(47)逃走者
「私、フィルさんが北部から戻るのは明日以降だと聞いていたわ」
「うん、明日の予定だったよ」
フィルさんは何でもないことのように言葉を続けました。
「君に早く会いたくて、ちょっと馬を飛ばしてきたんだ。途中で馬を替えていけば、旅程は短縮できるからね」
「でも、その馬は見覚えがあるわよ?」
「こいつは一番信頼できるから、あらかじめ王都に近い位置に送っておいた。おかげで追手を振り切れたよ」
……追手?
いったい今度は何をやったんですか?
出発の時と同じなら、追手は騎士隊と言うことになるのですが……。
「まさか、王都に戻る前にここに来たの?」
フィルさんは答えません。
笑顔のまま、スッと目を逸らしてしまいました。
でも私がじっと見ていると、長々とため息をつきました。
「……王都に戻ると、数日は動けないんだよ。報告もあるし、つまらない仕事を押し付けられる。兄上に捕まったら愚痴を聞かされるし、姉上には際限なく食べさせられるし、猿どもには妙に気に入られているから、またあいつらの相手をさせられる」
ほとんど独り言のような言葉は、なかなか止まりません。
最後に長いため息をついて草の上に座り込んだので、私も隣に座りました。
「フィルさんは、家族に愛されているわよね」
「……おかげさまで。でも、君は?」
フィルさんはふと顔を上げ、間近から私を覗き込みました。
「僕はルシアちゃんが好きだ。ずっと会いたかった。でも……君は?」
「え、あの……」
「少しだけ、触れていい? アルベスに殴られるようなことはしないから」
いつの間にか、深い青色の目がすぐそばにありました。
手袋を外した大きな手がゆっくりと近付き、私の頬に触れました。指の背でするりと肌を撫で、それから柔らかく笑いました。
「肌がきれいになったね。ここに派遣した連中は役に立っている?」
「え、ええ。とてもよく働いてくれるわ」
「それはよかった。手も荒れていないね。働き者の手は好きだけど、君のあかぎれは痛々しかったんだ。……ルシアちゃんの手は好きだな」
恥ずかしくなって隠そうとした手を、フィルさんは柔らかく握りしめていました。
まるで大切な宝物を触るように優しく包み込み、恭しく持ち上げて手の甲に口付けをしました。
軽く触れるだけの口付けが、二度三度と増えていきます。やがて触れる時間が長くなり、熱い吐息がかかりました。
私がびくりと震えると、宥めるように手に頬をそっと当てました。
「ごめん。これ以上はしないから。……しかし理性が焼き切れそうだ。アルベスに殴られるくらい、どうでもいい気がしてくるなぁ」
「……フィ、フィルさん!」
「ルシアちゃん、キスしていい?」
「だから、あの、アルベス兄様が来ましたからっ!」
心臓がうるさいくらいドキドキ言っているのを無視し、私は大きな声で言いました。
ようやくフィルさんは顔を上げましたが、手はまだ離してくれません。
「……ここの羊飼いたちは本当に目がいいな。それに忠義心に溢れすぎている。そろそろ、僕の味方になってくれてもいいんじゃないのか?」
そんなことをぶつぶつとつぶやいています。
でもその目は、ものすごい勢いでやってくる人馬を見ていました。
騎乗している人は大柄なのに巧みな乗馬術を見せ、風に乱れる髪はダークブロンドです。
領地の端に赴いていたはずのアルベス兄様でした。
アルベス兄様はほとんどスピードを緩めずに駆けてきて、私たちのいる井戸の前で馬を止めました。
ほぼ同時に馬から飛び降りたお兄様は、荒い息のままフィルさんの胸ぐらを掴んで立たせました。
「そういうことは控えろと言っただろう!」
「手に触っただけだよ。……しかし、君が一番早かったな。さすがアルベスだ」
「何がさすがだ!」
「実はここに来るまで、僕には三隊か四隊の追手がかかってる。地の利があるとはいえ、君が一番乗りだ。やはりもったいないから、復帰しろよ」
「復帰も何も、俺はもう一般人だぞ」
まだ肩で息をしながら、アルベス兄様は呆れた顔をしました。
「しかし、追手がかかるなんて、今度は何をしたんだ?」
「王都に着く前にここに来ただけだよ。……北から同行していた第三軍の騎士隊が一隊、途中まで迎えに来ていたのが一隊。王都の直前の道で二隊見かけたな。だから最大で四隊を振り切ってきた。馬がこいつでなかったら、さすがに振り切れなかったぞ」
「……お前、閣下と呼ばれている地位なのに、何をやっているんだ」
「僕は王の子だからね。逃げ足だけは速いんだ」
フィルさんは楽しそうに言いますが、本当の一般人でしかない私には意味がわかりません。
そんな視線を察したのか、フィルさんはアルベス兄様の手からするっと抜け出して、にっこりと笑いました。
「王族は、とにかく生き延びることが優先されるだろう? 僕は他にもいろいろできるけれど、王族の乗馬術に敵うやつなんてほとんどいないんだよ」
「……そういうものなの?」
私はアルベス兄様を見ました。
お兄様は苦笑して、風ですっかり乱れていた髪をかき上げました。
「一応、嘘ではないぞ。王国軍の騎士になったら一番にそれを教えられるし、実際に王族の方々の遠駆けの警備なんかはいつも苦労していた」
……騎士も王族も、外から見た姿とその実態とでは、かなり齟齬があるようですね。
とりあえず、騎士は蛮族で、王族は猿。
そう思っていたらちょうどいいのでしょう。そしてどちらも、一般人は深く関わるべきではありません。
でも……私はそのどちらにも関わってしまいました。




