一日目・二 軍人と甥
王国北部最大の港町アルバトラムに聳える城館、銀竜城。終戦の後に英雄グロリウスが時の国王より拝領して以来の、アーカリドゥス一族の居城である。
かつてグロリウスと共に数百の勇士たちが入城し、帝国への反抗作戦の橋頭堡となったこの城館だが、今はかつての賑やかさは欠片もない。現在でもかなりの数の使用人が日々城館の内外で働いているはずなのだが、内部は異様に静まりかえり、何もかもが息を潜めてじっとしているかのようだった。
「いっそ不気味なくらいですね」
クラヴィスはその静けさに思わずごちた。
ひと気のない白大理石の回廊に、二人分の靴音が響いている。歩いているのは二人の軍人。黒い軍服の上に羽織ったマントが歩調に合わせて揺れていた。
宛がわれた客室を出たイグニスとクラヴィスは、その足で城内の礼拝堂へと向かっていた。そこにアダマスの棺が安置されているからである。
イグニスらの目的は伯爵家を調査して反乱分子との繋がりを見つけることではあるが、今日はアルバトラムに到着したばかりでできることも限られる。夜には晩餐会にも出席しなければならないし、だからといっていきなり重要人物に当たりに行くわけにもいかない。
今のところは散策できる範囲で久方ぶりの場内を見て回り、ついでに死んだ当主の祭壇でも拝んでおくかという具合である。
「当主が死んだから、というのもあるだろうが……いよいよ城全体がおかしくなったかという感想しかないな」
何とも意味ありげに呟くイグニスに、クラヴィスは小さく頷いた。
◇ ◇ ◇
城の片隅にある小さな礼拝堂の中は、絶えぬ供花と香の噎せ返るような匂いに包まれていた。
礼拝堂の前には衛士が立っていたが、中は無人である。大半の弔問客はもうすでに故人との別れを済ませた後なのだろう。伯爵家の廟堂に棺を納める最後の儀式は数日後に迫っているので、それまでこの礼拝堂に直接訪問する者はほとんどいないようだった。
祭壇には真新しい棺が安置されている。アルバトラム伯アダマス・アーカリドゥスの棺である。この国では、貴人の死去に際しては数週間の殯の期間が置かれ、その後正式に埋葬ないし霊廟への棺を収める儀式を行うというのがしきたりであった。
イグニスはその祭壇に近づき、無造作に棺に手をかける。幸い、まだ棺の蓋に釘は打たれていないようだった。
棺の蓋を開け、十数年ぶりに長兄と対面する。濃い薬品の臭いと香の匂い、供えられた花の香りと、僅かな死臭が鼻をついた。
死後数週間が経過しているという事だったが、よほど丁寧な防腐処置が施されているのだろう。アダマスの遺体は僅かに黒ずんで見える程度で、ほとんど腐敗はしていないようだった。
彼は五年ほど前から病に倒れ起き上がることもままならない容体であったらしく、亡骸は枯れ枝のように痩せ細り、ほとんどミイラのような状態だった。頭髪は抜け落ち、目は落ち窪み、骨と皮だけとなっていた顔は、それがアダマスであると認識できるまで、血族であるイグニスですら暫しの時間を要したほどに変わり果てていた。
アダマス・アーカリドゥス、享年五十。
久しぶりの対面であったが、イグニスは遺骸の状態を確認しておきたかったというだけで、棺の中の遺骸に対してなんの感情も湧かなかった。
「アダマス卿の死因は病死と聞いていましたけど、毒殺とかじゃないですよね」
「さてな。見ただけではどうせわからんし、毒殺の罪の一つや二つ今更増えたところで国家反逆罪のおまけにしかならんだろう」
ひと通り遺骸の検分を終えてから棺の蓋を元に戻す。
「……兄上とは仲が悪かったんでしたっけ」
少し気遣うような声音でクラヴィスが尋ねてきた。それなりに長い付き合いの二人である。クラヴィスはイグニスが家族の話題に触れられることを極端に嫌っていると知っているが、今は調査中なので仕方がない。
「生まれた瞬間に父親から見捨てられた息子と、既に父親から全てを託されていた嫡男だ。仲が良い悪いという問題ですらない」
イグニスは吐き捨てるようにそう言った。
彼がグロリウスの四男として生を受けた時、アダマスは既に二十二歳。当時はもう戦争が終わり、グロリウスも伯爵としての地位を嫡男に譲り渡そうとしていた時期であった。
グロリウス自身もこれ以上子供を儲けるつもりはなかったらしく、たまたま後妻との間に生まれてしまった四人目が男児であると聞いた瞬間に、その子供への興味の全てを失ったようだった。女児であれば、まだ有力貴族との婚姻に使えたと思っていたのだろう。
故にアダマスも、利用価値のない年の離れた末の弟を気に掛けたことなど皆無に等しい。直接顔を合わせて会話したことも、数えるほどしかない。
イグニスを生んだ後妻も、実子であり既に聡明に成長していた三男ヴェリタスを盛り立てたり、前妻が産んだ子であるアダマスやサフィルスの爵位継承を邪魔することに忙しく、夫から見放された赤ん坊になど見向きもしなかった。
