北の地にて恋う
コミカライズ2巻発売記念番外編。本編開始の少し前の、北部砦でのフィルの日常です。
——豆料理が食べたい
そうつぶやいてしまったのは、飲み過ぎたせいだろう。
その日のフィルは、全てが面倒だった。
このなんとも言えない物憂い気分は、前日に酒を飲みすぎたせいではない。
多少は、徹夜の宴会に付き合わされたことが原因の一つであることは否定しない。しかし、それだけで投げやりな気分になるほど弱い精神力ではないのが、フィルという人物である。
王都の貴族婦人から「娘が恋文を書いたから」と、恋文より分厚くて香水臭い手紙が届けられたのが一昨日。
別の貴族から、特産物の名が不自然に羅列された避暑地への誘いの手紙が来たのが、昨日。
そして今日は、兄王ロスフィールから「三ヶ月後に王都に帰還するように」という命令書が届いた。
北部砦で気安い上官として慕われていても、王都に戻れば王弟フィルオードとなる。
二十六歳になったフィルオードは、誰よりも目を引く人物だ。
王族に多い銀髪。深く濃い青色の目。端正な顔立ちは、絶世の美女と名高い姉ハルヴァーリアとよく似ている。
優美な長身は鍛えられている。剣を持てばどんな猛者も退け、それでいて身のこなしは洗練されているから野蛮さとは無縁だ。
そんな華やかな王弟が、未だ婚約者すらおらずに独身のまま。若い女性たちはあわよくばと夢を抱き、野心を抱く貴族たちも黙って見逃すわけがない。
王都に戻れば、貴族たちは自分の娘を差し出そうと集まって来るだろう。兄ロスフィールも、いい加減に覚悟を決めろと見合い相手を並べてくるはずだ。
帰還命令が来たということは、そんな日々がまた近くなったことを意味する。それが面倒だった。
「……戻りたくないな」
ため息まじりにつぶやき、テーブルに刺していたナイフを抜いてクルクルと回した。
寒さの厳しいこの地に比べると、王都は温かくて過ごしやすい。食材は食べ慣れたものばかりだし、味付けも好ましい。
だが、それだけではない場所だから、気が重くなる。
王都に戻って気が休まるのは、兄や姉の家族たちと過ごす時間だけだ。あとは不用意に言質を取られないように、野心を持つ貴族を近付け過ぎないように、と神経を張り詰め続けることになる。
だから、つい親友の家に逃げてしまう。
王都から少ししか離れていないのに、王都の華やかさや騒々しさとは無縁な場所。それがラグーレンという地だ。
気候は穏やかで、領民たちはのんびりしている。豆の栽培が盛んな地だから、親友の家に滞在する間は豆料理を腹一杯に食べることもできる。
寒冷な気候のために、北部では豆の栽培が少ない。だから豆料理は塩味のシチューと共に王都に戻った時だけの楽しみだ。
王宮の料理人が作る豪華な料理は美味いが、それよりも友人の妹が作る料理が好ましく感じる。
伝統そのままの、簡素な味付けが好みと言うだけではない。
お代わりを皿に盛りつけくれる時の笑顔とか、酔い潰れた時に呆れ顔で毛布をかけてくれる優しさとか、手荒れを気にせず楽しそうに畑に出る姿とか……そういうものを思い出すと心が温かくなる。
なのにあの誇り高い令嬢は、遠くない日に嫁ぐことが決まっている。よりによって、彼女の魅力を微塵も理解していない愚かな男のところへ。
なぜあの男なのか。
なぜ彼女は子爵家の令嬢なのか。
……なぜ、自分は王の子として生まれてしまったのだろう。
そんなことを考えて、ふと我に返って首を振った。
「僕は何を考えているんだ」
ため息をついて、手にしていたナイフを壁に投げた。
周囲からいつも通りの歓声が上がったが、そんなことはどうでもいい。
今、フィルの頭の中にあるのは、黒髪に緑色の目をした背の高い令嬢の笑顔だけ。そして、彼女が作ってくれる塩味のシチューは本当に美味しいのだ。
絶品なのは塩味のシチューだけではない。もう一つのあの料理もいつも楽しみにしている。
