(6)休暇中の騎士
私が婚約破棄されて、一週間が過ぎました。
手続きは全て終わっているので、特に何かがあったわけではありません。
今までは、月に一度は王都のオーフェルス伯爵家に挨拶に行っていましたが、それがなくなったのでドレスのことで悩まなくていいようになりました。
ゴルマン様も我が家に来ないでしょうから、掃除に神経を尖らせることもなくなりました。カーテンの日焼けも、もう気にしなくていいですね。
この婚約は、お父様が病気で倒れる前の時期に頑張って整えてくれたものでした。だから生活が苦しくなっても持参金の準備を続けていたし、絶対に結婚するつもりではありました。
でもこうなったからには、私は結婚なんて縁がないのかもしれません。
……私のことは、もういいんです。
それより、もう二十五歳になっているアルベス兄様が先に結婚するべきだと思うんです。それまでは、私がお兄様とラグーレン子爵領を守らなければ!
……って、あれ?
おかしいな。
婚約破棄されて困ることなんて、ほとんどないですね。
いいことばかりじゃないですか?
「……こんなことなら、もっと早く婚約破棄してもらえばよかった」
うっかり声に出していました。
慌てて周りを見ましたが、幸い誰もいませんでした。領主の妹ともあろうものが、気が緩みすぎています。
あ、だめでした。人がいました。
そこの床で、だらっと寝転がっている人が。
「フィルさん。床で寝るのはやめてって言ったわよね?」
「ここの床は気持ちがいいんだよ。風がよく通るし、日当たりもいい」
「……でも床ですよ?」
呆れていると、フィルさんがのそりと起き上がりました。
あーあ、せっかくきれいな銀髪なのに、ぐちゃぐちゃじゃないですか。それに草の葉っぱとか土とか、いろいろついていますよ。
服にも草の汁がついています。
「外でも寝てたの?」
「アルベスと打ち合っていただけだよ。あいつ、衰えていないどころか、剣の重さは増している。木剣なのに久しぶりに本気で避けたよ」
「そうなの?」
「僕が保証する。……ほんと、惜しいよ」
ぽつりとつぶやいた顔は、とても真剣に見えました。
でも、その頭には葉っぱがついてます。それに寝癖で髪が跳ねたり変な位置でぺたんとなっていたりしていますね。
いろいろ台無しだな、と思っていたら、フィルさんがまたゴロリと床に寝そべってしまいました。
「起きたのなら、そこをどいてください。掃除をするから」
「あとで僕がしておくよ」
「そういうわけにはいかないでしょう。ほら、さっさとどいて。蹴飛ばすわよ!」
私がつま先でコツコツと大きな体を突くと、やっとフィルさんは立ち上がってくれました。
「仕方がない。馬の手入れをしてくる。干し草はもう替えた?」
「まだよ。やってもらえる? アルベス兄様は今日は一日畑仕事だと思うから」
「わかった」
手櫛で髪を直し、フィルさんは素直に外へ行きました。
せっかくのお休み中だからゆっくりしてもらいたいところですが、うちはそんなに余裕はないんです。
今回も塩と砂糖をもらったし、他にもたぶん高価なんだろうなと推測できる手土産をいろいろ持ってきてもらったから悪いとは思っています。でもそれ以上に、疲れ知らずの働き手は貴重なんです。
ごめんね、フィルさん。
そんな風に、前向きな生活が始まっていたのに。
……オーフェルス伯爵家の正式な使者が来てしまいました。
「フィ、フィルさん! アルベス兄様を呼んできてくださいっ!」
「ん? いいけど、どうしたの?」
干し草を替えてから馬にブラシをかけていたフィルさんは、手を止めました。
そののんびりした顔は、でも着替えをした上に必死な私の様子を見て、表情を引き締めて手早くブラシを片付けます。
そして、腕捲りを戻しながら厩舎から出てきました。
「お客様が、オーフェルス伯爵家からの使者が来ています! お兄様に直接手渡ししたいものがあるらしいのよ!」
「……わかった。すぐに呼んでくる。畑だったな?」
私が頷くと、フィルさんは私の頭にポンと手を置きました。
でもすぐに離れ、あっという間に走っていきました。
これでお兄様のことは大丈夫でしょう。
私はまたすぐに家に戻りました。
応接間には、オーフェルス伯爵家の紋章を身につけた男性が待っています。
正式な使者ですから、当主が対応するのはおかしいことではありません。でも、当主にしか渡せないものがあると言うのは、普通ではありません。
何かあったのでしょうか。
婚約破棄の書類に不備があったのでしょうか。あるいは……まさか慰謝料などを要求してくるつもりでは……いや、そこまでは流石に……でも……。
応接間の前の廊下でお兄様を待っている間、悪い想像ばかりをしてしまいます。
そろそろ、私もまた中に入るべきかと考え始めた頃、お兄様が早足で来てくれました。
こざっぱりと着替えを終えていて、ラグーレン子爵としての姿になっています。
でも、残念ながら髪に草の葉がついています。
お兄様が扉の前で深呼吸をしている間に、手を伸ばして小枝を除き、髪もざっくりと整えてあげました。
「……よし、行くか」
「はい」
私たちは頷き合って、扉を開けました。
「我が主人より、ラグーレン子爵にこれをお預かりしています」
オーフェルス伯爵家の使者は、アルベス兄様に一通の封書を手渡しました。
受け取りながら、お兄様は意外そうな顔を隠せませんでした。
封書は、上質な紙をさらに金で縁取った豪華なものでした。
銀で作った小さな花が封についていて、最悪な内容を伝える物には見えません。
それどころか、慶事用の形式です。
アルベス兄様は封と銀細工の花を見つめましたが、そのまま封を切りました。
私は息を呑んで見守りました。
お兄様は……何度も読み直していたようですが、やがて愕然と伯爵家の使者を見ました。
「これは」
「書いてある通りでございます」
「……いつ、こういうことになったんだ?」
「申し訳ございません。詳細は存じ上げません」
使者は淡々と答えます。
表情のない顔は、使者として完璧な姿でした。