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【3巻4/7発売】婚約破棄されたのに元婚約者の結婚式に招待されました。断れないので兄の友人に同行してもらいます【コミカライズ】  作者: 藍野ナナカ
番外編

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アルベスの日常(1)

本編開始の一年余り前の話です。アルベス中心の番外編。



 ……カタン、と小さな音がした。

 普通なら聞き逃してしまいそうな、ごく小さな音だ。


 しかしアルベスは聞き逃さない。意識の浮上を待って目を開くことより、寝台の上で身を起こすより先に、枕の下の短剣に手を伸ばす。指先に硬い感触を覚えながら目を開けた。


 窓へと目を向けると、鎧戸の隙間からはごく僅かな明るさが忍び込んできていた。もう闇の時間ではない。太陽が姿を表すのはもう少し後だが、すでに朝と言える頃合いだ。

 ごく一瞬でそれらを認識し、アルベスは短剣から手を離して寝台の上で起き上がった。


 廊下の微かな音は、ゆっくりと階下へと移動していた。階段や廊下のどこを踏めば大きな軋み音が鳴るかを熟知していて、出来るだけ静かに歩こうとしている。

 妹のルシアだ。しばらくすると、台所のあたりから音がし始めた。窓を開け、火を起こし、薪をくべているようだ。


 軽くあくびをしたアルベスは、目元に落ちてくるダークブロンドをかきあげた。

 目覚めは悪くない。だが、いつもより遅い起床になってしまったようだ。

 原因はわかっている。

 数日前から羊の毛を刈る作業を手伝っていたせいだ。毎年の恒例行事なのだが、毛を刈る手順はともかく、羊の相手は自分で思っていた以上に緊張したらしい。腕に疲れがある気がする。


 と言っても、筋肉痛になっているくらいで、痺れているわけではない。剣を握ることには影響はないだろう。あえていうなら、針のような小さな物をつまむのは難しいかもしれない。

 間の悪いことに、今日は毛織物の敷布の修繕作業を予定していた。針を握って動かしたり、紡いだ羊毛を針穴に通す作業はうまくいかない気がする。


「……ルシアに代わってもらうか」


 アルベスは手の開閉を繰り返し、少し首をふりながら苦笑した。

 もともと針の扱いは上手い方ではない。

 敷布用の太く長い針は、武器に似ている。そう思い込むことで、なんとか妹が笑いを堪える程度の縫い目で済んでいたのだが。

 流石に、今日は素直に妹を頼った方がいいだろう。


 小さくため息をついてから寝台を降り、アルベスは手早く着替えをする。

 袖を通すのは、いつもの簡素な衣服。庶民たちが思い描く貴族のものではない。ラグーレン家は高位の貴族ではないし、華美な服装で過ごせるほど裕福な生活ではない。

 畑仕事を始めとした様々な仕事をこなすためには、洗いざらした簡素で丈夫な服がいい。貴族らしい権威を示さなければならない時だけ、それなりの格好になればいいのだ。

 アルベスはそう考えていて、自分の簡素な服装は全く気にしていなかった。


 ただし、身支度に手は抜かない。

 顔を洗い、寝乱れた髪を櫛で整え、古いが大きな鏡の前で自分の姿を確認する。

 襟元を整え、シャツの袖口などのボタンが全てはまっているかを確かめてから、アルベスは剣を手に自室の扉を開けた。



 廊下に出ると、小さな物音がはっきりと聞こえた。

 台所から聞こえている。

 妹ルシアの朝の支度は順調に進んでいるようだ。

 真っ直ぐに台所に行くことも考えたが、今朝のルシアは珍しく何か歌を口ずさんでいた。気分良く歌っているのなら、邪魔をするのは悪い気がする。アルベスは気配を殺して外に出ることにした。


 井戸で水を汲み、大きな金属製の水差しを満杯にしていく。ずしりと重くなったそれを台所に運ぶと、ルシアは窯の様子を見ながらパンを成形していた。

 楽しそうだった歌声は控えめな鼻歌になっていて、アルベスは密かにほっとした。


「おはよう。ルシア」

「あ、お兄様、おはようございます。水汲み、ありがとう!」


 声をかけると、ルシアがパッと振り返った。兄が運んできた大きな水差しを見て、すぐに嬉しそうに礼を言う。その間も手は休めない。まだ焼き上がったパンはないようだ。これから焼くのなら、もうしばらく時間はかかるだろう。

