【ep.4.5】★檻の外で、ふたたび★ 副題:「救い」としての再会/本編第4~5話間・補完視点回
これは、第4話と第5話の間で描かれた、もうひとつの“始まり”。
アイリスの記憶に刻まれたあの瞬間。
誰にも届かなかった“助けを呼ぶ声”に、最初に気づいたのは――少年だった。
王都の朝は、いつになく静かだった。
試験の熱気が去った街角に、涼やかな風が通り抜ける。
その中を、二人の影が並んで歩いていた。
ジェイドとアイリス。
何気ない沈黙の中、ただ肩を並べて歩くだけの――そんな時間。
だが、その“何気なさ”の中に、彼はふと違和感を覚える。
「……アイリス?」
呼びかけに、彼女は小さく肩をすくめた。
目は伏せられ、唇は言葉を探している。
「……あの時のことを、思い出してたの」
「似ていたから……あの人に」
そう呟いた瞬間、アイリスの視線が曇る。
──そして、記憶が静かに再生を始める。
街の空気が、ぴたりと止まった。
石畳の上、陽も落ちかけた王都の大通り。
その片隅で、アイリスは地面を見つめ、膝をついていた。
「笑ってごらん」
カール=ベレヒトの声が、甘く響く。
「君は綺麗だ。でもね……感情はいらないよ。
黙って咲いていればいい。余計な思考は、醜くなる」
アイリスは言われたとおりに微笑んだ。
自分の顔がどうなっているのかも、もう分からなかった。
それでも、正しいと思った。
そうしなければ、生きてこられなかったから。
「……なんだい、その顔は?」
カールの口調がほんの少しだけ変わる。
「ずいぶん不服そうだね。……戦争奴隷のくせに、偉そうじゃないか」
ゆっくりと振り返った彼は、薄く笑う。
「また、あの商人のところに送り返してやろうか?
……いや、もっと酷い場所に売ってやってもいい」
喉の奥が、きゅっと締めつけられた。
吐き気のような感覚が、身体の奥から這い上がってくる。
そのときだった。
カールの背後から、ひとりの男が現れた。
分厚い唇。卑しい目。
男は舐めるようにアイリスを見つめながら、ねっとりと笑う。
「少しばかり傷物でも、味には関係ない。舌で躾けりゃあ、どうとでもなる」
カールがふっと笑う。
「彼とは取引中でね。君の“価値”が落ちたら、引き渡す予定なんだ」
男の手が伸びる。
アイリスの頬に触れようとする、その瞬間――
「い……いや、やめて。やめてください……!」
アイリスは、声を震わせて身を引いた。
手をはらい、顔を背けようとする。
必死だった。今にも壊れてしまいそうな声だった。
「おい、暴れるな。何を抵抗している?」
男が舌打ち混じりに、カールを見やる。
「……まずいな。これ以上は目立ちすぎかもな」
そのときだった。
カールの顔がゆがみ、怒声が響き渡る。
「この奴隷め! 目障りだ! 下がってろ!」
その声が響いた、ほんの刹那後だった。
「――アイツが、目障りなのは、お前の方だろ」
風を裂いて飛び込んできたのは、少年の怒鳴り声だった。
周囲の空気が、ビクリと震える。
アイリスが顔を上げると、彼がいた。
あの時の少年。あの瞳。
腹の底から絞り出したような声だった。
「お前には……アイツが人に見えないのかよ!」
一歩、また一歩と、ジェイド・レオンハルトが踏み出す。
周囲の視線をものともせず、真っ直ぐに、カールと男を睨み据えていた。
「お前が“ご主人様”だろうが何だろうが関係ない。
アイツを、そんな目で見る奴は──絶対に、許さない」
カールが、一瞬言葉を失った。
「……誰だ、お前は」
「関係ねぇよ。通りすがりの“試験帰り”だ」
そのとき。
「もう十分です」
別方向から静かな声が届く。
現れたのは、ローブを纏った若い女性――ユミナだった。
「あなたの行動、すべて監視済みです。カール=ベレヒト氏。
本件は審問庁により記録済み。貴族特権を濫用した不当行為とみなされます」
「な……!」
カールの顔色が変わる。
そして、もうひとつの存在に目を向けて青ざめた。
ユミナの背後に控えていた、国家徽章を掲げた近衛兵。
「この件、正式に報告させていただきます。……さあ、お引き取りを」
カールが無言で舌打ちをし、男を引き連れて消えていく。
残されたのは、まだ震えるアイリスと、
彼女に手を差し伸べた少年だけだった。
「……大丈夫か」
声が、優しかった。
それだけで、胸の奥がほどけていくような気がした。
「……ありがとう」
アイリスは、初めて自分の意志でそう呟いた。
(――その声が、檻の鍵を外す音に、似ていた)
少年の手を借りて立ち上がったアイリスは、もう一度だけその背を見つめた。
朝の光が射しこむ街角で、ほんの一瞬だけ、“檻の外”に風が吹いた気がした。
合格発表は、まだ先。
けれど、あの声があったから――
今日という日は、確かに少しだけ、違って見えた。
あの日、あの声がなかったら。
少女の人生は、違っていたかもしれません。
本編で描かれた“出会い”の裏には、確かに、もうひとつの物語があったのです。
そして、この“救い”が、やがて彼女の“誓い”に変わっていく――。




