ある元メイドの含み笑い(2)
水を火にかけてからポットとカップを用意していると、外が急に騒がしくなりました。フィル様たちが乗った馬が到着したようです。
窓から覗くと、先に降りていたフィル様が、笑顔でルシア様を抱き下ろしているところでした。
「やっと懐かしい家に着いた。やっぱりラグーレンはいいな」
「フィルさん、そんなのんびりしている場合ではないんじゃないの?」
お屋敷を見上げ、大きく伸びをするフィル様を、ルシア様が心配そうに見上げます。
でも一方的な雰囲気はなく、ルシア様もとても柔らかなお顔をしているようで……。
あらあら。
つい笑ってしまいますが、お湯が沸き始めたようです。振り返って確かめていると、アルベス様が渋い顔で手綱を預かっていました。
「さっさと家に入れ。馬の面倒は見てやる」
「そうしてもらえると助かるよ」
まだルシア様の腰に手を回していたフィル様は、さり気なくルシア様の手を握りました。
「我が親友の言葉に甘えさせてもらおう。ルシアちゃん、行こうか!」
「あ、フィルさん、ちょっと待って!」
フィル様は笑顔でぐいぐいと引っ張ります。ルシア様が悲鳴の様な声を上げましたが、フィル様は楽しそうに家の中に入りました。
もう、本当に。
あの方は浮かれすぎですよ。
私は窓から離れ、ちょうど沸いたお湯をポットやカップに少し入れました。
容器を温めている間に、今朝ルシア様が焼き上げたばかりのフルーツ入りのケーキを切り分けてお皿に用意します。食べごろはもう少し後ですが、今日は今日でさっくりとしていて美味しいんですよね。
フィル様は、本当に運が良いお方です。
そうこうしていると、少し照れたようなルシア様が入ってきて、お茶の準備をします。その横顔はとても柔らかな表情で、私は何も気付いていないふりをしてお菓子を居間へと運びました。
「やあ、ユラナ。突然押しかけて悪いね」
フィル様は、王国軍のマントと上衣を脱いで気楽なシャツ姿になっていて、いつも通り私にも気軽に挨拶をしてくれました。
でも、なぜか髪もシャツも少し濡れています。
あんな格好で寒くないのでしょうかね。乾いた布を持ってきてルシア様に渡すと、ルシア様は当然のようにフィル様の後ろに回って髪を拭いていました。
昔から見慣れたお二人の姿です。
でも、なんというか、フィル様の微笑みとか、ルシア様の優しい手つきとか、本当に……要するに、私はお邪魔ですね。
でも、仕事はすませなければいけません。
私はできるだけ静かにお茶をカップに注ぎ、お二人の前のテーブルに……ルシア様はフィル様の横にお座りになるでしょうから、二つ並べておきました。
それから、そっと居間を出ていきました。
でも、お二人は結婚前。窓は寒くても開けっぱなしですし、扉もしっかり開けています。
無粋ですが、台所からでもお二人の話し声は聞こえるでしょう。
できるだけ内容までは聞かないようにしていましたが、お二人の声はやはりよく聞こえました。
フィル様はいつも通りの、きれいで穏やかな話し方をしていますし、ルシア様は呆れたような相槌を打ったり、笑ったりしています。
でも……長くお仕えしている私には、ルシア様の声がほんの少し柔らかくなっているのがわかってしまいます。
そのことに、ご自分では気付いていないでしょうね。
笑いを噛み殺しながら窓から外を見ると、アルベス様がフィル様の馬から荷物を下ろしていました。
でも時々、ちらちらとどこかを見ています。
あの場所なら、居間の様子がよく見えるはずです。当主として、兄として、お二人の様子に気を配っているのでしょう。
実は少し前から、アルベス様はお二人のご様子に神経を尖らせていました。顕著になったのは、一年前かそのくらいでしょうか。その延長で、今日も様子をうかがっているのでしょう。
でも監視をしているだけではないと思います。あの場所は、外部からラグーレンのお屋敷に近付く人馬がよく見える場所ですからね。まもなく到着するはずの追手を、少しだけでも引き止めるおつもりなのでしょう。
アルベス様は、そういうお方です。
本当にしっかりしていて、お優しくて、妹のルシア様のことを一生懸命に守っていて。そんなお方だから、村人たちはアルベス様のことを心より尊敬していますし、本当に大好きなんです。
「お母さん」
控えめな娘の声に、私は振り返りました。
馬用に水をくみ終えた娘の服は、少し濡れていました。よく働いてくれた娘を手招きして簡易な椅子に座らせ、ルシア様にいただいていた割れたクッキーを渡します。
娘は嬉しそうに一口かじり、それから私を見上げました。
「お母さん、アルベス様とフィル様って、とても仲がいいわよね?」
「ええ、そうね」
「私ね、さっき見ちゃったの。アルベス様、馬の世話をしながら急に笑ってたよ」




