アルベスの日常(2)
……しかし。
あの薬に関しては、考え始めると問題がある。あれは、おそらく王都で一番有名な薬師に頼み込んだものだ。
王国軍の騎士なら一度は世話になったことのある薬師で、深い知識と正確な調合術を持つ人物が手掛ける薬は、間違いなくよく効く。
あの薬師の薬は全てが高価だ。
特別な栽培をした薬草を適切な手法で採取し、細心の注意を払って製作していくのだから高価になるのも仕方がないとは思う。それにしても、王国軍の騎士にとっても、かなり痛い出費になっていた。
高価でなかったら気軽に病気になったり怪我をしたりする馬鹿どもが多発するはずで、それを思えば高い価格を設定するのは賢明な判断だろう。
だが、そんな高名な薬師の、普段は絶対に作らないであろうあかぎれ用の薬を友人は持ってきた。
しかもだ。
通常は高価さを強調するような重厚な容器に入っているのに、極めて庶民的な、どこにでもありそうな小さな陶器の器に入れさせていた。
あの薬師が、よくそんな特別な注文を受けたものだ。
騎士はもちろん貴族たちも相手にするあの薬師は、王族としての権威を振りかざしたところで言うことを聞くわけがない。鼻の先で笑われるだけだ。
なのに訳ありの友人は、そういう大業を成し遂げてしまった。
……あれは、絶対に何日も何日も頼み込んだのだ。
王弟殿下ともあろう人物が、たった一人の没落貴族の娘の手荒れのことを、切々と訴えたのだ。うんざりした薬師にとんでもない金額をふっかけられたとしても、嬉々として要求金額を積み上げ、さらに積み増しも用意したはずだ。
偏屈な薬師が、どんな顔になったのか……想像できてしまうのが怖い。
安価で平凡な器に、本来の豪華な容器に使う色鮮やかな紐を巻いていたのは、薬師のささやかな抵抗の跡だろう。
本当に、勘弁してほしい。
妹にはすでに婚約者がいて、遠くない日に嫁いでいくのだ。
ルシアの前では態度を変えないのは褒めてやりたいが、そうでなかったらあの薬の時点で出入り禁止にしていた。
しかしあの男も同情すべき点は多いから、しがらみのないラグーレンで憩わせてやりたい気持ちはある。
……いろいろ、頭が痛い。
「アルベス兄様? 難しい顔をして、どうかしたの?」
気が付くと、ルシアが心配そうに見ていた。
アルベスは自分が朝食の途中だったことを思い出し、慌てて笑顔を浮かべた。
「なんでもない。……いや、実は少しあるな。昨日の羊毛刈りのせいで、手が少し痛いんだ。だから、例の敷布の修繕を頼んでもいいか?」
「あら、そんなことを考え込んでいたの? いいわよ。お兄様よりきれいに仕上げる自信はあるから!」
ルシアは明るく笑い、お茶のおかわりを注いだ。
その熱いお茶を口元に運んだアルベスは、ふと目元に落ちてくる髪を摘んだ。
「そういえば、俺の髪も伸びてきていたな。こっちも切るか」
何気なくつぶやいた途端。
ガタン、と音を立ててルシアが立ち上がった。
「アルベス兄様。まさか、自分で切ったりはしないわよね?」
「いや、自分で切るつもりだぞ。鏡があればそんなに難しくは……」
「だめよ!」
妹の強い口調に、アルベスは続けるつもりだった言葉を飲み込んだ。
「お兄様は、前も自分で切ってしまったわよね?」
「それが普通だろう?」
「普通ではありません! お兄様は子爵なのよ! あんなに雑にバサバサ切り落とすやり方は絶対にもうやめてくださいっ!」
「……そんなに悪いことか?」
騎士隊では、ほぼ全員が自分で髪を切っていた。
だからそういうものだと思っていたし、やってみるとそれなりにできるからずっとそうしてきた。もちろん、アルベスの頭を悩ませるあの友人のような出自と地位なら、従者や専門の技士が手がけたりしているだろうが……。
しかし、アルベスが何か言う前に、ルシアの目がスッと冷たくなった。
「アルベス兄様。領主ともあろう人が、そんな無頓着な様では示しがつかないわよ。それに、お兄様の髪を見て領民たちがどれだけ嘆いていたか知らないの? 自分で切るのは禁止よ。私が切ってあげるから、絶対に一人で切らないでね!」
