【第41話】★深淵より、影が囁く★
冒頭補足
前章の「吸血鬼会合」は Ep40 と同じ時間軸で展開していた裏側の場面です。
本章からは、退域の手続きを経て日常側へ戻るジェイドたちの視点に再びフォーカスします。
鐘音の乱れが収束し、退域手続きを迎える三人。
冷気から常温へと移ろう空気の中で、心に残るのは「資格者」という言葉の余韻。
環境が日常へ戻っていくほどに、彼らの胸にはかえって不安の痕跡が残り続ける。
――そして誰も気づかぬところで、わずかな綻びが確かに記録されていた。
鐘の音が、ようやく収まった。
石造りの階段を包んでいた金属的な反響は、まだ壁の奥に薄く残響を抱えている。それでも確かに、ひときわ大きかった乱れは遠ざかり、冷気の幕も少しずつ解けていく。
ジェイドは肩で息を整えながら、足を踏み出した。靴底が石に触れるたび、乾いた音がする。さっきまで震えるほど冷えていたはずの空気が、ほんのわずかに和らいでいるのがわかる。吐く息の白さも、輪郭を失いながら溶けていった。
「……」
すぐ後ろに続くアイリスが、無言のまま彼の手を探すように指を伸ばしてきた。その細い手を一度握り、次の瞬間にはまた離す。ふたたび結び直そうとする――そんな小さな往復を、彼女はためらいがちに繰り返していた。
フィーネは逆に、少し距離を置いている。けれど視線は常に二人の背を追っていた。瞳の奥に残る微かな震えは、鐘の乱調よりも、あの“発言”の余韻を引きずっているからだ。
――資格者。
耳にした瞬間から、心の奥にざらついた疑念が張りついて離れない。
階段の出口に近づくにつれ、空気の質が変わっていく。
先ほどまでの冷気が後退し、常温に近い温度が戻ってくるのだ。換気のための魔導管からは微弱な風が流れ、髪先を揺らした。環境音もまた、段階を踏んで変わる。金属的な反響は消え、代わりに空調の低い唸りが耳に届く。靴音は乾き、音量を失っていった。
ジェイドは目を細めた。
外界に近づいている証。それでも胸の中の圧迫感は、容易には解けてくれない。鐘が残した余熱は、冷気よりもしつこく体内に沈み込んでいるように思えた。
出口の先には、保安ゲートが待っている。
白い蛍光灯が一定のリズムで点滅し、金属製のフレームに淡い光を落としている。見慣れた退域手続きの場に近づくはずなのに、その足取りには微妙な硬さが混じる。
「……」
ジェイドはほんの一瞬、振り返る。
アイリスの紫の瞳は彼を見て安堵を訴え、フィーネの瞳は静かに何かを測ろうとしていた。三人の間を通り抜けていく空気だけが、ようやく日常へ戻ろうとしている。
それでも――胸の奥には、疑念の階段がもう一段、残っていた。
保安ゲートの手前に据えられた黒鉄の柱。
その中腹に組み込まれた記録装置の眼が、赤い光を点滅させていた。通過する者を識別し、映像を残す――それが役割のはずだった。
だがジェイドが足を止めた瞬間、その赤が一度、鈍く欠ける。
ほんの呼吸ほどの間。映像でいえば一コマ飛んだかのような“空白フレーム”。通常の監視員には見逃される揺らぎだが、ヴィオラ仕様の記録ならば確実に判別できる。
フィーネは眉を寄せた。
「……ノイズ」
小さくこぼす。その感覚に混じったのは、鐘の余韻と同じ冷たいざわめき。微弱だが確かに“混じり気”が残っている。だが、証拠にはならない。断言するには根拠が薄すぎた。
「……何かあったんですか……?」
アイリスが問いかける。声は柔らかく、どこか怯えを帯びていた。指先はまたジェイドの手を探しかけて、すぐに引き戻す。遠慮と不安が揺れる仕草。その瞳に、独占欲に似た陰がかすかに宿る。
「……ジェイド様、早く戻りませんか? わたし……嫌な感じ……します。」
フィーネは首を振った。
「……ただの気のせいかもしれません」
それ以上は語らない。
ジェイドは二人のやり取りを受け止めながら、装置の赤を睨んだ。冷たく鈍い光が、ほんの一瞬呼吸を外した。その違和感を、声にはせず心に刻む。
――今、何かが欠けた。
その記録を胸に書き留めるだけだ。
