プロローグ とある男のビフォア・アフター
ほぼ初投稿です。よろしくお願いいたします。
ラグダスラ王国、王都郊外。スラム化した通りは、日没と共に物々しい緊張感に包まれていた。普段ならば浮浪者や物乞いがたむろし、闇市も猥雑な活気に包まれていただろう。
だが今は、捨て子どころか猫の子一匹すら見当たらない。
「王国の狗め! 悪鬼どもめ! 地獄へ堕ちろ!!」
拘束を振りほどき、絶叫する浮浪者じみた男の身体がめきめきと音を立てて変化していく。爪や牙が鋭く伸び、全身に硬い毛が生え、筋肉が分厚い鎧の如く発達する。二本足で立ち上がる狼のようになった男の周囲は異常なほどの冷気に覆われ、つららのような氷の刃が二つ、三つと浮遊していた。
旧帝国の獣化兵だ、と男を包囲していた兵士たちが声を上げる。盾を構えた兵士がさっと前に出て包囲を詰めようとしたが、人狼と化した男は兵士たちの陣を軽々と飛び越えてしまった。
男の目がぎらぎらと獰猛な光を放っている。その視線の先にいたのは、漆黒の軍装に身を包んだ集団。急の事態であるというのに、その集団に慌てた様子は微塵もなかった。
男が雄叫びを上げながら爪の伸びた腕を掲げ、振り下ろすと、浮遊していた氷刃が弾丸のように撃ち出された。
勿論、狙いはその集団である。
その時――ざ、と黒い影が飛び出してきた。
白刃が閃き、ガギギン! と魔力と魔力がぶつかる時特有の甲高い怪音が響き渡る。
氷弾は全て砕かれ、叩き落とされていた。
「!!」
人狼の足が止まる。
その目前に立ちはだかっていたのは、黒衣の偉丈夫。目にも止まらぬ三連閃によって氷弾を全て叩き落とした姿勢のまま、黒革の軍帽越しに鋭く人狼を睨みつけている一人の軍人がそこにいた。右手には妖しく揺らめく炎を宿した騎兵刀。そして左の袖は空のまま、マントと一緒に翻っている。その軍人は、片腕であった。
髪の色も、瞳の色も冷たい鋼色。力強さと威厳を漂わせる魁偉な容貌の左半分は醜い火傷の痕に覆われ、その眼光には異様なまでの威圧感が宿っていた。
その眼光に気圧されたかの如く、人狼の動きが鈍る。
先に動いたのは、片腕の軍人のほうだった。
騎兵刀に宿った炎が一段と大きく燃え上がった刹那、全身のばねを使って一気に踏み込む。その一撃を、いったい何人の兵士が捉えられただろうか。
どん、と衝撃音がしたときには既に、人狼は縦半分に両断されていた。
一部始終を見ていた兵士たちが息を呑む気配が伝わってくる。
断末魔の声を上げる暇すらなく、血と臓腑を散らして倒れ伏した人狼の身体が紫色の妖炎に包まれた。その身はみるみるうちに萎んで、元の貧相な男の姿へと返っていく。
「処分完了だ」
片腕の軍人が、騎兵刀に付いた血を払いながら背後を振り返る。
黒服の集団は無言のまま撤収を開始した。
……あれが情報部の殺し屋。
……片腕の猟犬。
兵士たちに向けて飛ぶ死体の処分などの指示に混じって、どこからともなくそんな囁きが聞こえてきた。
片腕の軍人――イグニス・アーカリドゥス少尉は、何の感情も籠らない仮面めいた表情のまま隊へと戻っていった。
◇ ◇ ◇
騎兵や歩兵、砲兵などの前線で華々しい活躍をする兵科と比べ、内憂外患のあれこれを嗅ぎ回り、狩りたてる情報部はどこか後ろ暗く、少々肩身も狭い。
王都、官庁街。陸軍省内にひっそりと存在する情報部隊の詰所。そこへ帰投した黒衣の隊員たちは、口数も少なく各々仕事を片付けるために散っていった。
「お疲れ様です」
隊を率いていたイグニスもまた今日の報告書を作成すべく自分のデスクへと戻ろうとして、背後からかけられた声に振り返る。そこに立っていたのは、枯草色の髪の、理知的な顔に銀縁の眼鏡をかけた一人の隊員であった。
「クラヴィスか」
黒革の帽子を脱ぎながら、イグニスは僅かに緊張を緩めた。クラヴィスは付き合いの長い隊員で、イグニスにとっては相棒のような存在だ。
「首尾はどうでしたか」
「ああ、問題ない。これで旧帝国派の犯罪組織がまた一つ消えた」
それは何より、とクラヴィスが頷く。
「とはいえ休んでる暇はないようです。既に次の指令が来ていまして」