目は冷ややかなのに、ルシアの剣幕は激しい。
大概のことでは動じないアルベスだったが、思わず椅子の背まで身をのけぞらせてしまった。
その様子に我に返ったのか、ルシアはこほんと咳払いをして座り直した。
背筋を伸ばしたその姿勢は美しいし、お茶を飲む姿もしとやかだ。
だが、目が合った途端にまたじろりと睨まれてしまい、アルベスは慌てて目を逸らした。
「こっそり自分で切ってしまおう、なんてことは考えていないわよね?」
「わかっている。もう自分では切らない。ルシアに頼むよ。でも髪を切るなんてできるのか?」
「最近は羊飼いの子たちの髪を切っているの。練習はしているし、お兄様が自分で切るよりはきれいに仕上がるはずだから、安心して」
「では任せるよ。……しかし俺の髪なんて、どうでもいいじゃないか」
つい、小さくつぶやいてしまう。
すると、耳敏いルシアに呆れたような目で見られてしまった。
「アルベス兄様は、ご自分のことに無頓着すぎるわ。お兄様は若くて独身の子爵なのに。身支度はいつもきちんとするのに、どうして髪型には無頓着なのかしら。そう言えば、お兄様ってフィルさんとは正反対よね。フィルさんはいろいろきれいにしているのに、身支度は時々とても雑だから」
「……あいつと同列扱いなのは、少々納得できないぞ」
アルベスはムッとした顔をした。
一ヶ月前まで滞在していた客人の名前が出てくるのは、別におかしなことではない。
だが、その訳ありの友人のことで頭を悩ませていたところだった身としては、無性に腹が立つ。
と言っても、友人の名を出したルシアは全く屈託がない。今のところ、問題があるのはあの友人の方なのだ。
そう言う状況だから、ここであえて言い立てるのは大人げない。アルベスはそっとため息をつき、黙然とお茶を飲んだ。
「アルベス様、ルシア様、おはようございます!」
裏口で、元気な声がした。家事を手伝ってくれるユラナだ。
ルシアは急いでお茶を飲み干して、ユラナを迎えに出て行った。
ラグーレン家の一日はもう始まっていた。
祖父の代の借金はまだ残っていて、ルシアの結婚のための資金も心許ない。領地の復興は順調であるが、まだまだ十分ではない。
アルベスのやるべきことは山積みだ。
「よし、行くか」
アルベスは立ち上がった。
ちょうどルシアがユラナと一緒に戻ってきた。今日はユラナの娘も手伝いにきているようだった。
この様子なら、家事全般に追加された敷布の修繕も負担にはならないだろう。
テーブルに残る皿を洗い場に運びながら、アルベスはふと愛馬を思い出した。
近頃、あまり乗っていない。
そう考えた途端に何だが落ち着かなくなってしまい、ごほんと咳払いをしてから妹に声をかけた。
「ルシア。その、時間が作れたら、今日か明日に農地の見回りのついでに、少し遠くまで足を伸ばしたいんだが……」
「馬に乗るの? それはいいわね。今日の昼から出るなら、お弁当を用意しておくわよ」
「……助かる。いつも悪いな」
「農地の見回りも、領民に顔を見せて回るのも、領主の大切な務めでしょう? お兄様にしかできないことだわ。……それに、お兄様はいつも働きすぎだと思うのよ」
ルシアは笑顔を浮かべているが、その目は一瞬真剣だった。
妹の目に浮かんだ光は、思慮深い大人のものだ。
——そうだった。ルシアはもう子供ではない。
嫁ぐ日が近付いていると言うだけではなく、領主の妹として、自らいろいろな責任を負おうとしている頼もしい人間だ。
そう気付き、胸をつかれた。
妹の成長を喜びたいのに、ふと混じった寂しさを誤魔化すように、アルベスはルシアの頭に手を置く。
昔のように黒髪を撫でると、ルシアは嬉しそうに笑った。
その顔は、幼い頃の妹のままだった。
……あと少し。妹が嫁ぐ日まで一年半余。
急激に大人びてしまった妹ではあるが、まだ守っていかなければならない。
微笑み返しながら、アルベスは改めて己を奮い立たせていた。
(番外編 アルベスの日常 終)




