一日目・一 帰郷
ラグダスラという国がある。
北の大陸と南の大陸を繋ぐ徨竜海の只中にあり、遥か昔から海路の要衝として栄えてきた島国だ。島といっても決して小さいものではなく、耕作に適した平地も、資源豊富な山地も、水源となる湖や河もある豊かな土地である。故に約六十年ほど前には北の大陸を統一していたグレモンテス帝国に征服され、忍従を余儀なくされていた時期もあった。
元々の王国の民は抑圧され、帝国の権力者たちによってありとあらゆるものが奪われた闇の時代である。だが民は立ち上がり、正当な王を擁して戦い続け、王国が再び独立を果たしたのが今から三十年前のこと。
そしてこの戦いにおいて特に勇名を馳せた英雄といえば、将軍グロリウス・アーカリドゥスをおいて他にあるまい。
何処ともしれぬ地より颯爽と現れたこの騎士は、北方大陸の辺境に囚われていたラグダスラの王子を救い出し故国へと帰還させ、離散していた民や貴族たちをまとめて王国奪還の軍を結成。兵を率いて戦えば常勝無敗、銀髪を靡かせ馬を駆る姿に民衆は沸き立ち、敵の兵士たちは皆恐れをなす。まさに古今無双の名声をほしいままにした勇士である。
その功績により、一介の騎士でしかなかった男は新王となったかつての王子により、伯爵の地位と将軍の権威を授かった。そして将軍となった男はさらに軍を増強させ、数年のうちに島から帝国軍の兵を駆逐。さらにはその勢いのままに北方大陸へ侵攻し、瞬く間に帝都を陥落させ、ついには皇帝の首を刎ね帝国を崩壊させるまでに至ったのである。
ラグダスラの大英雄として名声を確固としたグロリウスは終戦のわずか三年後、五十二歳で没した。その多大過ぎる功績から、グロリウスは国内はもとより、北方大陸で帝国人によって虐げられていた少数民族の国々からも今なお絶大な支持を誇っている。
◇ ◇ ◇
「まさか、その大英雄の息子に国家反逆の容疑がかけられることになるなんて、ですね」
王都から駅馬車を乗り継ぐこと一週間。アーカリドゥス伯爵家が治める交易都市アルバトラムに降り立った情報部隊員クラヴィスが、独り言のようにごちた。
「…………」
隣に立つイグニスは押し黙ったまま、じっと前を見つめている。
重いトランクを携えて市街地からさらに足を伸ばした二人が立っているのは、丘の上に建つ巨大で壮麗な城塞の門の前であった。
英雄グロリウスが爵位と共に与えられた港町アルバトラム。ラグダスラ北部で古くから栄えていた交易港であるこの地は、かつては北方大陸からの侵略を防ぐ城塞として、またグロリウスによる北方侵攻の際にはその橋頭堡となる軍港としても機能していた。そしてこの地に築かれた巨大な城は、英雄の居城でもあった。
丘の上から海までの間に幾重にも張り巡らされた城壁と、古い砦。その壁に護られるように建物がひしめく市街地。長大な堤防に囲われた港。それらを見下ろすように建つアルバトラム城――通称、銀竜城と呼ばれる城館。
この銀竜城こそがイグニスの生家であった。
この辺りでよく採れる白大理石で築かれた城の外観は美しくも堅牢で、門の周囲は余人を近寄らせぬ厳粛な雰囲気に包まれていた。それは潮風に靡く半旗のせいだったのかも知れない。門の前に立つイグニスとクラヴィスはいつもの黒の軍装のままだが、胸には小さく黒いリボンの喪章を付けている。
イグニスは何も言わぬまま、荷物を置いてポケットから一通の手紙を取り出し、門衛にそれを見せた。黒い縁取りがされた格式高い手紙を見て、門衛がぴしりと敬礼する。同時に別の衛士が門に手を掛けた。大型の馬車が二台並んで進入してもまだ余裕がありそうな巨大な門が、ゴゴゴと音を立ててちょうど人が通れるくらいにまで開かれる。
「ようこそおいでくださいました。どうぞお入りください」
開かれた門の両側に立つ二人の衛士に再度敬礼で出迎えられ、イグニスとクラヴィスは悠々と門を潜った。
「……実家なのに、紹介状がないと入れないんですか?」
