領主の代替わり(前)
騎士時代のアルベス。父親の死から領主となるまでの話。
——速く。もっと速く。
馬を駆けさせる俺は、ただ無心で手綱を握っていた。
太陽はゆっくり沈みつつあり、辺りは暗くなっていく。
こんな時に馬を走らせるのは危険だ。足元がよく見えない。
だが俺は、普段なら緩める手綱を引き絞ったままだった。愛馬は俺の理不尽な指示にも忠実に従ってくれた。フィルが気を利かせて用意してくれたもう一頭の馬と共に、ラグーレンへと走らせる。
今日、親父が死んだそうだ。
王国軍の騎士としての任務のために、俺は親父の最期に立ち会えなかった。
それは覚悟していたことだ。
騎士となることを決めた時から、俺は家族と死に別れる覚悟を決めていた。
ただそれは、俺が死ぬことだけを想定していた。親父やルシアを失うかもしれないとは、正直考えることができなかった。
だが、全く覚悟していなかったわけではない。
俺の母は、ルシアを産んだ翌年に死んだ。
じいさんはラグーレン家の没落が決まった年に死んだし、ばあさんもそれから間もない頃に死んだ。
だから、俺は家族を失う日が来ることは現実にあると思っていた。親父の顔色が悪くなり、痩せてきたと気付いてからは胸の奥底に重いものが消えなかった。
それでも……今日とは、思っていなかった。
馬の息が上がる。
手綱を緩め、短い休憩を取り、もう一頭の馬に乗る。
大切な馬が潰れたとしても、俺は必ずラグーレン領のあの家に戻らなければならない。
少しでも早く。
親父のそばにいるはずの、妹のために。
俺に気が付いたのか、領民たちが松明を持ってぽつぽつと道のそばに立ってくれた。暗さを完全に払うには程遠かったが、馬たちの目には十分だし、俺の愛馬はこの道にも慣れている。
やがて、丘の上の古い家が見え始めた。
無理をして走らせているから体が軋んできたが、俺は気力を振り絞る。馬たちも俺の気持ちに応えるように走ってくれた。
家の前で、馬を止めて飛び降りる。
葬儀の準備のために集まっていたのだろう。家の前にいた領民たちが俺が乗ってきた馬たちの手綱を預かってくれた。
「アルベス様、お水でございます」
ユラナが水を差し出してくれたから、俺は少し強張った手で受け取って一気に飲んだ。
なぜ俺が戻ってきたかを、ユラナは聞かなかった。
ユラナは、夫ロブが王都まで知らせに行ったことに気付いていたのだろう。
「……ルシアは?」
声は掠れていたが、なんとか聞く。
ユラナは唇をかみしめてから姿勢を正した。
「旦那様のお部屋でございます」
「ありがとう」
俺は顔を軽く拭いてから、家の中に入った。
家の中は明るかった。来客のために家具類を動かしていた領民たちが、俺を見て息を呑んで首を垂れていく。
それに手を挙げて応え、俺は親父の部屋に急いだ。
本来の親父の部屋は、二階にある。
だが体が弱ってきたせいか、親父は一階の部屋で寝るようになった。「執務室に近くて便利だから」と言い訳をして。
あの頃から、親父は階段を上り下りするのが辛くなっていたのだろう。
親父の部屋の前で、俺は深呼吸をした。
死者との対面は初めてではない。
それでも俺は、心を落ち着けなければいけなかった。この扉を開けることを、怖いとも思った。
だが……俺はそれをねじ伏せる。
「ルシア」
扉を開け、中に入りながら声をかける。
室内は予想より暗く、灯りは一つだけだった。
寝台の作りの豪華さとは不釣り合いな質素な寝具が見え、そこに親父が横たわっていた。顔は白くて表情に欠け、俺が室内に入っても目を開けることはない。
——ああ、俺は親父も失ったのか。
その事実が実感とともに静かに心に落ちてきた。それが悲しみに繋がる前に、寝台の横に座っていたルシアが立ち上がった。
「アルベス兄様……」
親父と同じ黒髪の妹が俺を見つめ、困ったような顔をした。
「お兄様にはまだ知らせないでと、言っておいたのに……」
妹の硬くて頼りない声を聞きながら、大股で寝台のそばへ行く。
親父はやはり目を開けることはない。額にかかっていた髪を丁寧に整えたが、指先に触れた白い顔はひやりと冷たかった。
……生者の体温ではない。
俺は一瞬だけ目を閉じたが、すぐに剣を掲げる最高礼を捧げる。
それから妹に向き直り、膝を床について妹と目を合わせた。
「ルシア、遅くなってすまなかったな」
「……お父様は、お兄様は忙しいだろうから、自分に何かあってもすぐに知らせなくていいって言ってたの」
「ロブからそう聞いた」
「私も、お兄様の邪魔はしたくなかったの」
「気を遣わせて悪かった。もう大丈夫だ。あとは俺がやる」
そう言うとルシアは目を伏せ、やがて細い肩が震え始めた。
「昨日までは、まだ元気だったの。でも私の前だから平気な顔をしている気がして、本当はとても苦しいんじゃないかと心配で……」
「よく頑張ったな。お前を一人にして悪かった」
「……私、何もしてあげられなかった」
ルシアの目から、ぽろぽろと涙がこぼれる。いつも元気な妹が、体を震わせ、声を押し殺して泣いている。
——俺は、ルシアを抱きしめて頭を撫でてやることしかできなかった。




