二日目・六 明かされるもの
同時刻。アルバトラム市街地、アイテール商会。
「クロよクロ! 真っ黒だったわ!」
ドンと音を立て、ステラは資料が山と積まれた執務机を乱暴に殴りつけた。傍にいるゼフィールがびくりと首を竦める。
アイテール財閥の若き総裁ステラは、アーカリドゥス家に関わるここ半年分の取引について把握しておきたいからと関連資料を引き出させていた。
ヴェリタス・アーカリドゥスがその異能によって様々な人間に影響を与え、王国の転覆を狙っていると判明した以上、ステラはできるかぎり財閥傘下の者たちの目を覚まさせ、方針の転換をしなければならない。
とはいえ、本音を言えばステラだって自分の一族が築いた財閥が王国転覆計画に加担しているなんてことは考えたくもないのだ。イグニスや王国軍が勘ぐっているだけで、実際にこうしてきちんと取引の履歴を確認したら、案外何も出てこないのでは――と、内心僅かに楽観してもいた。
しかしそんな淡い期待は、あっという間に砕かれたのだった。
「何よこの取引! なんでこんな、港の倉庫がパンパンになるまで食料やら武器やら買い込んでるのよ! 戦争の準備でもしようっての!? 市場の物価が釣り上がっちゃうでしょ!」
出るわ出るわ、ありえない取引の数々が。
「ギャーッ!! がっつり認可されてない国に武器卸してる……! なんでこんな取引が罷り通ってるの!? 馬鹿なの脳みそ腐ってんじゃないの!?」
「す、ステラ、声、声大きい…!」
事務所に到着した時の淑女ぶりをかなぐり捨てて怒りをあらわにするステラに、ゼフィールが慌てて声を抑えるよう窘めた。はっとしたステラが口許を押さえて口を噤むが、少々タイミングが遅かったようだ。
「……総裁、何かございましたでしょうか?」
こんこんと扉を叩く音と共に、隣室に控える秘書がこちらに声をかけてくる。
「あぁ~ごめんなさい何でもないです! ちょっと次の歌劇の内容でちょっと議論が白熱しちゃっただけです! 気にしないでください!」
「左様でございますか……では引き続き私どもはこちらに控えておりますので、何なりとお申し付けください」
ゼフィールが必死に弁明すると、隣室の秘書はこちらをやや気にしつつも扉から離れたようだった。ステラも一緒になって、胸を撫でおろす。
「い、一旦落ち着こう。きみが見てクロだと思った取引はどれ?」
「落ち着くも何も、ほとんど怪しいのしかないわ。洗脳さえしてれば隠蔽する必要もないと思ってたのかしら……」
一応は声を潜めつつも、ステラは険しい顔で資料の束をゼフィールに押し付ける。それを見たゼフィールが同じく険しい顔になるのに、そう時間はかからなかった。
「うわぁ……」
異能による財閥への浸蝕は、深刻であった。
◇ ◇ ◇
立ち話もなんですから、と書院長シアーノは一行を聖堂の奥へと案内してくれた。
「自分とシアーノは幼馴染でして。事あるごとにイグニス様の話をしていたのですが、ようやく実際にお会いする機会がやってきましたな」
「ええ、そうなのですよ」
カイロスとシアーノの嬉しそうな様子がなんとも不可解だ。しかし立ち去ることもできないので、今は彼らに従うより他ない。
豪華な礼拝堂と違い、僧侶たちの住まいや事務的な作業の場はごく質素な造りとなっている。装飾は最小限だが隅々まで清潔に掃除された明るい廊下を進み、聖堂の格式を落とさない程度に上質な調度品が配された応接室へと通される。
イグニスとクラヴィス、そしてカイロスを柔らかな布張りのソファに座らせ、シアーノは手の空いている僧侶に茶の用意をするよう言いつけた。
「あの、我々のことはどうぞお構いなく……」
「いえいえ、このような再会はなかなか叶うものではありません。どうぞ私どもの歓待を受けていってください」
クラヴィスは遠慮したが、にこにこ笑顔のシアーノは意外なほどの押しの強さを見せる。そんなシアーノの横に座るカイロスも何故だか温かい目でこちらを見ているものだから、余計いたたまれない。
窓から陽光がさんさんと降り注ぐ心地よい応接室にいながら、イグニスはこれ以上ない居心地の悪さに苛まれていた。
◇ ◇ ◇
茶が運ばれてきて、給仕をしてくれた僧侶が一礼をして退室してから、シアーノはゆっくりと語り始めた。
「……ええ、今から二十八年前のことです。お城で銀竜卿の奥方様がめでたく男のお子様をお産みになられたということで、私どもの聖堂に出生登録の人員を派遣するようにとのお声がかかりました」
銀竜卿とは、英雄と呼ばれた初代アーカリドゥス伯爵グロリウスに捧げられた称号である。グロリウスがこの呼び名で呼ばれていたので、その居城であるアルバトラム城が銀竜城と呼ばれている。
「私は当時、まだ一介の僧侶でしたが、運よく上役の者の付き人として選ばれ、お城へ上がることができたのです。私どもがお城に到着した時、その御子は奥方様から乳をもらい、既に乳母の腕に抱かれておられました。それがイグニス様でした」
シアーノは心から懐かしそうに語っている。
しかしその時、生まれた四人目の子供がまた男児であったと聞いただけで父グロリウスは赤ん坊から一切の興味を失い、産んだ母親にしても産婆と侍女たちに言われて最初の乳を与えはしたものの、それ以降はほとんど顧みはしなかったのだと、イグニスは知っていた。
