喉が詰まり、息が乱れた。
「……これ……」
掌にすくった茶葉は、細く撚られた琥珀色。
見覚えがある。俺がよく買う銘柄――琥珀葉。
柔らかな香りと澄んだ後味が好きで、何度も足を運んだ店でしか手に入らない。
「坊や、それを知ってるのか?」
声をかけてきたのは、近くの茶葉屋の店主だった。皺だらけの顔に、わずかな険しさを宿している。
「今朝だったかな?褐色の肌に銀髪の少女が来てな、嬉しそうにその琥珀葉を選んでいっかな?蜂蜜菓子も一緒にな。
……坊やもしかしてお嬢ちゃんと知り合いかい?」
ジェイド
「……っ、……!」
(息を呑み、袋を強く握りしめる)
「アイリス……アイリスはどこにいったんだよ!?」
店主
「お、おい落ち着きな。確かに笑顔で去っていったが……そこから先は、すまんね。市場は人が多すぎて、ああちょっと!」
店主が言い終わる前に走り出していた。
風が吹き、袋の口から琥珀葉がひとひら舞った。
甘い香りが胸を突き上げる。
「……待ってろ、必ず……!」
その香りを追うように、俺は走り出した。
懐に抱いた紙袋の重みが痛いほど胸を圧していた。
散らばった茶葉の香りがまだ鼻を刺し、頭の奥は焦りで真っ白になる。
どうすれば――。
そのとき、胸元が不意に淡い光を放った。
「……な、なんだ……?」
懐から浮かび上がる通信魔法陣。掌に収まるほどの輪が、かすかに震えている。
誰だ……? こんなときに……?
『こちらユミナ。受信履歴を確認した――アイリスの緊急思念会話を受信した』
鋭くも落ち着いた声が耳の奥に響いた。
「ユミナさん! オレ……オレは……!」
言葉にならない。喉が詰まり、息が乱れて、胸が爆発しそうだ。
『落ち着きなさい、ジェイド。あなたはアイリスの主として、護る義務がある。
まだ十歳の若輩者かもしれない。けれど、あなたは試験を突破し、貴族を志す者。
その責務を今こそ全うしなさい。いいわね?』
胸に突き刺さる叱咤。だが同時に、それは迷いを断ち切る灯火でもあった。
自分は彼女の主――彼女を救えるのは、自分しかいない。
「……ユミナさん、ありがとう。オレ、必ずアイリスを連れ戻す!」
宣言と同時に足が動いた。
紙袋を抱きしめ、俺は路地の奥へ駆け出した。
市場のざわめきを背に、俺は紙袋を胸に抱いたまま路地の入口に足を踏み入れた。
人混みの声が一気に遠ざかる。喧噪は背後に置き去りにされ、前方には石畳を叩く自分の靴音だけが響いていた。
通りから分かれた路地は思ったよりも狭く、両脇の建物が肩を寄せ合うように迫っている。
頭上には張り出した屋根布が重なり合い、朝光はほとんど遮られていた。
ほんの数歩進んだだけで、昼間なのに夜のような薄暗さに包まれる。
空気が変わる。
さっきまで甘かった紅茶の香りに、冷たい鉄の匂いが混じった。石壁は湿り、足元の隙間からは冷たい風が吹き上がる。
背筋に粟が立ち、膝が一瞬だけ止まりかけた。
「……もし間に合わなかったら……」
恐怖が頭をかすめる。
彼女がどこかで泣いているかもしれない。もう二度と会えなかったら――。
「……くそっ……!」
唇を噛む。震える膝を叱咤し、無理やり前へと押し出す。
ユミナさんが言ったように、俺は彼女の主だ。護る義務がある。
この場で立ち止まれば、二度と胸を張れなくなる。
紙袋の感触を確かめる。冷たいはずなのに、そこに残るのはアイリスの温もり。
散らばった茶葉も、蜂蜜菓子も、すべては彼女が俺に渡そうとしたものだ。
それを地に落とした何者かを、このまま許すわけにはいかない。
「待ってろ……アイリス」
心臓が速く打ち、耳の奥で血の音が響く。
だがその鼓動が、恐怖を押し流す力に変わっていく。
路地は奥へ奥へと続き、影はさらに濃さを増していた。
俺は迷いなく、その闇の中へ踏み込んでいった。
薄暗い路地の奥へと進むたび、空気はさらに重く沈んでいく。
石畳の隙間には黒い染みのような影が広がり、足を踏み入れるたびにじわりと揺れた。
まるで生き物のように蠢くそれが、冷たい指先で肌を撫でてくる。
胸の奥でまだ熱が脈打っていた。
アイリスの声が残した痕跡。
紅茶の甘やかな香りと、影の冷気が同じ場所に混ざり合う――不自然なほどに。
「……ここだな」
吐き出した声が震える。
恐怖は消えていない。むしろ影の気配が濃くなるほど、膝が勝手に震える。
けれど、退く選択肢はなかった。
「必ず追いつく……必ず――!」
声は誓いというより、叫びに近かった。
靴音が石畳を強く打ち、狭い路地に反響する。
紙袋を懐に抱きしめながら、俺は影の奥へと駆け込んだ。
視界の端で、黒い染みが波のように広がった。
その一瞬、散らばった茶葉の香りがふわりと舞い、朝光に届かぬ闇の中でかすかにきらめく。
紅茶の香りが導くように、俺はさらに奥へ――。
濃い闇が口を開け、俺を飲み込む。
市場のざわめきも、金色の朝光も、すべて背後に遠ざかっていった。
最後まで読んで頂きありがとうございます!次回もお楽しみに!
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