夢のつづき
本編終了後の、幸せいっぱいな二人の日常。
(書籍版1巻の後、コミカライズ2巻の後、に相当します)
——夢を見ていた。
特別に楽しい夢ではない。寒さの厳しい北部砦の日常だ。
夢を見ながら、そういえばこういうことがあったと苦笑してしまうような、過去をそのままなぞっていく夢だった。
過去と違うとすれば、当時は認めようとしなかった想いをはっきりと自覚していることだろう。
真面目な親友の領地で、借金や自然の気まぐれに振り回されながらも堅実に立て直されつつあるラグーレンは、あらゆる重責から解放される唯一の場所でもあった。
素朴だが安全な食事と、神経をすり減らさない穏やかな日々。そんな憩いの場所が、いつから心が揺れ動く場所になったのか。
親友の妹と顔を合わせることが楽しみになり、話をするたびに心が温かくなったのはいつからだっただろう。
食べ慣れた味を好ましく思っているだけだと言い訳をして、それでも気が付くと目を離せなくなっていた。
母の最期を思い出せ。
純粋で明るい少女を、汚泥のような権力に巻き込んではいけない。
そう何度も己に言い聞かせてきた。
この想いは、一生口にするつもりはなかった。
親友の妹のために、結婚祝いの品も用意するつもりだった。……何度も用意しようとしたのに、どうしても進められなかった。
だがそんな苦悩も、もう過去のことになった。
ラグーレンは、いつかは諦めなければいけない場所ではなくなった。胸の苦しみは豆料理のせいだと、不自然な言い訳をしなくてもいい。
黒髪の令嬢は、全てを知っても笑いかけてくれる。
生まれつき背負っているものを捨てられない自分に、手を差し伸べてくれた。
なんて幸せなのだろう。夢のようだ。
過去を再現する北部砦の夢は、いつも賑やかだ。いつしか男たちの騒々しい笑い声が広がって——ふと意識が浮上した。
◇
廊下を歩く聞き慣れた足音が聞こえる。
ぎしり、と床板が軋む音がしたから、もうすぐ扉が開くだろう。
急激な意識の浮上の中でフィルが考えていると、静かに扉が開いた。
「フィルさん、起きてる?」
柔らかくて控えめな声が聞こえた。
続けて、そろりそろりと近付いてくる気配がある。目を開けなくても、忍び歩いてくる令嬢の背で長い黒髪がどんな揺れ方をしているかは想像できた。
令嬢が足を止めたのは、フィルのすぐそばだ。
覗き込んでくる気配がある。
——今、どんな顔をしているだろう。
また床で寝ていると眉をひそめているだろうか。起こしていいものかと迷っているだろうか。
それとも……。
「フィルさん?」
柔らかな声に抗えきれなくなって、フィルはゆっくりと目を開けた。
明るい緑色の目が見えた。立ったまま覗き込んでいるから、肩から黒髪が滑り落ちている。その髪を耳にかけている左手には、金色の輝きがあった。
堅苦しくて重い指輪だ。
それを気負う様子もなく指にはめ、微笑んでいる。
フィルが目を開けることを予想していたのだろう。楽しそうに笑ってくれた。
「おはよう、フィルさん。そろそろ夕食よ!」
「……ルシアちゃん」
すでに目はしっかり覚めているし、誰が来たのかもわかっていた。なのに、これはまだ夢の続きなのだろうかと錯覚してしまいそうになった。
ここはラグーレンで、穏やかで静かな日常がある。
愛しい人は笑いかけてくれて、手を伸ばせば届くところにいる。まるで……夢の続きのようだ。
いつになく混乱してしまったのか、ついぼんやりしていたようだ。ルシアは驚いたように目を大きく見開いた。
「ねえ、フィルさん。もしかしてまだ寝ぼけているの?」
「……違うよ。幸せに浸っていたんだ」
ゆっくりと身を起こし、座った状態で伸びをする。するとルシアが笑いを堪えながら手を伸ばしてきた。
「寝癖がひどいわね」
優しい手が、丁寧に髪を撫でつけようとする。でも寝癖は手強いのか、すぐに両手でぐいぐいと整え始めた。
「これ、全然直らないわ。髪は結んだ方がいいんじゃないかしら」
「このままでいいよ。どうせ君とアルベスと、あとは騎士どもしかいないから」
ラグーレンにいる限り、身なりに気を遣う必要はない。
愛する人の前で身綺麗でいたいと思うには、だらしない姿を知られすぎている。
望まれれば、どれだけでも身なりを整えよう。装飾品で飾った姿が見たいと言われれば、貴族の少女たちが愛蔵する人形のように着飾ることも苦ではない。
でもルシアという令嬢は、そんな見かけ上の華やかさは望まない。
出してくれる料理をたくさん食べる方が喜ぶ。身を飾る暇があるなら、馬たちの世話をして、窓の修理をして、畑仕事を手伝うべきだ。
それに、のんびりとくつろいでいる姿を見せると、ほっとした顔をしてくれる。