 ざっと台所の様子を確認し、アルベスは料理用の水瓶に水を移した。


「台所用はもう一回水を汲んで来るが、他のところもまだだよな?」

「うん、お願いします。それが終わったら食事にしましょう」

「わかった」


 頷いたアルベスは、空になった水差しを担いで台所を後にする。廊下でチラリと振り返ると、ルシアはパンを窯に入れていた。

 すでに燻製肉は食料庫から出ている。あれを薄く切って火で炙って、焼き上がったパンとともにテーブルに並べれば朝の食事の準備が完成する。

 まだ急ぐ必要もないはずなのに、アルベスはつい歩調を早めて井戸へと戻っていった。




 かつて、ラグーレン家はすぐ近くに広大な屋敷をもう一つ所有していた。冬は今の小さめな家に移っていることが多かったが、当時はもっと華やかな生活をしていたし、使用人の数も多かった。


 その頃に領主一家が使っていた食堂は、今はほとんど使っていない。領民が集まる時などに開放するくらいだ。

 アルベスとルシアが食事の場所として使っているのは、台所のすぐ隣の部屋だ。

 かつては使用人の控室だったが、アルベスの父親が子爵になった頃から、こちらがメインとなっている。

 部屋の作りは簡素だ。しかしテーブルを二つ並べても広さに余裕がある。


 普段の食事は頑丈さが取り柄の古くて小さなテーブルを使用する。

 日中や夕方などは、通いのユラナやその他の領民と共に席につくことはある。しかし朝の簡単な食事の時は、兄と妹の二人だけだ。

 並ぶ食事はいつも大体同じ。

 日持ちはしないが、すぐに焼き上がる薄焼のパン。薄切りした燻製肉かチーズ。それに熱いお茶。甘い焼き菓子を少し食べることもある。

 アルベスが子爵位を継いだばかりの頃は、ユラナが前日に用意してくれたパンや料理だった。アルベスが準備をしていたこともある。

 今はルシアがいろいろこなしていて、最近は焼きたてのパンが朝食に並ぶようになった。



 ルシアは働き者だ。

 毎日早く起きて、食事の支度をしてくれる。その事には感謝している。

 だが、時々不憫に思うことがある。

 アルベスは王国軍の騎士だったから、早起きも料理も掃除も苦にはならない。任務で荒地で野営することもあったことを思えば、ラグーレンの生活は恵まれている。

 それに任務は過酷ではあったが、騎士時代は若者らしく、それなりに楽しく賑やかに過ごしていた。


 だが、ルシアはそういう経験がない。

 貴族らしい贅沢な生活は望めなくても、本当は料理をこなさなければいけないような身分ではない。なのに、物心ついた頃には質素な生活が当たり前だったせいか、ルシアはなんでも自分でやろうとする。

 アルベスとしては、趣味ならともかく、日焼けしながら畑で野菜を収穫させるつもりはなかった。贅沢は無理でも、それなりに豊かな生活を保ってやるつもりだった。

 年相応に着飾らせて、王都で芝居を見たり買い物をしたり、あるいは華やかな王宮舞踏会に出たりといった貴族の娘らしい浪費も少しはさせてやりたい。

 借金のせいで、思うように叶わないが。


 ルシアはどんな仕事も厭うことがない。

 体を動かすのは好きだからと明るく笑いながら畑に来るし、鼻歌を歌いながら料理をする。バケツとタワシを手に、床掃除に熱中したりもする。

 日々の仕事を楽しんでいるのは、間違いない。


 一方で失ったものも多い。貴族の女性たちが美しい手をしているのは、そういう仕事をしないからだ。

 ルシアの手は荒れている。今はその痕が目立たなくなっているが、手の甲に火傷をしたのはパン焼きの練習中だったはずだ。料理と掃除を担う割合が上がれば上がるほど、冬場のルシアの手はあかぎれだらけになってしまう。


 だが、ルシアはそれらを苦にしない。

 施しを受ける事なく、他人にすがることもなく、全て自力で生きている証だからと笑って誇りにしている。同情されることを好まず、一人でしっかりと立ち、歩いていこうとしている。

 仕方がない。ルシアはラグーレン家の血が濃く出ていて、アルベス以上に独立を尊ぶところがある。

 だから、妹を誇ることはあっても憐れむべきではない。

 迷いそうになるたびに、アルベスはそう自分に言い聞かせている。それに、ルシアのおかげで領地の経営がずいぶん楽になったのだ。



 ただ、訳ありの友人は、アルベスほど納得していない。

 ふらりとやってきて長く滞在していくあの男は、ルシアのあかぎれを見た後、何も言わずに王都へと馬を走らせた。

 一週間後に戻ってきた手には、簡素な容器に入った塗り薬があって、ルシアに「知り合いに分けてもらった」と笑顔で押し付けていた。


 ルシアの性格をよく把握している。

 もし「買い求めた」と言ったら、絶対に受け取らないだろうことを知っている。もしルシアの誕生日が過ぎていなかったら、プレゼントにしていたかもしれない。あの男は、薬をプレゼントとして選びたくはないだろうけれど。


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