一日目・五 平穏なき晩餐会
今宵の晩餐会ほどイグニスの気を滅入らせるものはないだろう。
合唱隊のコーラスや詩の朗読が一通り終わり、ひそやかな囁き声と食器の触れ合う音だけが聞こえる会場の片隅で、イグニスは気まずい気分のままワインをちびりちびりと飲んでいた。港町ではよく飲まれている酒精の強いワインである。
周りは軍の高級将校や大金持ちの商人だらけで、場違い感が凄い。確かにイグニスはこのアーカリドゥス家の四男で、若い頃は出世の為に躍起になっていたが、大怪我で左腕を失ってからは情報部隊の調査員などという後ろ暗い職で細々と生きている。だから昔の知り合いに会うのは気まずいし、なにより片腕では上品に食事ができない。
故に、こういった集まりでは極力目立たぬよう片隅でおとなしくしているより他ないのだ。
「……料理はいらん。酒だけ持ってきてくれ」
給仕の勧めてきた肉料理の皿を断り、酒だけを頼んで明後日の方向に顔を背ける。
会食の席でも何故かマントを脱がないでいるせいか、時折感じる奇異の視線がなんとも居心地悪い。しかしマントを脱げば脱いだでどうせ哀れみの視線が集まるだけなのだ。
早く時間が過ぎてくれることだけを祈りながら、悪戯にゴブレットを揺らした。
晩餐会なんて出たくなかった。しかしながら体面というものがある。
死んだ兄に思い入れなどは一切ないが、一応は血族。一度くらいは晩餐会に出ておくべきだろうと思って参加したが、こんな思いをするならおとなしくクラヴィスと一緒に部屋で食事をするべきだった。自然と後悔混じりの溜息が漏れる。
ゴブレットを置いて、己の右手を眺める。思い出すのは先程出会った少年、レグルスのことだ。
会ったばかりだが、彼はすっかりイグニスに懐いたようだった。父親を失ってすぐだというのに、あまり悲しみに暮れた様子がないのは幸いである。
アダマスはレグルスが物心ついた頃には既に寝たきりのような状態であったらしく、亡くなったとしても寂しさはそれほどないのかもしれない。それとも悲しさや寂しさを周りに気取られぬよう、あえて気丈に振る舞っているのだろうか。
レグルスはイグニスの手を引いて、城のいろいろな場所を案内してくれた。お気に入りだという庭園の東屋。多くの馬たちがいる厩舎。古い書物の匂いに満ちた書庫。城下の街を一望できる窓――。
嬉々としていろいろな場所を紹介してくれるレグルスは可愛らしかった。
無邪気な子供と散歩を楽しむ事ができたせいか、張り詰めていた神経も程よく緩み、なんだか身も心も軽い気がする。
しかし。
(この家の疑惑が公になれば、あの子の立場も危うい、か……)
イグニスの任務は、このアーカリドゥス家にかけられている疑惑の真相を突き止め、諸悪の根源を引きずり出して罪を明らかにすることだ。そのせいで家が取り潰されたとしても、イグニスにとってはむしろ本望である。
例え家と共に己が破滅したとしても、イグニスはこの家を潰したかった。
そういう意味では、レグルスのような純粋無垢な子供の存在は予想外であった。アーカリドゥス家を罪人の家にしてしまえば、あの子もまた罪人の子になる。孤児として国の庇護下に入るなら良いが、罪の重さによっては一族まとめて処刑という可能性だってあるわけで――。
「お集まりの皆様! この場をお借りして、皆様にお伝えしたいことがあります」
イグニスの思考が、男の声によって中断される。
嫌々ながら振り返れば、アーカリドゥス家の家宰を務めるヴェリタスが再び壇上に上がっていた。
一体何を始めるつもりだろうか。
「我が兄、アダマスは逝きました……しかし、アーカリドゥス家は盤石です!」
朗々と響く声に、広間中の人間の注目が集まる。
「かねてより皆様にお伝えしておりました兄の子レグルスの爵位継承の儀が、兄の葬儀の後に執り行われることが決定しました。兄の功績を惜しみつつ、当家の新たなる日の出に皆様のご祝福を給われれば幸いに存じます……そして!」
いちいち大仰な身振り手振りを付けつつ、ヴェリタスが一層声を張り上げる。
「当家は王国のさらなる繁栄に寄与すべく、新たな婚姻を結ぶこととなりました!」
ヴェリタスはそう宣言すると、近くの席に座っていた人物に目配せをした。合図をされた人物はすっと立ち上がり、ヴェリタスの傍らへと歩み寄る。
若い女であった。葬式向けの装飾の少ない黒のドレスに黒のベールという出で立ちだが、その身につけている物全てが一級品だ。シャンデリアや燭台の明かりでもその白い肌は輝くように滑らかで、すっと伸びた背筋も、立ち居振る舞いもよく洗練されている。
美しい女ではあったが、イグニスはその女を見た瞬間露骨に眉を顰めた。
「ご紹介します。アイテール財閥の新総裁、ステラ・アイテール殿です!」
ヴェリタスが女を紹介した瞬間、おお、という感嘆の声が広間中に溢れた。女が優雅にカーテシーをすると、今度はあちこちから拍手が沸き起こる。
