目覚ましは太鼓の音
深夜寝ようとした時に太鼓の幻聴が聞こえて思いついたお話です。
社会人2年目にしてようやく一人暮らしを始めた。
アースレジデンスは9階建て中廊下型の賃貸マンションで、4階南側の403号室が私の部屋だ。エントランスはオートロックで防犯カメラも設置されておりセキュリティも万全。女の一人暮らしを心配していた両親もこれで納得させることができた。部屋は1K7帖の洋室。風呂トイレ別で洗面台は独立。キッチンには料理に十分なスペースがあり、ガスコンロも1口ある。駅から徒歩10分。近くにスーパーやコンビニもある。家賃も申し分ない良物件だ。
実家にいた時も家事は極力手伝うようにしていたので、初めての一人暮らしはすぐに慣れた。食材の買い出しも限られた食費で何を作ろうか思案するのは楽しめたし、洗濯も父親の下着に触れずに済むと思うと清々した。
唯一不安だったのは住人とのトラブルだった。部屋や立地を調べられても、同じマンションの住人がどのような人物かまでは調べようがない。入居審査が設けられているのであまりに問題がある人間が住むことはないだろうが、それでも性格が悪かったり、積極的にトラブルを起こすような人間がいる可能性はある。
だが幸運にもその唯一の不安も杞憂だった。時折マンション内で住人とすれ違うことが何度かあった。洒落たコートを着た若い女性、スーツをきっちり着こなしたサラリーマン、買い物袋を掲げた中年女性。トラブルを起こしそうにない普通の人達ばかり。お互い過度に干渉することはないが、会うたびに会釈を交わす程度には良好な関係を築くことができた。
夜、仕事帰りに外からマンションを見上げるとぽつぽつと各部屋の窓から明かりが漏れていた。それを見て私は少しばかり感激した。部屋に帰れば一人きり。それでもこのマンションにはたくさんの人間が住んでいる。仕事に行ってご飯を食べて眠る。それぞれが自分の生活を営んでいるのだ。
一人暮らしに寂しさを感じていたわけではないが、この大きなマンションに私一人だけではなく、大勢の人間が共に生活をしていることに気づかされた。
こうして私は充実した生活を送ることができた。
マンションに住んで2ヶ月ほど経ったある朝。これまで順調だった私の生活に異変が襲った。
[ドーン!ドーン!]
突如鳴り響いた爆音によって穏やかに眠っていた私は叩き起こされた。何事かと耳をすませるとそれは太鼓の音で隣の部屋から聞こえた。
時刻はちょうど7時。まさか目覚ましのアラームに太鼓の音を使っているのだろうか。だが、音が鳴るたびに腹の底がズンと響く。この感覚には覚えがある。小さいころ近所の夏祭りで太鼓の生演奏を間近で聴いた時と同じ感覚だ。
頭の中で部屋の中央に置かれた大きな太鼓に一心不乱にバチを打ちつける住人の様子が思い浮かぶ。いやいやそんなまさか。だが楽器の持ち込みが禁止されているわけではないのでありえなくはない。
このマンションは鉄筋コンクリート造りで生活音が漏れることはないが、特別な防音対策が施されているわけではない。楽器の音までは流石に防げないだろう。朝にこの爆音は身体に堪える。
騒音が迷惑だと抗議しに行くべきだろうか。隣の部屋の住人にはまだ会ったことがない。もし怖い人が出てきたらと思うと不安で勇気が持てない。
そうこうしているうちに太鼓の音がぴたりと止んだ。何事もなかったかのようにいつもの静かな朝が戻ってくる。
とりあえずこの問題は一旦保留にしておこう。どうしても我慢ならない時は管理会社に連絡して対応してもらえばいい。
その後も1週間に2、3度のペースで朝7時の決まった時刻に隣から太鼓の音が聞こえるようになった。
最初は迷惑に感じていたが、朝が弱い私にとって早起きの習慣付けにもなると前向きに捉えることにした。工事の音なんかと比べれば騒音としては不快感も少ない。
すっかり私はこの異変に慣れてしまっていた。
そうして1ヶ月ほど経ったある日、異変に細かい変化があった。
今まで太鼓の音は東隣から聞こえていたが、この日は西隣に移動したのだ。別の日には上階、下階から聞こえることもあった。
これはどういう事だろうか。今まで東隣の住人が太鼓を鳴らしていたとばかり思っていた。実はまったく違う部屋が音の発生源で、マンション内部で反響を繰り返して私の部屋の一辺の壁から聞こえていたという事だろうか。こういった物理の話はてんで分からないのでこの理屈が正しいか分からない。
だが、どこから太鼓の音が聞こえるかなど私にとって瑣末な事なので、これ以上気にしないことにした。
[ドーン!ドーン!]
[ドーン!ドーン!]
今までにないあまりに強烈な爆音に私は飛び起きた。太鼓の音は部屋の壁や天井、床、あらゆる方向から一斉に鳴り響いている。こんな事は初めてだった。絶え間なく何重にも鳴る太鼓の音が起き抜けの頭に響き、心臓をバクバクと打ちつける。
我慢できずに私は起きたそのままの格好で部屋から飛び出した。
[ドーン!ドーン!][ドーン!ドーン!]
[ドーン!ドーン!][ドーン!ドーン!]
部屋から出て私は呆然とした。太鼓の音は隣接する部屋からだけではない。マンション中の全ての部屋から鳴り響いている。
[ドーン!ドーン!][ドーン!ドーン!]
[ドーン!ドーン!][ドーン!ドーン!]
おかしいのはそれだけではない。こんなにも騒音が鳴り響いているのに私以外に誰も廊下に出てこない。他の階でも騒ぎになっている様子がない。他の住人達はどうしているのだ。
そこでふと気づく。私は最近マンション内で誰かと会っただろうか。朝と夜、マンションを出入りする僅かな時間ではあるが、しばらく人と顔を合わせた覚えがない。
この9階建てのマンションに大勢が生活していたはずだ。なのに今では私一人だけが取り残されてしまったように人の気配が全くしない。マンション中に騒音が響き渡っているのに、妙な静けさを感じている。まるで得体の知れない何かが全ての住人と入れ替わったかのような——
[ドーン!ドーン!][ドーン!ドーン!]
[ドーン!ドーン!][ドーン!ドーン!]
早くこのマンションから逃げなければ。
私は部屋に戻りすぐさま着替えた。携帯や財布など必要最低限のものを鞄に詰める。不動産への連絡だったり、引っ越しの手配など悠長に準備している暇はない。今すぐここから逃げなければならない。
荷物をまとめてドアノブに手をかける。
[ドーン!ドーン!]
一度部屋を出た時、私はそのまま一目散にマンションから出るべきだった。身支度にまで気を配るべきではなかった。
[ドーン!ドーン!]
腹の底までズンと響く太鼓の音。それは今、ドア1枚隔てた目の前から聞こえる。