一日目・十 不意の訪問
夜の銀竜城は心地よい静寂に包まれている。
中でも城主の一族が住まう奥まった一角は、使用人の気配すら感じられないほど静まり返っていながら、全てが完璧に整えられていた。
塵一つない部屋。足音もたたぬ厚みの絨毯。銘木をふんだんに使ったテーブルやキャビネット。一流の職人が手掛けたシャンデリア。大理石製の大きなマントルピース。
そして、四方の壁を飾る様々な名画たち。
この部屋の主は芸術、特に絵画を鑑賞するのが趣味だった。忙しく働いた後はこの部屋でお気に入りの絵を眺めながら、ゆっくりと酒を飲むのが何よりも楽しみなのだという。
そして今宵は、この部屋に新たな絵画が設置された日だった。
「ふむ、素晴らしい」
部屋の主、いや、今や銀竜城の実質的な主である男、ヴェリタス・アーカリドゥスは、座り心地の良い安楽椅子に深く身を委ね、壁の一面を占有する巨大な絵画に見入っていた。
正確にはそれは絵画ではなく、地図である。今から百年ほど前に異国で作られた世界地図で、かつてはどこかの王宮に飾られていたものだという。当時の最高の測量技術によって表された大陸や島々に、山や森、砂漠などそれぞれの地方の特性を細かく装飾的に描き入れ、神話の神々や御使い、幻獣や魔獣を象徴的に配した美しくも雄大な地図は、間違いなく至宝と呼んでいい芸術作品であった。
さらにこの地図の為に作られただろう額も素晴らしく、伝説の英雄たちの数奇で壮大な旅の様子が、地図を取り囲むように連綿と彫刻されており、これだけでも十分価値のある作品となっていた。
この偉大な作品を手に入れるために、元々この壁にあった十点近いコレクションを引き換えにしたが、確かにそれに見合うだけの絵であったといえよう。
ヴェリタスはこの取引にとても満足していた。
「どうだね、この作品は。見事なものだろう」
地図から目を離さぬまま、問いかける。
「はい、とても見事な作品にございます」
それまで部屋の調度品のように気配を消して立ち尽くしていた執事らしき男が、急に声を発した。
ヴェリタスがすっと片手を挙げる。それを合図に執事が動き出し、自らの横に置いてあった給仕用のワゴンを押してヴェリタスの傍へと進み出る。美しいカットの施されたグラスに、完璧に透明な氷を入れ、香りの素晴らしい高級な蒸留酒を注ぎ入れてナイトテーブルの上にそっと置いた。
「先程、若君がイグニス様と接触なされたとの報せがありました」
グラスを取る主人に向けて、執事は何気なく伝えた。
そうか、とだけ応え、ヴェリタスは甘く強い酒を舐めるように飲み始めた。
その口許は僅かに笑っていた。
ヴェリタス・アーカリドゥスの退屈な人生の中で、あの年の離れた弟が面白い存在に変わったのは、一体いつからだっただろうか。
生まれた直後に両親から見捨てられた弟は、この兄から見ても凡庸な人間としか思えなかった。ただの路傍の石に足を取られるのも癪であったゆえ、早めに亡き者としてしまおうと事故に見せかけ殺そうとしたこともある。ヴェリタスの力と権威があれば、造作もないことであった。
だが、意外なことに凡庸な弟は生き残ったのである。
片腕を失い、軍人として栄達する道は閉ざされたものの、それで挫けることなくこの兄への復讐の機会を探り続ける様はなんとも涙ぐましく、愚かしいがその執念深さはヴェリタスの興味を引くに十分値するものであった。
兄アダマスのように無感動で無感情なつまらない男ではなく、素直に怒り、純粋に殺意を向けてくる弟は、いつしかヴェリタスの人生に彩りを添える娯楽の一部になっていた。
今回用意してやったステラ・アイテールとの縁談も、勿論遊びの一つだ。今日の晩餐会でのあの怒りようといったら、まさに傑作であった。