眉間に皺を寄せながら、クラヴィスは漆黒の封蝋で閉じられた一通の指令書を取り出した。隊員のほとんどいない詰所の中は至って静かなものだったが、それでも彼は他者の耳目を憚るかのように一度周囲を見回し、ごく小さな声でこう囁いた。
「昨今増加している、我が国の転覆を狙う反王国勢力の活発化……その原因を突き止めよとの指令です。そして今回の捜査対象は……イグニス、あなたの実家です」
押し殺すような声音で伝えられたその一言に、隻腕の男は表情を変えぬまま、ただ少しの間だけ瞼を閉じて、それからしっかりと頷いてみせる。
「……ようやく、この時が来たか」
低く静かな一言に、滾る溶岩のような怒りを滲ませて。
再び開かれた目には、仄暗い炎が燃えている。
「ようやく、この手で奴を潰せる」
イグニス・アーカリドゥス。二十八歳。
かつて王国の窮地を救った英雄の系譜でありながら左腕ごと栄達の道を奪われた男は、待ちに待った復讐の刻に静かに魂を燃やしていた。
◇ ◇ ◇
それが、どうしたことだろう。
「…………」
クラヴィスは眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げながら、目の前の光景をじっと見つめている。
「いもむしさんは言いました。妖精さん妖精さん、このお花の名前はなんですか?」
鈴の音のような子供の声が鼓膜に心地よい。
柔らかな日差しが差し込む穏やかな午後。復讐に燃えていたはずの軍人イグニスはクラヴィスの目の前で座り心地のよいソファに腰を下ろし、膝に小さな子供を乗せ、すっかり寛いでいた。
美しい子供である。人形のように整った顔立ちの中で、オパールのような不思議な色合いを持つ瞳は絵本に向けられ、きらきらと輝いている。陶器のように白く繊細な指先が頁をめくり、華奢な脚は大柄な軍人の膝の上でゆらゆらと揺れている。柔らかな絹糸の如き銀髪を長く伸ばして三つ編みにし、ふんわりとしたスモックのような長衣を纏うその子供は、一見すると可憐な少女にしか見えないが、実のところ男の子である。
「叔父上、叔父上、続き読んで!」
美しい少年はぱっと顔を上げ、厳めしい傷面の男を振り返った。
「……俺が続きを読むのか?」
絵本の読み聞かせをねだられたイグニスが、戸惑ったように目を瞬かせる。
「そうだよ、僕はいもむしさんのところを読むから、叔父上は妖精さんのところを読んで!」
「そ、そうか、俺は妖精さんか……」
イグニスは気恥ずかしそうに視線を彷徨わせたが、クラヴィスは目を逸らした。救援はないと悟り、あー、となんとなく声を漏らす。
「その……よ、妖精さんは言いました……そのお花はスミレですよ、と……」
柄にもなく優しい声で絵本の台詞を読み聞かせるイグニスに、いつもの復讐鬼の面影はない。そんなイグニスの胸にすっかり身体を預け、少年は嬉しそうににこにこと微笑んでいる。
その光景をただじっと眺めつつ、クラヴィスは再び眼鏡を押し上げた。
(完全に予想外だったけれど……まぁ、いいか)
強面の同僚が和んでいる様子を見るのも悪い気はしない。
アーカリドゥス家の疑惑を突き止めるために乗り込んだその居城には、思わぬ伏兵がいた。イグニスの復讐心を鈍らせたのは、老獪な策士でもなければ勇猛な戦士でもなく、ただの可愛らしい子供だった。
疑惑は未だ完全には解明されていないが、幼子に罪はないだろう。彼の後見人たちの罪が明らかにされれば、天涯孤独となってしまうかもしれない子なのだ。そういう意味では、一人でも心通わせられる親族がいたほうが心強いだろう。
心の内でそう結論付け、王国の忠実なる情報部隊員は優雅に茶を啜った。
◇ ◇ ◇
かつて、人と暮らした最後の竜は死んだ。
神や妖精たちはいずこかへ去り、世界中に溢れていた魔獣はゆっくりと衰退している。
魔法は神秘を薄め、ただの技術となり。
戦いは剣と弓から、銃と砲へと変わりつつあり。
ただただ、移ろう人の世のみがここにある、そんな世界の一角。
これは、孤高だったひとりの男と、孤独だったひとりの少年の物語。
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