アイテール財閥といえば、戦争時代から王国に大きく貢献してきた大商会を中心に成長してきた、豪商中の豪商である。軍にも深く関わっており、多くの武器や兵器、軍需物資を納入していたはずだ。最近、総裁が亡くなり新しい人事へと交代したが、それが前総裁の娘ということで少なからず話題を呼んでいた。
そして……疑惑のアーカリドゥス家との深い関わりが示唆され、イグニスらとは別方向での捜査対象となっている存在でもあった。アーカリドゥス家と反王国勢力とのパイプとなっているいくつかの商会が、この財閥の傘下にあるのである。
そんな女が何故かこの場にいて、しかも新たな婚姻話の中心にいる。
「只今ご紹介に預かりました、ステラ・アイテールでございます。この度、アイテール家は栄えあるアーカリドゥス家と婚姻を結ばせていただく運びとなりました。今後は新しいご当主を頂くアーカリドゥス家を支え、より一層王国の繁栄に尽力させていただく所存にございます」
財閥の新総裁、ステラは張りのある凛とした声音でそう宣言した。年は若いようだがその姿は堂々としたもので、ただのお飾りというわけではないのかもしれない。
しかし、とイグニスは思う。
ステラ総裁は確か二十四歳だったと記憶している。対してヴェリタスは四十二歳。貴族や豪商ならばこれくらいの年齢差での結婚は珍しいことではないのかもしれないが、それでもヴェリタスが――今まで結婚もせず、何を考えているかわからない、だが他人を陰から操ることにだけはやたらと長けた男がこんな目立つ女を嫁にするなど、らしくない気が――。
「ステラ殿、ご挨拶ありがとうございます。皆様お聞きください。ステラ殿には私の弟、イグニス・アーカリドゥスが婿入りを致します」
その瞬間、ワインを噴き出さなかったことは褒められてもいいと思う。
無理やり飲み込んだワインが気管に入りかけて噎せた。ステージから顔を背けてげほげほと咳き込み、なんとか呼吸を整える。
今、あの男は何と言った? 婿入り? この俺が?
「イグニス。いるのだろうイグニス。お前もこちらへ来て皆様に挨拶をしなさい」
ヴェリタスは何とも言えないにやにやとした笑みを浮かべ、イグニスを呼んだ。
勿論イグニスはこんな婚姻話など聞いた覚えもない。そもそもこの城に帰ってきてこの兄と会うのだって、今が初めてだ。
「……」
呼吸を整えたら今度は怒りが込み上げてきた。イグニスはわざとだん、と音を立ててゴブレットを置く。
「これは何の茶番だ、ヴェリタス」
イグニスが低く唸る。壇上のヴェリタスをきっと睨みつけると、周囲の者たちが息を呑む気配がした。
「何を言う、我が弟よ。お前の為に良き縁談を用意してやったのだぞ。ステラ殿は機知に溢れた素晴らしいご婦人だ。この縁談はアーカリドゥス家とアイテール家の為、ひいては王国の為にだな」
「俺はそんな話など知らん! 誰が貴様の思い通りになどなるか!」
テーブルを叩いて勢い良く立ち上がる。晩餐会の会場は瞬く間に緊張に包まれ、人々は壇上のヴェリタスと片隅で吼えるイグニスを交互に見つめていた。
その間ステラはというと、イグニスの顔を見た瞬間表情が強張ったものの、ぱちぱちと瞬きをしてすっかり元の微笑に戻っていた。胆力はなかなかにあるらしいが、それでもさすがに顔の左半分に醜い火傷痕が残るイグニスの姿は彼女の眼にも異様に映ったことだろう。
そしてヴェリタスは怒りに震える弟を前にしながら、特に気分を害した様子もなくくつくつと笑っていた。
「いいか、俺は絶対にそんな女と結婚などしないからな! 疫病神の貴様がいる限り、この家は狂ったままだ! こんな茶番で家が繁栄などするものか!」
何がおかしいのか、笑い続けているヴェリタスに向かって指を突き付ける。しかしイグニスがどんなに怒りをぶつけようと、ヴェリタスはまるで動じない。
「何を言うかと思えば……まったく仕様のない子供だな、イグニスは」
「誰のせいだ!!」
さらに強くテーブルを叩く。いくつかの料理の皿や杯がひっくり返り、客がびくりと身を強張らせた。
「くそ……もう知らん! 俺は帰らせてもらう!」
このままここにいても埒が明かない。イグニスはぎりりと歯ぎしりをして、そのままマントを翻し会場を出ていこうとした。止めるものなど誰もいない。肩を怒らせかつかつと靴を鳴らし、両開きの扉を乱暴に押し開ける。
その様子を、ステラはただじっと見つめていた。その両手の拳が小さく震えていることに本人も気付かぬまま、ただただじっと。
「ふふふ……皆様、大変失礼いたしました。愚弟にはあとでよく言って聞かせておきます故、今宵はどうぞごゆるりとお楽しみくださいませ……」
ヴェリタスがそう宣言して首を垂れると、ようやく給仕たちが動き出してひっくり返った皿や倒れた杯を片付け始めたのだった。