そんな母親はいつの頃からか次第に気を病んでいき、イグニスが物心つく頃には狂死した。詳しいことは誰も知らないが、表向きはそうなっている。
イグニスの世話は城の従者たちが行なっていたが、将来性のない四男にわざわざ媚びを売ろうという者もなく、衣食住に困ることはなかったもののひどく孤独な少年時代を送ることになってしまったわけだ。
与えられないのであれば、勝ち取るしかない。
イグニス少年は自らの力を世に証明し、誰からも認められる人間になろうと家を離れ、努力した。彼の素養は素晴らしく、研鑽と修養に明け暮れた彼は将来出世間違いなしと言われていた。
なのに――。
考えを巡らせ、無意識のうちに己の左肩を掴んでいたイグニスは、ふと背後の物音に気が付いた。
振り返ると、礼拝堂の入り口に小柄な人影がひっそりと立っている。よくよく見れば若いメイドと、そのスカートの後ろに隠れるように立つ小さな子供が扉を開けて礼拝堂に入ってきたところであった。
「……どなた、ですか?」
メイドがか細い声でこちらを誰何する。
彼女の背後から顔を覗かせる子供は、どこか不安そうにメイドと不審な男たちとの間で視線を彷徨わせていた。腕には祭壇に供えるのだろう花束を抱えており、着ている衣服も上等そうだ。
何よりその子供の髪は、絹糸の如き銀髪であった。銀髪は英雄グロリウスを筆頭に、アーカリドゥス家の血族によく表れる特徴である。
イグニスはクラウィスに軽く目配せをし、クラヴィスもまたそれに目礼で応える。
「弔問客だ。王国陸軍所属イグニス・アーカリドゥス。怪しい者ではない」
「同じくクラヴィス・ジュラです」
イグニスは一歩前に進み出て、名を告げた。クラヴィスもそれに倣い、軽く会釈をする。
「僕とおんなじ家名……?」
子供はいまいちよくわかっていない様子で、不思議な色合いの瞳をぱちくりと瞬かせる。歳は六歳か七歳か、それくらいだろう。小首を傾げると、長く伸ばした髪がさらりと揺れた。人形のように整った顔立ちと、裾が広がったケープ付きのスモックのような長衣から覗く細い手足。
イグニスらは最初、その子供が女の子だと思った。
アダマスの係累は息子だけだと聞いていたが、庶子の娘でもいたのだろうか。それとももう一人の兄ヴェリタスにも子がいたのだろうか。
「イグニス様とクラヴィス様ですね。お初にお目にかかります」
あまり表情を変えぬまま、メイドはスカートの裾を摘まんで軽く膝を折る。
「こちらはアダマス様のご嫡男、レグルス・アーカリドゥス様。わたくしはレグルス様にお仕えしておりますメイドのセレニタでございます」
「嫡男……!?」
メイドの紹介に、イグニスとヴェリタスが目を見開いた。少女のように見えた子供は、男児だったようだ。
「ご、ご嫡男でしたか……俺はグロリウス・アーカリドゥスの四男。アダマス……お父上の一番下の弟です。つまり俺は、貴方から見れば叔父ということになります」
丁寧に説明してやると、今度はレグルス少年が目を見開いた。
伯爵家の四男とはいえ、結局父や兄から何の称号や領地も相続していないイグニスと、間もなくアーカリドゥス家の全てを相続する少年とでは、イグニスのほうが格下ということになる。
「あ……ヴェリタス叔父上以外にも、叔父上がいたんですね。知らなかった」
「俺は貴方が生まれるよりもずっと前にこの家を離れておりますので、ご存知でなくとも不思議ではありません」
「そうなんだ……あ、えっと、アルバトラム伯アダマスが嫡男、レグルス・アーカリドゥスです。どうぞ、お見知りおきください」
ほんの少しだけほっとしたような様子で、レグルスが自己紹介をする。あまり慣れていないのか、たどたどしく幼子らしい自己紹介だ。
イグニスはゆっくりと歩み寄り、二人の前に静かに跪いた。同時にレグルスもメイドのスとカートの後ろから出てくる。
「……この度は、誠に残念でございました。御家族を亡くされた若君におかれましては、今はまさに深い悲しみのさなかと存じます。同じアーカリドゥスの名を継ぐ者として、この叔父も微力ながら若君にお力添え致す所存にございます」
そう言って、頭を垂れる。
礼拝堂は一瞬、静寂に包まれた。
「あの……顔を上げてください」
少し間を置いて、おずおずとレグルスがイグニスに歩み寄る。
「イグニス叔父上……父上にお別れを言いに来てくださったんですよね。最期に兄弟に挨拶できて、父上もきっと喜んでると思います。本当に、ありがとうございます」
顔を上げると、花束を胸に抱いたレグルスと目線が合った。
少年ははにかんだように僅かに微笑み、ゆっくりと感謝の言葉を述べる。
「あの、良かったらこのお花、一緒にお供えしませんか? 父上に、叔父上が来てくれたよって教えてあげたいんです」
純粋な――。
あまりにも純粋で優しい少年の言葉。さすがのイグニスも、勝手に棺を開けて遺骸を検分したことに少なからず罪悪感を覚えた。
「……ええ、喜んで」
多少の罰の悪さを感じながら、イグニスは差し出された花束にそっと右手を添えた。