そんな弟と、兄の子が接触して何かをしようとしている。また何か面白いことが起きる予感しかしない。
「しばらく好きなようにさせなさい。ただ若君の爵位継承も近い、引き続き城外には出さないよう気を付けたまえ」
「はい、仰せのままに」
執事が恭しく頭を下げる。
ヴェリタスはグラスをテーブルの上に戻し、ゆっくりと立ち上がった。悠々と暖炉に近付き、備え付けてある火掻き棒を手に取る。
そしてそのまま執事のもとへと近付いた主人は、無防備なしもべの頭へと鉄の棒を雑に叩きつけた。何の脈絡もない行動である。
部屋に鈍い音が響き、執事の体が大きくよろめいた。高価な絨毯に血の雫が垂れる。
頭から血を流しながら、それでも執事は笑っていた。
恐怖も、痛みも、理不尽な暴力への怒りや戸惑いもない。ただただ虚無の笑顔が張り付いている。
「……ふむ、こいつもそろそろ限界か」
手の上で火掻き棒を弄びながら、ヴェリタスはつまらなさそうに言い捨てる。
「お前は今月で辞めてもらう。今のうちから準備をしておくように」
「はい、仰せのままに……ひ、ひひひ……」
笑いながら、執事はぎくしゃくとした動きで主人の部屋を出ていった。
◇ ◇ ◇
「どうしてアダマスが危険視しながらもヴェリタスの異能を黙っていたのかはわからん。だがその危険性がわかっていたのはこの家の人間だけだった。奴に殺されかけた俺は、復讐の機会を、奴の異能を告発できる機会を待っていた……俺は、何があろうとこの調査で奴を破滅させる」
強い決意を込めて、隻腕の男は静かに宣言した。
四人の人間が詰めている部屋は今、重い静寂を湛えている。
イグニスとステラが互いにじっと睨み合い、クラヴィスとゼフィールはその様子をじっと見つめながら、ステラの決断を待っていた。
イグニスたちに協力するにせよ、このままアーカリドゥス家に迎合するにせよ、ステラ達は分の悪い賭けをせざるを得ない状況にある。イグニスの話したことが全て真実なら、この国の軍の半分は今やヴェリタスの味方で、もう半分は目下反王国勢力の鎮圧に追われていてヴェリタスどころではないということだ。
しかしヴェリタスにつけば国家を脅かす大罪の片棒を担ぐことになり、例えヴェリタスの目論見通りの展開になったとしても、ステラ達は魅了の異能によって何も考えない奴隷にされてしまう未来しかない。さらにその異能については現状、解除の手立てもないのだ。
社会に大きな影響を持つアイテール財閥の長として沈思黙考するステラを、男たちは三者三様に見守った。
と、その時だ。
「……ん?」
静まり返ったどこかで小さな物音がした。
気付いたイグニスが部屋の中を見渡すが、誰も動いたわけではない。しかしどこかで確かにことことと何かが動くような音がしたのだ。
部屋に鼠でもいるのだろうか。いや、鼠の立てる音にしては大きい。
クラヴィスが椅子から腰を浮かせ、ゼフィールがテーブルの下を覗き込む。
「え? 何か、下が」
ゼフィールの硬い声に、イグニスとクラヴィスは椅子を引いて立ち上がった。同時にステラも驚いたように足を引っ込める。ゼフィールの言う通り、四人の間に置かれていたテーブルの下の床が、もこもこと蠢いていたのだ。
ひゃ、と小さく悲鳴を上げたステラをゼフィールが庇い、椅子から立ち上がらせて遠ざける。その間軍人二人は身構え、各々の得物に手を伸ばした。
どうやらこの部屋の絨毯はテーブルの下だけ四角く切れ目が入れられているようで、何者かが下から床板ごと持ち上げようとしているらしい。
「……んしょ……っ」
微かに聞こえてきた声に、イグニスがまた「ん?」と首を傾げた。
「……やっ!」