「……豆料理も、また食べたいな」
フィルは低くつぶやいた。
やはりいつもより酔っていたようだ。……すぐ近くに料理長がいたことに、全く気付いていなかった。
◇
一ヶ月後。
「閣下。試作ですが、こう言うものを作ってみました!」
そう話しかけてきたのは、北部砦の男たちの胃袋を預かる料理長。職人気質の無口な男が、珍しいほど目をキラキラと輝かせていた。
装飾の類を切り捨て、頑丈さのみを追求した食堂の大きなテーブルに、料理長が運んできた皿が置かれている。フィルは皿に盛りつけられた料理をじっと見つめ、それから顔を上げた。
「……この北部で豆とは、珍しいな」
「閣下が、豆料理を食べたいとおっしゃっていましたので。豆を取り寄せることから始めたために時間がかかりましたが、いずれは閣下のお好みの料理も習得したいと思っています」
「そうか。気を遣わせてしまったようだね」
フィルは穏やかに微笑んだ。
しかし、その裏では密かに焦っていた。
王の子として生まれたフィルオードは、第三軍の指揮官としてこの地にいる。望めばどんな贅沢もかなうとしても、それはするべきではないと己を律してきた。
特に食事については、この地の文化でもあるからと否定はせず、わがままも言わずにいたつもりだ。
それなのに、いつ豆料理が食べたいと口を滑らせてしまったのだろう。
よりによって、この気候の厳しい北部で豆料理なんて、食材の調達すら難しかったはずで……。
……いや、待て。
豆、だと?!
「もしかして、あの時、近くにいたのか?」
「申し訳ありません。閣下の独り言を聞いてしまいました」
料理長は沈痛の面持ちとなって、深い反省と謝罪の念を示す。
フィルとしては、自分の父親ほどの年齢の男にこんな顔をさせてしまうのは本意ではない。それに、うっかり口に出してしまったのは自分だ。
「構わないよ。それより、この地で豆を揃えるのは苦労しただろう。感謝する」
そう言って料理に目を落とす。
皿に乗っているのは豆だ。まごうことなき豆の料理が皿に盛りつけられている。
内心の動きを全く見せない微笑みを作り、フィルは豆をすくって口に運ぶ。料理人たちが息を飲んで見守っているのを感じながら咀嚼し、ゆっくりとうなずいた。
「……うん、いいね。北部風の味付けがとても面白い」
料理長が一瞬拳をぐっと握った。見守っていた料理人たちも、ほっとした顔をしている。
できるだけ彼らを見ないように心がけながら、フィルは微笑みを残したまま全てを食べ尽くした。
◇
その後も、フィル専用の豆料理は定期的に出るようになった。
フィルの前に一皿余分に並ぶ光景は週に一度の恒例行事になっていて、今も騎士たちは興味津々で見ている。
「うーん、あのキラキラした閣下が食ってると、ただの豆料理も美味そうに見えるものなんだなぁ」
「俺も食いたくなってきた。なあ、あれ、残ってないのか?」
「すみません。閣下の分しか作っていないんですよ」
「厨房でガツガツ食ってる奴がいたぞ?」
「あれは、その……味見です」
「……あー、つまり毒味ってやつか」
「でもあいつら、絶対に毒味の役目を忘れて食っていたよな?」
周囲でそんな会話がされている中で、フィルはひたすら黙々と食べ続けていた。
騎士は国内各地から集まってきているが、料理人たちは全員が北部地区の出身者ばかり。慣れない豆を使って新たなメニューを生み出す熱意には感謝している。
わざわざ取り寄せてくれた豆に、味付けは北部風。
さらに今日は、南部風のアレンジを加えていて、なかなか独創的だ。
先月のミルク煮は意外に悪くなかった。二週前の貴重な柑橘を加え、たっぷりとしたハチミツで味つけたものは、豆料理と思わなければ美味かった。デザートとしては秀逸だと言っていい。
豆ではあるが、フィルが見たことのない種類の豆が出てきたこともある。おそらく他国の固有種だろう。
