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一日目・三 約束

 礼拝堂での伯爵の遺骸の検分は終わったが、まだ日は高く、日没後に行われる賓客を招いての会食までは少々時間がある。元々城内を散策しながら他の場所も見ておくつもりだったが、礼拝堂を出たところで予定外の事態が一つ。


「……どうしましょう、あの子まだ着いてきてますよ」

「ああ……」


 回廊を歩きながらイグニスとレグルスが振り返ると、やや離れた後方で小さな影が柱の後ろにさっと隠れた。礼拝堂からずっと、レグルスが着いてきているのである。

 連れていくつもりはなかったのだが、彼は予想以上にイグニスらに興味を持っているらしかった。様子を見ているとレグルスは柱の陰からこそりと顔を覗かせ、何か期待するような目でこちらを見つめてくる。まるで恥ずかしがり屋の小動物のようである。


「……若君、そのようにこそこそなさる必要はありません。我々に着いてきたければ、どうぞこちらへ」


 ついにイグニスは立ち止まり、柱の陰のレグルスに声を掛けた。

 一瞬びっくりしたように陰へ隠れたレグルスだったが、すぐにまた顔を覗かせる。


「いいの? 叔父上たちは、忙しいんでしょ?」

「俺たちはただ城内を散策しているだけです。夕方の晩餐会までは暇ですよ」


 イグニスがそう言うと、レグルスは着いて行きたそうに柱の陰から半身分前に出て、それから思い出したように背後を振り返った。


「セレニタ、叔父上たちに着いてってもいい?」


 ギョッとしたのはイグニスとクラヴィスである。レグルスが隠れていた柱のさらに向こう側、廊下の奥に先程礼拝堂で一緒にいたあのメイドがひっそりと佇んでいたことに、二人は気が付かなかったのだ。

 現役の軍人であり、中でも特に後ろ暗い職務に就いている者として他人の気配には人一倍敏感である自信のあった二人だが、このメイドの気配の消し方は尋常ではない。

 メイドのセレニタは両手を前で揃えた姿勢のまま、音もなくこちらへ近付いてくる。


「レグルス様が城外へ出られることを、家宰様は禁じられておられます。ですが城内にいる限りは、家宰様もお許しになるかと」


 セレニタは感情の籠らない声で、淡々と説明した。

 年は二十歳前後だろうか。髪をきっちりと頭巾にひっつめ、お仕着せのエプロンドレスを着込んだ、上位階級のメイドに相応しい清楚で上品な娘である。


「城内に出ることが禁じられている?」

「レグルス様は大事な爵位継承者であらせられます。我々使用人は全て、レグルス様の御身第一に働くよう言いつけられておりますので」

「……ちなみにその、家宰というのは?」

「はい、当家は現在アダマス様の弟君のヴェリタス様が家宰として取り仕切っておいでです」


 セレニタが淡々とそう告げると、イグニスは露骨に顔を顰めた。

 家宰とは貴族などの家で、当主の代わりとして使用人を取り仕切ったり、政を行なったりする役職の事である。レグルスの幼さからすると、きっと彼の後見人も兼ねているのだろう。


「随分過保護なんだな。俺がこの子くらいの年の頃には、馬に乗って郊外まで野兎を撃ちに行っていたが」


 それを聞いていたレグルスはぱちくりと目を瞬かせていた。


「叔父上は、子供の時から外に出ていたんですか」

「貴族の子といえど、一度も家の外に出たことがないということはありますまい」

「そっか……でも僕、身体が弱いみたいだから、外に出ちゃだめなんだって」


 レグルスは視線を足元に落とし、残念そうに呟いた。

 確かにアダマスの妻子はこれまで何人も早世しており、血筋として虚弱体質が生まれやすいのかもしれない。そういうことならば、家宰のヴェリタスが伯爵の嫡男であるレグルスを外に出そうとしないのも頷けること、なのかもしれない。


「それなら……これからレグルス様に城の中を案内してもらうのはどうでしょう? 我々はまだこの城に来たばかりで、どこに何があるのかまだよくわかりませんから」


 クラヴィスが気を利かせて提案すると、レグルスはわかりやすくぱっと顔を輝かせた。


「うん、いいよ! 僕お城の中のことはとっても詳しいんです!」


 どうやら案内してくれる気満々のようだ。大人たちの役に立てるとわかって張り切る表情が、なんとも可愛らしい。

 レグルスの傍に立つセレニタもまた、特に異論はないようだ。


「それでは、レグルス様のことはお任せいたします。どうかくれぐれもお怪我などされませぬよう、よろしくお願い申し上げます」

「ああ。晩餐会には参加する予定だから、それまでには若君をお返ししよう」

「かしこまりました。それでは夕刻、先程の礼拝堂の前までお迎えに上がります」

「わかった」


 お目付役からの許可も降りた。

 レグルスは嬉しそうにイグニスの元へと駆け出す。走ると、長く伸ばして一本の三つ編みに結った後ろ髪が大きく揺れて、まさに子犬の尻尾のようである。


「叔父上! ありがとうございます!」


 己の足にぎゅっと抱きつく甥の無邪気な様子に、いつもは厳めしいイグニスの表情も俄かに綻ぶ。右手でそっと頭を撫でてやると、子供特有の細い絹糸のような髪の感触がさらさらと心地よかった。