「我々の役目は生まれたお子様の確認と出生登録です。奥方様の出産に立ち会った侍女数人に確認を取り、実際に奥方様がお産みになった御子であるという証明を得て、さぁお名前を記録しようとした時です。なんと銀竜卿と奥方様から、お子様の名前は聖堂で決めてほしいと頼まれたのです」
すでに説明した通り、名と記録を重んじる神を信仰するこの国において、戸籍の登録は神の加護を得るためにも、そして生きる上で受けるべき権利を享受するためにも必ず行わなければならない必須事項である。
従って、人の名前を決めるという行為は重大な責任を伴うものであり、親が子に名付けをしないということはすなわち、その子供を放棄したも同然なのだ。
無論、大事な子供の名付け親を親族の年長者や地域の名士、その他尊敬する人物に依頼することもある。
しかしイグニスの名付けに関しては、両親がその信心から聖堂に依頼したというわけではなく、父母どちらもが名付けを放棄したために乳母が仕方なく聖堂の僧侶たちに依頼したというだけなのだ。
「我々も迷いました。英雄と呼ばれたグロリウス卿の御子ですから、その名付けとなれば慎重に考えなければなりません。ただの付き人に過ぎなかった私にも案を出すよう指示がありました。そこで私は、その御子が将来世の中を強く明るく照らす光となるようにと願いを込め、炎という名前はどうかと提案させていただきました。結果その案に他の方々も賛同してくださったので、『イグニス』があなた様のお名前となったというわけでございます」
イグニスはその話に、ただ黙って耳を傾けていた。
隣ではクラヴィスもどこか気まずげにイグニスの様子を伺っている。
今更、そんな話が聞きたかったわけではない。今更、自分の名前にどんな意味があったかなど知りたかったわけではない。
だって、今のイグニスにはもう、人々を照らす光になる力など無いのだから。
イグニスは俯いたまま、右の拳を強く握りしめる。革の手袋がぎちりと鳴る様子を、クラヴィスは少し心配そうに見ていた。
「英雄と名高きグロリウス卿の御子に名前を付けさせていただいたという経験は、私のその後の人生にとって大きな励みとなりました。より人々のために信仰を広めようと各地の聖堂を巡って修養を積み、ついには十年ほど前、故郷であるこのアルバトラム大聖堂の書院長に選ばれました。
あなたという御子に出会っていなかったら、今の私はありません。常々感謝を申し上げなければと思っておりましたが、この二十八年間なかなかお会いする機会に恵まれず……ついに今日、思いがけずお会いすることが叶いまして、強引にはなってしまいましたがこうしてご挨拶をさせていただいた次第です」
シアーノはそう言って、慈愛の籠った瞳でイグニスを見つめる。
「イグニス様、あなた様と出会えたことを、私は神の思し召しと感じております。あなた様と出会えて本当によかった。心より感謝いたします」
「…………」
イグニスの胸中は複雑である。自分の名付け親として大いに満足している目の前の僧侶にかけるべき言葉など、イグニスは持ち合わせてはいない。
こちらこそ名前を付けてくれてありがとう? ――いや、そんな言葉は嘘だ。名前程度で人生がどうにかなるというものでもない。感謝の気持ちなんてない。
すまないが、俺ではあなたが名前に込めた期待には応えられない? ――最初から期待されていると思わないものには応えられるはずがないじゃないか。
俺が味方を必要としていた時にいなかったくせに、いきなり名付け親ぶるな? ――こんなのは子供の我が儘だ。言えるわけがない。
「……シアーノ書院長」
胸中に浮かぶ台詞の数々をぐっと抑え、イグニスはなるべく平静を装う。この応接室に来て初めてシアーノの顔を真正面から見た。
黒髪の、平凡で穏やかそうな中年男性である。横のカイロスとは対照的な雰囲気だ。しかし大聖堂の長という責任ある立場にいる以上、ただ穏やかで信心深い人物というわけではないのだろう。
「貴殿のお気持ちは理解した。だが我々は現在、兄アダマスの葬儀に向けて働いている最中だ。今日は家の系図の確認に来ただけであまり時間もないし、一介の軍人でしかない俺では聖堂に寄進する金もない。俺から何か言えることがあるとしたら、今後もアーカリドゥス家をよろしく頼むということだけだ」
あえて冷たく言い放ち、様子を見る。
カイロスは少し面食らったような表情だが、シアーノはさほど表情も変えず、ゆっくりと頷くのみだった。
「左様でしたか。こちらこそ余計なお手間をおかけしてしまいましたね。系図の確認ということでしたらこちらにお持ちしますが、構いませんか?」
「そうしてもらえると助かる」
では、と怒ることもなく一礼し、シアーノは立ち上がって粛々と応接室を出ていった。
イグニスはシアーノから顔を背けるように窓の外に目を向け、クラヴィスは小さく息を吐いて目を閉じる。
イグニスという男にとって、出生や出自に関わる話題は非常にデリケートな問題だ。
英雄と称え崇められた父から見放された誕生。恵まれてはいたが、ただただ孤独だった少年期。その血統や育ちのせいで周囲から妬まれ、僻まれるたびに力で捻じ伏せてきた青年期。そして、誰からも侮られぬ地位にまで登り詰めてやるという野心さえ折られ、ただ復讐にのみ生きる現在――全てがイグニスの逆鱗だ。
そこへ下手に触れてイグニスの怒りを買い、ぶちのめされてきた人間を、クラヴィスは幾人も知っている。
それを知らぬカイロスだけが、一人釈然としていないような顔でイグニスを見つめていた。