総じて味はいい。
料理人たちは間違いなく優秀で、どれも素晴らしい出来上がりだった。
「閣下。あの、料理はいかがでしょうか?」
若い料理人が、恐る恐る声をかけてきた。
今日はこの細身の青年が調理を担当したようだ。若くて研究熱心で、腕もいい。贅沢にバターを使ったパイ生地に包んだ豆は、東部の赤い野菜粉末でこってりと煮込んでいる。パリッと焼き上げたパイを破った瞬間に見えた赤色の色鮮やかさには、正直に言って感動した。
それにもちろん、下味として煮込む段階で基礎となるスープは手が込んでいる。豆を口に入れた瞬間に広がる深みは桁違いだった。味は間違いなく極上で、見栄えもよく、目にも舌にも満足させうる仕掛けがある。
皿はいつもの地味な北部産の陶器だが、爽やかなハーブをふんだんに添えているから色彩的にも美しい。
あらゆる面で工夫がこらされている。その丁寧な仕事ぶりは、フィルオードが知る王宮料理人たちにも劣らないだろう。
「いい腕だ。盛り付けもとてもよかったよ。……そういえば、見栄えのいい料理を作る料理人を探している貴族がいる。もし君が安定したお抱え料理人になることを希望しているなら、僕から推薦してもいいよ。勤務地は南寄りになるが、どうする?」
「こ、光栄です! でも僕は閣下のためにもっと料理を研究したいので、ここで修行を積ませていただきたいです!」
「そうか。では、今後も楽しみにしていよう」
フィルが微笑みながらうなずくと、若い料理人は乙女のように頬を赤らめながら厨房へと戻っていった。すぐに厨房が賑やかになったから、盛大にねぎらわれているのだろう。
フィルは微笑みを残したまま、食べかけの皿に目を落とした。
半分近く食べ進めても、まだ料理は美しい。そういう計算もしているようだ。細部まで手が混んでいて、味のバランスもいい。
この北部砦で出てきた料理の中でも、上位の美味さだろう。
それは断言できる。
「……間違いなく美味いんだ。だが……」
フィルはそっとつぶやいた。
今度は周囲に人がいないことを確かめている。だから誰にも聞かれていないし、表情にも出ていない。
不味くはない。むしろかなり美味いと思う。だが……違うのだ。フィルが至高と感じる味付けではない。
王の子たるもの、出されたものに注文をつけるべきではないし、そう己を律してきたつもりだ。だがこの微妙にツボから外れた味付けに、フィルは密かに苦悩していた。
一瞬だけ、フォークを握りしめる。
しかしすぐに力を抜いて、ひっそりため息をついた。
「……ルシアちゃんの豆料理が恋しい」
王都近辺では当たり前の、素朴な味付けの豆料理が食べたいと思ってしまう。
食べ慣れた豆料理が恋しいなんて、自分で思っていたより精神の修練が足りていなかったようだ。
未熟なせいで、料理人たちに本来なら不要だった負担を押し付けている。その上、豆料理の回数が増えたせいで、理想の豆料理を振舞ってくれる令嬢のことを思い出すことまで増えた。
面倒な事態を招いてしまったのは、自業自得だ。
「…………ルシアちゃん…………」
ため息と共に声に出してつぶいたフィルは、はっと我に返った。
いつの間にか、豆料理のことより明るい笑顔を思い出していた。笑っている時の緑色の目の輝きとか、忙しそうに歩き回る背中で揺れる黒髪の美しさを考えていた。
——違う。これはただの郷愁だ。
じわりと広がる胸の痛みは、豆料理への執着のせいでしかない。
やがて別の男に嫁いで行くことを考えると苛立ってしまうのは、あの素朴な料理が食べられなくなるからだ。
決して、あの令嬢が恋しいわけではない。恋しいのは豆料理。それ以上でも、それ以下でもない。……それ以外は考えてはいけないのだ。
心の中で必死に言い訳をしながら、フィルは残った料理を黙々と食べ続けた。
(番外編 北の地にて恋う 終)