「ただ散歩するだけですよ」

「ううん、外の人と会うことなんて滅多にないから、僕とっても嬉しいんです。

 あ、そうだ。叔父上もそんな畏まった喋り方しないでください。僕のことも若君じゃなくて、レグルスって呼んでほしいです」

「よろしいのですか?」

「はい! だって、僕たち家族でしょ?」


 家族――。

 今まで幾度となく恨み、因縁を呪ってきた言葉。レグルスはまだ、その闇に囚われていないのだ。その事実にイグニスの胸はちくりと痛んだ。


「……わかった。ならレグルスも俺に対しては丁寧な言葉遣いは使わなくていい。お互い様だ」

「わかった!」

「じゃあ、行こうか。レグルス」

「うん! ……あれ?」


 早速連れ立って歩き出そうとしたところで、レグルスが立ち止まる。

 彼は自然とイグニスの左側に立って、手を繋ごうとしたようだったが、そこにあるべき腕がないことに気が付いたらしい。マントで隠れていたせいで、今までわからなかったのだろう。


「叔父上、こっちの腕は……?」


 レグルスがイグニスを見上げて、恐る恐る尋ねる。


「事故で、な。もう何年も前のことだ」


 思うところはいろいろあるが、それは幼いレグルスに聞かせるべきことではない。

 イグニスは事もなさげに答える。


「もしかして、お顔の傷も?」

「ああ」

「痛い?」

「今はもう痛くない。だから気にしないでくれ」


 気遣わしげなレグルスの左手を、自分の右手でそっと繋いだ。

 確かに腕を失ったのは数年前で、傷は塞がっているが完全に痛みがないと言えば嘘になる。天気が悪い時や気温が下がった時には古傷がじくじくと痛むし、腕以外にも全身に及ぶ火傷の痕は時折思い出したように引き攣れる。

 でも、どうしようもないことだ。どうしようもないことを延々と嘆き続けるほどイグニスは暇ではない。


「片腕が無くとも、やりようはいくらでもある。不便だが、俺は無力ではないぞ」


 そう言ってやると、レグルスはそっか、と小さく頷いた。

 その数歩後ろでクラヴィスがほっとした顔をしている。


「叔父上は凄いね」


 レグルスが微笑みながらイグニスの手をきゅっと握り返す。

 その瞬間、革の手袋越しにじんわりとした熱が伝わってきた。まるで火の傍で温まった石を握り込んだかのような温かさ。明らかにそれは子供の体温を遥かに上回る熱に思えた。


「?」


 一瞬何事かと思ったが、気付くと何も感じなくなっていた。軍装である革の手袋はしなやかだがそれなりに厚みがあり、その手袋越しでは子供の手の温度などそれほど感じられるものではない。

 今、イグニスの右手の内に感じられるものは、細く柔らかで頼りない子供の手の感触だけ。


「……内緒だよ。良いことがありますようにのおまじない」


 レグルスは叔父を見上げながら、悪戯っぽく微笑んだ。

 その日以来、古傷の苦痛が少しだけ和らいだのだが、そのことにイグニスが気付くのはもう少し先になる。



   ◇ ◇ ◇



 今日、僕の知らない叔父上がやってきた。


 イグニス叔父上は僕が生まれる何年も前にお城を離れたって言ってたけど、今までそんな人がいるなんて誰も教えてくれなかった。

 父上やヴェリタス叔父上よりもずっと若くて、叔父上っていうよりも、なんだかお兄様って感じがした。死んでしまった僕の兄様姉様たちが生きてたら、あんな感じだったのかな。

 初めて会ったイグニス叔父上はちょっとお顔が怖かったけど、背が高くて、兵隊さんの服も似合ってて、かっこいい人だなって思った。

 それと、叔父上は僕とお話しする時、ちゃんと目を見てお話ししてくれるの。しゃがんでくれた時に、お顔が真っ直ぐ見えてちょっとびっくりしたけど、でもなんだか嬉しかった。だってこのお城の人たちは、誰も僕と目を合わせてお話ししてくれないもの。

 イグニス叔父上はきっと、優しくて良い人なんだなって思った。


 ねぇ、セレニタ。

 叔父上が本当に優しくて良い人だったら、いつかそのうち、秘密を教えてあげてもいいかなぁ?


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