【番外編】★塔の外で見た影★
本編【Ep37】直後──
ジェイドたちが塔へ向かう、その少し前。
「また塔か」と呟いたキールの胸中には、過去に一度だけ味わった異常な体験が刻まれていた。
これは、その“影”の記憶。
本編該当話はこちら:
【第37話】★再び塔の影へ──★
「……また塔か」
吐き出した途端、その言葉が空気を冷やした気がした。
曇天の下、塔はわずかな光さえ呑み込み、黒々と立っている。
足先から這い上がる冷たさが膝で溜まり、胸の奥だけが真冬になったようだ。
視界の端を雲影が横切り、塔の輪郭をゆらりと揺らす。
まるで水底から見上げた山並みのように、輪郭がぼやけては形を戻す。
キールは喉の奥が詰まり、わずかに呼吸を乱した。無意識に仲間の姿を探す視線が、周囲を一巡する。
……誰も、あの日のことを思い出してはいない。少なくとも表情には出していない。
──あの日も、同じ揺らぎを見た。
靴底の感触、耳の奥で弾けた金属音、そして──仲間の輪郭が霞に溶けかけた瞬間。
忘れたはずの光景が、鮮明に蘇る。
塔の影は、過去を容赦なく引きずり出す。
まだ士官候補生になる前のことだ。
任務内容は簡単だった──塔近くの資材置き場まで行き、必要な木箱を運び出すだけ。
三人一組の臨時班。
風はなく、湿った曇天の下、足音だけが石畳を叩く。
目的地まで二百メートルを切ったとき、空気が急に変わった。
息を吸った瞬間、肺に冷水を流し込まれたような感覚が走る。
耳の奥で、高い金属音と低いうなり声が同時に鳴り始め、混ざり合って脳を揺らす。
思わず足を止めた。
視界が“二重”になっていた。
石垣の向こうに、見知らぬ街並みが透けて見える。
色は淡く、陽炎のように揺れている。
目を凝らすと──隣を歩く仲間の腰から上が、霞に溶けて消えかけていた。
「……おい、なんか──」
言葉は途中で途切れた。
喉の奥が凍り、声が出ない。
足先から背中へ、氷の蔦が這い上がるように冷気が広がる。
視界の端で、塔の黒い影が微かに脈打った気がした。
瞬きを一度。
次の瞬間にはすべてが元通りになっていた。
仲間はそこにいて、何事もなかったかのように息を荒げている。
……ただ、その顔は青ざめ、唇が小刻みに震えていた。
「……見たか?」
問いかけても、返事はない。
ただ、目だけが──同じ恐怖を映していた。
任務から戻った夜、食堂はやけに静かだった。
昼間は椅子の軋みや皿のぶつかる音が絶えないはずなのに、今は誰もが俯き、手元の食事を淡々と口に運んでいる。
煮込みスープの湯気が、湿った空気に重く垂れ込めていた。
キールはスプーンを回しながら、卓上の影を眺める。
昼間の出来事が、頭の奥で何度も再生される。
仲間の輪郭が霞に飲まれかけた瞬間。
あの感覚は二度と味わいたくない。だが──あれはきっと、また来る。
ふと、向かいに座る別班の隊員と目が合った。
彼もまた、昼間に塔付近の任務に就いていたらしい。
一瞬だけ視線がぶつかり、すぐに逸らされる。その目の奥には、言葉にできない怯えが潜んでいた。
キールはスプーンを口元に運び、わざと軽く笑った。
「……死なないためには、笑っていられること」
唇から零れたその呟きは、自分に向けた呪文だった。
恐怖を顔に出せば、飲み込まれる。
だったら、表面だけでも平気そうに見せ続ける──それが、あの影に対抗する唯一の盾になる。
その夜以降、彼は冗談を増やした。
仲間の緊張をほぐすため。
そして何より、自分の心を守るため。
笑い声は、時に薄い膜のように彼の胸を覆い、冷たさを遮ってくれる。
それでも──膜の下には、あの日の寒気が消えずに残っていた。
「キール、塔外周の再探索だ」
短く告げられた命令に、心臓が一度だけ強く脈打った。
手にした命令書の端が、ほんのわずかに汗で湿る。
「……マジかよ。俺、あそこ苦手なんだけどな」
口元にはおどけた笑み。
だが胸の奥では、あの日の冷気が静かに目を覚ます。
視線を流すと、少し離れた場所にジェイドの背中が見えた。
その横には、塔を見上げるフィーネの姿。
理由はなくても、あの二人を無事に帰す──その思いが、冷えかけた心に微かな熱を戻す。
塔は、雲と大地の境界を縫い止める針のように立っていた。
触れれば痛みを伴いそうな灰色の気配が、静かに辺りを浸食していく。
足元の石畳が、かすかに脈を打つように震え、聞こえるはずのない低音が靴底から脛へと這い上がった。
「行こうぜ。……俺が、笑ってやるからさ」
唇の端を上げたが、その笑みには震えが混じる。
自分を奮い立たせるため、声をわずかに張った。
風が、冷たく頬を撫でた瞬間──塔の影が足元まで伸びてきた。
それはまるで、深い水面から伸びた手が、足首を掴もうとするかのようだ。
キールは一歩だけ前へ踏み出し、その影を踏み越えた。
背後から、仲間たちの足音が近づく。
その響きが胸の奥で広がり、氷を溶かすように緊張をほどいていく。
笑っていられるうちは──まだ、大丈夫だ。
この番外編は、本編【Ep37】でのキールの一言「また塔か」の裏側を描いたエピソードです。
彼が軽口を叩き続ける理由、その根底にある恐怖と覚悟が、物語後半での彼の行動に繋がります。
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