ゲートは機械音を立て、アクセス証タグの読み込みを始める。無機質な作業、定められた退域手続き。
けれど、その裏に潜む綻びは確かに存在していた。
ジェイドは頷くだけで答えなかった。
代わりに心に静かに誓う。
――後で確認する。必ず。
保安ゲートの前で、三人の足がそろって止まる。
監視カメラの黒い眼が、こちらを無感情に見下ろしていた。視界の端で、蛍光灯の白が金属の枠に薄く滲む。空調の低い唸り。靴音は、もう響かない。
「アクセス証、提示を」
係員の声は定型の高さで、温度がない。
ジェイドは三人分を順に差し出す。指の先は落ち着いている。胸の奥の苛立ちを、表層に出さないまま。
「体調の変化、ありますか」
「ありません」
「退域理由、規定どおり」
「はい」
「同行者の変更、なし」
「……なしです」
返事が一拍、硬い。自分でもわかる。
だが――感情で揺らすのは、いちばんの無駄だ。
ジェイドは視線をわずかに下げ、心の中に小さな箇条書きを刻む。
――記録装置のログ、後で確認(ヴィオラ仕様を申請)。
――通過時の経路と環境音、再現。
――“混じり気”の兆候、時系列で並べる。
確かめる。必ず、証拠で。
フィーネが短く息を吐く。
「……ノイズ、薄くなってきました」
囁きは空気に溶け、係員の耳には届かない。
アイリスは黙って会釈だけをし、ジェイドの半歩うしろで立ち位置を守る。
係員が端末を操作する。金属フレームの内側で、認証音が乾いて鳴った。
「通過を許可します」
ゲートの縁に並ぶ表示灯が、順に点りはじめる。
白が少しだけ柔らぎ、緑が昇る。
――その手前、ほんの瞬きの刹那。
緑に混じって、赤の素子が“噛んだ”。
機械の都合といえば、それまでの一瞬。
誰も気づかない。気づいてはいけない種類の、色のずれ。
ジェイドは顔を上げる。
「行こう」
声は静かで、温度だけを戻している。
三人がフレームを抜ける。端末の記録は規定の音で閉じ、係員は次の手順へ目を落とした。
肩越しの視界で、監視カメラが小さく角度を変える。
映るのは、いつも通りの退域の絵。
異常は――“絵の外”に置かれたまま。
ゲートを抜けた先は、幅のある白い廊下だった。
壁際の蛍光灯が昼間のような無機質な光を撒き散らす。冷気は退き、常温の空気が肌を包む。張りつめていた息苦しさも、表面上は解けている。
靴音が乾いた調子で続く。だが、その響きは次第に小さく、空調の流れに呑まれていく。
ジェイドは振り返らない。振り返れば、ただの定型手続きを確認する係員と無機質な機械しか残っていないとわかっていたからだ。
アイリスは安堵の息をそっと洩らし、ジェイドの横に歩調を揃える。フィーネは何度か呼吸を整え、瞳を伏せた。微弱なざわめきはもう感知できないほど薄まっている。だが、完全に消えたとは言い切れない。
ジェイドは声を出さず、心の奥にだけ言葉を置いた。
――必ず掘り起こす。
確認ではない。あれは調べ直す価値のある“欠落”だ。
廊下の先、曲がり角の壁に蛍光灯の光が滲む。
一瞬、反射が赤に染まり、影がゆらぎながら引き延ばされた。三人は気づかず、そのまま歩みを進める。
光はすぐに白に戻り、靴音はさらに遠のいていく。
ただ、廊下の角の奥に――赤の残響がまだ潜んでいるかのように。
今回は「非日常から日常へ帰還する動作」を重ねながら、
その裏に“見えない赤”を仕込む回でした。
ジェイドが「確認」ではなく「掘り起こす」と決意を固めたことで、
ただの余韻ではなく、次に繋がる明確な課題となりました。
アイリスの台詞は、不安と独占欲の両方を匂わせる調整をしました。
少し違和感を覚える方もいるかもしれませんが、
その違和感は彼女の物語における伏線の一部として拾っていく予定です。
次回は Ep38-後編「偽装の夜風、指輪の影」。
静けさを取り戻した夜に紛れ、赤い影が新たなかたちで忍び寄ります。
作者活動リンク
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