表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
メリトクラシア 処女作  作者: Lancer
第5章:希望の階段
68/88

【番外編】★塔の外で見た影★

本編【Ep37】直後──

ジェイドたちが塔へ向かう、その少し前。

「また塔か」と呟いたキールの胸中には、過去に一度だけ味わった異常な体験が刻まれていた。

これは、その“影”の記憶。

本編該当話はこちら:

【第37話】★再び塔の影へ──★


「……また塔か」

吐き出した途端、その言葉が空気を冷やした気がした。

曇天の下、塔はわずかな光さえ呑み込み、黒々と立っている。

足先から這い上がる冷たさが膝で溜まり、胸の奥だけが真冬になったようだ。


視界の端を雲影が横切り、塔の輪郭をゆらりと揺らす。

まるで水底から見上げた山並みのように、輪郭がぼやけては形を戻す。

キールは喉の奥が詰まり、わずかに呼吸を乱した。無意識に仲間の姿を探す視線が、周囲を一巡する。

……誰も、あの日のことを思い出してはいない。少なくとも表情には出していない。


──あの日も、同じ揺らぎを見た。

靴底の感触、耳の奥で弾けた金属音、そして──仲間の輪郭が霞に溶けかけた瞬間。

忘れたはずの光景が、鮮明に蘇る。


塔の影は、過去を容赦なく引きずり出す。


まだ士官候補生になる前のことだ。

任務内容は簡単だった──塔近くの資材置き場まで行き、必要な木箱を運び出すだけ。

三人一組の臨時班。

風はなく、湿った曇天の下、足音だけが石畳を叩く。


目的地まで二百メートルを切ったとき、空気が急に変わった。

息を吸った瞬間、肺に冷水を流し込まれたような感覚が走る。

耳の奥で、高い金属音と低いうなり声が同時に鳴り始め、混ざり合って脳を揺らす。

思わず足を止めた。


視界が“二重”になっていた。

石垣の向こうに、見知らぬ街並みが透けて見える。

色は淡く、陽炎のように揺れている。

目を凝らすと──隣を歩く仲間の腰から上が、霞に溶けて消えかけていた。


「……おい、なんか──」

言葉は途中で途切れた。

喉の奥が凍り、声が出ない。

足先から背中へ、氷の蔦が這い上がるように冷気が広がる。

視界の端で、塔の黒い影が微かに脈打った気がした。


瞬きを一度。

次の瞬間にはすべてが元通りになっていた。

仲間はそこにいて、何事もなかったかのように息を荒げている。

……ただ、その顔は青ざめ、唇が小刻みに震えていた。


「……見たか?」

問いかけても、返事はない。

ただ、目だけが──同じ恐怖を映していた。


任務から戻った夜、食堂はやけに静かだった。

昼間は椅子の軋みや皿のぶつかる音が絶えないはずなのに、今は誰もが俯き、手元の食事を淡々と口に運んでいる。

煮込みスープの湯気が、湿った空気に重く垂れ込めていた。


キールはスプーンを回しながら、卓上の影を眺める。

昼間の出来事が、頭の奥で何度も再生される。

仲間の輪郭が霞に飲まれかけた瞬間。

あの感覚は二度と味わいたくない。だが──あれはきっと、また来る。


ふと、向かいに座る別班の隊員と目が合った。

彼もまた、昼間に塔付近の任務に就いていたらしい。

一瞬だけ視線がぶつかり、すぐに逸らされる。その目の奥には、言葉にできない怯えが潜んでいた。


キールはスプーンを口元に運び、わざと軽く笑った。

「……死なないためには、笑っていられること」

唇から零れたその呟きは、自分に向けた呪文だった。

恐怖を顔に出せば、飲み込まれる。

だったら、表面だけでも平気そうに見せ続ける──それが、あの影に対抗する唯一の盾になる。


その夜以降、彼は冗談を増やした。

仲間の緊張をほぐすため。

そして何より、自分の心を守るため。


笑い声は、時に薄い膜のように彼の胸を覆い、冷たさを遮ってくれる。

それでも──膜の下には、あの日の寒気が消えずに残っていた。


「キール、塔外周の再探索だ」

短く告げられた命令に、心臓が一度だけ強く脈打った。

手にした命令書の端が、ほんのわずかに汗で湿る。


「……マジかよ。俺、あそこ苦手なんだけどな」

口元にはおどけた笑み。

だが胸の奥では、あの日の冷気が静かに目を覚ます。


視線を流すと、少し離れた場所にジェイドの背中が見えた。

その横には、塔を見上げるフィーネの姿。

理由はなくても、あの二人を無事に帰す──その思いが、冷えかけた心に微かな熱を戻す。


塔は、雲と大地の境界を縫い止める針のように立っていた。

触れれば痛みを伴いそうな灰色の気配が、静かに辺りを浸食していく。

足元の石畳が、かすかに脈を打つように震え、聞こえるはずのない低音が靴底から脛へと這い上がった。


「行こうぜ。……俺が、笑ってやるからさ」

唇の端を上げたが、その笑みには震えが混じる。

自分を奮い立たせるため、声をわずかに張った。


風が、冷たく頬を撫でた瞬間──塔の影が足元まで伸びてきた。

それはまるで、深い水面から伸びた手が、足首を掴もうとするかのようだ。

キールは一歩だけ前へ踏み出し、その影を踏み越えた。


背後から、仲間たちの足音が近づく。

その響きが胸の奥で広がり、氷を溶かすように緊張をほどいていく。

笑っていられるうちは──まだ、大丈夫だ。


















この番外編は、本編【Ep37】でのキールの一言「また塔か」の裏側を描いたエピソードです。

彼が軽口を叩き続ける理由、その根底にある恐怖と覚悟が、物語後半での彼の行動に繋がります。



(note) https://note.com/lancer_meritocracia

(X/Twitter) https://twitter.com/lancer_merito




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