だから、ルシアの前ではもう偽らない。
ありのままの姿を見せて、楽しければ楽しいと言う。気が進まないこと、やりたくないことはこっそりと白状する。呆れ顔で叱られることだって、気を許してもらっていると思うと楽しいのだ。
寝癖を撫でつけようとする手の遠慮のなさも含めて、幸せだった。
「うーん、やっぱり髪は結んだ方がいいみたいね。こんなに跳ねていると、見ている私が落ち着かないわよ。えっと、ここにフィルさん用の髪紐があったはずだけど……」
ルシアは壁際の物書き机の引き出しを開けて探し始めた。
その後ろ姿を見ていたフィルは、身軽に立ち上がった。
「ねえ、ルシアちゃん」
「なに? あ、紐があったわよ。何色がいいかしら。赤い紐と青い紐と、あとは黄色の紐も……」
「好きだよ」
「…………えっ?」
色鮮やかな紐を手にしたまま、ルシアはびっくりしたように振り返った。その顔は目がまん丸になっていて、とても可愛らしい。
フィルはルシアの前で恭しく片膝をついた。
「僕はルシアちゃんが好きだ」
「え、あの……」
「君を愛している。——口に出して言える今が、とても幸せだよ」
そう囁くと、ルシアの顔が真っ赤になった。
なんて可愛らしい姿だろう。それに、とても美しい。
腕の中に引き寄せて抱きしめたら、どんな顔をするだろう。頬に軽くキスをすると、きっと身を固くする。唇へのキスも……そろそろ解禁してもいいのではないか。
とりあえず手にキスをしようとした時、少し開いていた扉が一気に大きく開いた。
扉口に、険悪な顔をしたダークブロンドの男がいた。
片膝をついた姿でルシアの手を握っているフィルを睨みつけ、盛大に舌打ちをした。
「おい、フィル。メシだぞ。さっさと来い!」
「アルベス、これからがいいところなのに、君は無粋だな」
「何が無粋だ! ルシアの豆料理が全部あいつらに食い尽くされそうだから、わざわざ知らせに来てやったんだがな。今後はやめておこう」
「えっ、今日は豆だったのか!」
フィルは弾かれたように立ち上がった。
なおも未練がましく真っ赤になっているルシアを見たが、ぐっと唇を引き結んで首を振った。
「そうだな。今はまだ早すぎるかもしれない。それより、ルシアちゃんの豆料理の方が重要だ!」
そうキッパリと断言し、改めてルシアに笑いかけた。
「起こしに来てくれてありがとう。食堂までご一緒願えますか?」
「……ええ、もちろんよ」
ルシアはこほんと咳払いをして控えめに笑った。
その顔はまだほんのりと赤いし、目も合わせてくれない。でもフィルが差し出した腕に手を絡めてくれた。
アルベスはまたジロリと睨んだが、今度はため息をつくだけで何も言わずに先に部屋を出ていく。
そのあとを追おうとフィルが足を踏み出した時、くいと腕を引かれた。
「ん? どうしたの?」
「あの、あのね……」
ルシアは口ごもった。
なかなか言葉が続かないし、フィルに合わせて食堂へと向かう足取りは重い。どうしたのだろうとフィルが首を傾げた時、ルシアはふうっと息をついて顔を上げた。
「……私も、フィルさんが好きよ」
真っ直ぐにフィルを見上げ、それから少し恥じらいながら笑った。
今度はフィルの足が止まりそうになる。
しかし、笑顔のルシアは足を止めない。むしろスッキリしたように軽やかに歩くから、フィルも歩き続けるしかなかった。
騒々しい男たちの声が、はっきりと聞こえるようになっていた。
まるで騎士宿舎の食堂のようだ。実際、よく似た空気が満ちている。
だがここはラグーレン。王宮のように、ちょっと歩くと出くわす煩わしい貴族たちはいない。隣にいるのはほんのり頬を染めながら微笑む最愛の女性で、夕食は彼女が作った豆料理だという。
夢のようだ。
だが……これは夢ではない。
「おい、フィルオード閣下! この豆料理、あんたにどれだけ残しておけばいいんだ!?」
食堂の扉口から、無精髭だらけの大男が顔を出して怒鳴っている。
夢だったら、ラグーレンにこんなむさ苦しい男は出てこない。だからこの状況は現実で、隣にいるルシアは本物で、食堂の豆料理は危機に瀕している。
フィルはルシアに柔らかく微笑みかけ、しかし大男に対しては、ひやりとする顔を向けた。
「半分残っていなければ、君たちは全員前線送りだ!」
「はぁっ? 半分だと!? あんた、いつからそんな横暴な上官になったんだ!」
「ルシアちゃんの手料理に関しては、そういうものだと心得ておけ! さあ、ルシアちゃん、急ごうか!」
フィルは大股に歩き出す。
引っ張られたルシアはまた目をまん丸にしたが、すぐに笑って小走りに一緒に食堂に入ってくれた。
(番外編 夢のつづき 終)
最後まで読んでいただきありがとうございました。