ぱこん、と軽い音を立てて床板が開く。
そしてそこにいたのは。
「「レグルス!?」様!?」
イグニスとクラヴィスが同時に声を上げる。
床下の落とし戸を開けたのは、昼間出会ったあのレグルスであった。
わんぱくにも髪や衣服に蜘蛛の巣やら煤やらをつけたまま、次世代の伯爵家を担う事となる少年は、叔父の存在に気付いてぱっと顔を輝かせた。
「あ、叔父上! よかったぁ、道間違えないで来れた!」
「お前は一体どこから……まぁいい、こっちに来なさい」
そう言って無邪気に笑うレグルスだったが、ずっとこのままにしておくこともできない。イグニスはクラヴィスと共に幼い甥を床の上へと引っ張り上げ、服についた埃を落としてやったり、顔についた煤を拭いてやったりした。レグルスはどこか嬉しそうに、されるがままにしている。
確かに夕方、散歩から帰ってきて別れ際にレグルスから部屋に遊びに行っていいか聞かれたのだ。城にいる時は彼の話し相手になるのもいいかと思い、軽い気持ちで了承したのだが、まさかその日の夜にこんな形で会いに来るとは。病弱で城の外に出られないと聞いたはずだが、彼は思った以上にやんちゃ坊主だったらしい。
「え、えーと、その子は……」
「なんで床下から……」
面食らったままのステラが、部屋の隅でゼフィールと共に目をぱちくりさせている。どうやら彼女もまだレグルスと会った事がなかったようだ。
この際ちょうどいいので、ステラ達にレグルスを紹介することにした。
「落ち着いて聞いてほしい。この子はレグルス・アーカリドゥス。アダマス卿の嫡男だ」
そう言ってやると、既に丸くなっていたステラ達の目がさらに大きく見開かれる。
「じ、次期当主様……!?」
驚くなというほうが無理だろう。どこの世界に床下から出てくる伯爵家の嫡男がいるというのだ。何故なのかはイグニスだって聞きたいのだ。
「はい、レグルス・アーカリドゥスです。どうぞ、お見知りおきください!」
と、レグルスは子供らしくはきはきと元気よく自己紹介をして、にっこり笑う。子犬のような愛らしいその笑顔に、ステラとゼフィールは互いに顔を見合わせ、それから少しほっとしたように表情を緩めた。
「レグルス様。ご丁寧なご挨拶、誠に痛み入ります。こちらの自己紹介が遅れて申し訳ありません。私はアイテール財閥の総裁を任されております、ステラ・アイテールと申しますわ。こちらこそどうぞよろしくお願いいたします。それと、この者は財閥が抱えるウェンティ楽団のゼフィールと申します」
「あ、はい、ウェンティ楽団で主席楽師を務めておりますゼフィール・カダスです」
二人はレグルスの傍に寄り、少し背を屈めて目線を合わせながら自己紹介をする。その丁寧な挨拶に、レグルスも二人を好意的に感じたようだった。
その時だ。不意に誰かが部屋の扉を叩いた。
「……こんな時間に申し訳ございません。セレニタでございます」
部屋を訪れたのは、レグルス付きのメイドのセレニタだった。ノックが聞こえると同時にイグニスの背後へと隠されたレグルスが、またひょこりと顔を出す。
クラヴィスが扉を開けに行くと、廊下にはランプを携えたセレニタが少し困り顔で立っていた。
「あぁ、申し訳ございませんクラヴィス様。不躾を承知でお尋ねさせていただくのですが、もしかしてこちらにレグルス様が来られてはいませんでしょうか……」
やはりセレニタはレグルスを捜しに来たようだ。クラヴィスは苦笑して扉を大きく開き、部屋の中をよく見せた。イグニスの背後から顔を出しているレグルスを見て、セレニタは一瞬驚いたように目を見開き、そしてすぐに唇を尖らせ怒り顔になる。
夜中の脱走がばれたレグルスは、もじもじとばつが悪そうに目を逸らした。




