(5)騎士たち
「実は、私の婚約がなくなりました」
「……は?」
ボサボサになっていた髪を手櫛で直していたフィルさんは、一瞬遅れて振り返りました。
目がまん丸になっています。ずいぶん驚いたようですね。
「なくなったって……え? でも、今日ここに来た馬車はオーフェルス家の坊ちゃんが乗っていたんじゃないのか?」
「ええ。ゴルマン様が直接、婚約破棄を言いに来ていました」
「……婚約、破棄」
私の言葉を、フィルさんは低く繰り返します。
つぶやいておいて、その響きに眉を顰めていました。
「と言うことで、アルベス兄様は落ち込んでいると思います。お酒に付き合ってあげてね」
「そのくらいは当然だが。……いや、おかしいだろう? 君たちの婚約は先代の時から決まっていたのに」
「うち、今年もお金が足りないんです。だから持参金が一括では用意できなくて」
「それだけで?」
持参金のことを、それだけと言える人は少ないです。
フィルさんは私に気を遣って、あえてそう言ってくれたのでしょう。
「他にもあるかもしれませんね。ゴルマン様は、私のことはあまり気に入っていなかったようだから」
「……それにしても、婚約破棄? ルシアちゃんを? いくら伯爵家であろうと無理筋だろうっ!」
フィルさんは額に手を当てながら呟いています。
じわり、と怒りが含まれていますね。
親身になって怒ってくれているのはありがたいです。
さて。伝えるべきことは伝えたし、フィルさんのためにも美味しいシチューを作りましょう。
「カゴ、もらっていくわね」
「……いや、僕が持つよ。結構重いから」
フィルさんは蕪を詰め込んだカゴを片手で軽々と持ち、馬の手綱も引いて、ズンズンと大股で歩き始めました。
行き先は私たちの家です。
感情のままに歩くフィルさんは、私が追いかけるのが大変なほど早足でした。
でも家が見えた頃には落ち着いてきたのか、ぴたりと足を止めました。私が追いつくと、はぁっと大きなため息をつきました。
「アルベスは家にいるのか?」
「家畜小屋よ。今日中に屋根の修理を終えないといけないから、話をするなら一緒に作業を進めながらにしてね」
「……屋根修理か。あまり得意じゃないんだよな。まあ、手伝うくらいならできるか」
フィルさんは低くつぶやいています。
口ではそう言ってますが、フィルさんは大工仕事はそれほど下手ではありません。仕上がりはアルベス兄様より綺麗なくらいです。滅多にしないので、作業時間が少し長くなるようですが。
でも二人でやるなら、家畜小屋の修理は無事に今日中に終わりそうですね。
よかったです。
夕刻より前に戻ってきたお兄様たちは、一見いつも通りでした。
家畜小屋の修理は無事に終わったようで、夕食を前に、アルベス兄様はいかに屋根の板材が腐っていたかを熱く語っていました。
フィルさんも、新たな板材を屋根まで持ち上げたりと活躍したようです。
二人とも、楽しそうに笑っていました。
ただし、それはお酒が入るまでのこと。
塩で味をつけただけの質素なシチューを美味い美味いと何度もおかわりしていたのは、まだよかった。麦酒を牛のように飲むのも許せます。
でも、フィルさんの手土産である蒸留酒を飲み始めた途端、アルベス兄様はテーブルに短剣を突き立ててしまいました。
「なんだ、あの坊ちゃんはっ! 俺の妹の何が不満だって言うんだっ!」
どうやら、ゴルマン様のことは全然収まっていなかったようです。
荒れるのは構いませんが、物に当たるのはやめてください。少しの傷で騒ぐような高級なテーブルじゃないから、別にいいんですけど。
その傷、修理するのはお兄様ですよ?
止めてもらおうとフィルさんを見ると、フィルさんは抜き身のナイフをくるくる回していました。
……え、ちょっと。
フィルさんまで何やってるんですか!
「伯爵家の後継ならともかく、あの坊ちゃんは次男だろう? 君たちを舐めすぎているんじゃないのか?」
「俺が子爵だってことを忘れているか、忘れたふりをしているんだろう。くそっ! 親父もなんであんなバカ息子との婚約を取り付けたんだよ!」
「オーフェルス伯爵家は安定しているからな。伯爵自身は、ラグーレン子爵家の価値を認めていたはずなんだが。……さては、もっと旨みのある令嬢を見つけたな」
言葉だけを聞いていると、フィルさんは冷静です。
でもナイフをくるりと回して、スパンっ!と壁に投げてしまいました。
ああ、もう。
そう言うことは王国軍の兵舎でやってくださいっ!
でも、二人が私のために怒っていることは理解しています。
だから塩茹でした豆をそっとテーブルに置いてあげました。ただし、これ以上は付き合いきれません。
「アルベス兄様。あとはお願いね。いくら酔ってもいいけど、火の始末は気をつけて」
「うん、任せてくれ!」
「……信用していいのかな。あ、蝋燭の炎を的に投げナイフをするのも禁止よ。フィルさんも、部屋はいつもの通りに用意しているから、ここで酔い潰れないようにね」
「大丈夫。この辺りは暖かいから、凍死はしないよ」
「え? そう言う問題では……まあいいか。お休みなさい」
私がそう言うと、二人が同時にざっと立ち上がりました。お酒が入っているとは思えないような直立をし、そして美しい礼をしてくれました。
王女殿下に向けるような、そう言う恭しい最高の礼です。
……うん、立派な酔っ払いですね。