「俺が家を出たのは十五年以上前だ。俺の顔を覚えている奴なんてほとんどいまい。俺だって今の衛士なんか知らん」
門からの長い長いアプローチを進み、城館の入り口にようやく辿りつく。
エントランスでは数人の従者を連れた執事が待ち受けており、そこでも手紙を見せ、二人は従者たちに荷物を運んでもらいながら城の奥へと案内された。クラヴィスは廊下を歩きながらイグニスの様子を見たが、彼は何も言わず小さく首を振るのみだった。
やがて二人は客間と思しき部屋に通された。質の良い調度品が取り揃えられた部屋は、貴族の邸宅というよりも上質なホテルを思わせる。
「ちなみに、ここがイグニスの部屋だったというわけではないんですよね?」
「そんなわけあるか。ここは来客用の棟だ」
「この建物ごと来客用なんですか……」
平民階級出身のクラヴィスは、慣れぬ貴族の威光に小さく嘆息した。
巨大な城塞にさらに壮麗な城館を増築した銀竜城は、かつてグロリウスと戦った兵士たちを収容する大きな兵舎をそのまま来客用の迎賓棟に改装しているようだった。きっと多くの貴族や豪商たちを呼んで、会談したり夜会を開いたりすることもあるのだろう。
「もう自分の部屋がどこにあったかも思い出せんしな。これでちょうどいい」
そう言って、イグニスは帽子を脱ぎ、綺麗に整えられたベッドの上に無造作に放り投げた。
◇ ◇ ◇
ラグダスラの王国復権戦争の終結から三十年目。
国内情勢は安定しつつあるものの、故にその安定を揺るがすことで力を誇示しようとする者、武威によって自分たちの主義主張を通そうなどという輩が跋扈しつつあるというのが、この国の現状であった。
例えば旧帝国の復権を目指す残党勢力。現在の王室を排し自ら権力を握ろうとする野心家。自らの利権の為に道理を踏み外す者。大小様々な勢力が、水面下で蠢き始めている。
王国の首脳部もこの問題を重く見、既にあらゆる手段を用いて捜査に乗り出しているが勢力が多すぎて、まるで鼬ごっこであった。
しかし陸軍の情報部がつぶさに精査した結果、そのような勢力に資金や物資を供給しているルートが判明した。何者かが意図的に反王国勢力に援助をし、王国の秩序を乱さんとしているということである。
そしてそのルートの大元というのがこの、アーカリドゥス伯爵家である疑惑が浮上してきたのだった。
かつての戦争で多大な貢献を果たした英雄の家柄ということでその衝撃は大きく、当然ながら対策会議は紛糾した。
さらに軍の上層部が伯爵家への捜査の決定を下す直前、現当主アダマス・アーカリドゥスが死去したとの知らせが王都へもたらされる。当然ながら、この報せは人々を大いに戸惑わせた。
再度慎重な討論を重ねた結果、差し当たって亡くなった当主の弟であるイグニスが葬儀に参列するという形で事前調査に乗り込むことになったのである。
英雄と呼ばれた男、グロリウスには四人の息子がいた。
長男アダマス。次男サフィルス。三男ヴェリタス。そして四男イグニスである。
グロリウスの一人目の夫人は早くに亡くなり、二人目の夫人はグロリウスの死の数年後に亡くなっている。さらに次男のサフィルスもまた早世している。
グロリウスが没した後は長男のアダマスが跡目を継ぎ、アーカリドゥス伯爵家の当主となっていた。そのアダマスには三人の妻がいたが、このどれもが若くして儚くなっている。子供もほとんどが死産か幼いうちに亡くなっており、現在生存が確認されているのは、末の息子ただ一人。
三男のヴェリタスと四男のイグニスは妻帯しておらず、子供もいない。
そして、今回のアダマスの死である。
つまり現在、アーカリドゥス伯爵家に連なる血筋で生存している者は、イグニスとその兄ヴェリタス、そして甥にあたるアダマスの息子の三人のみとなっていた。
そのうちアダマスの息子はまだ幼年と言われており、イグニス自身は既に十数年に渡って家との繋がりが途切れている。
全ての疑惑は今、ただ一人の男に集約しようとしていた。